第116話 群れを追う影
森の奥から響いた唸り声が消えても、外壁の上にいる誰一人としてすぐには動かなかった。
さっきまで何百もの魔物が地面を埋め尽くしていたのに、東の草地へ逃げていく群れの足音はすでに遠ざかっている。その代わり、一定の間隔で地面を揺らす重い振動だけが残り、音が近づくたびに北門の石壁までかすかに震えていた。
森の奥で一本の大木が傾き、隣の木を巻き込みながら倒れた。さらに手前の枝葉が大きく揺れ、何かが木々を避けるのではなく、押し分けながらこちらへ近づいていることが分かる。
「フール、壁から離れて」
リリィに腕を掴まれた。
危険なのは分かっている。それでも、あれだけの魔物が争うことさえ忘れて逃げていた理由が気になり、私はすぐには森から目を離せなかった。
次の振動が来た。
今度は外壁に立て掛けられていた槍が倒れ、石床を乾いた音が走った。直後、北門の真正面で何本もの大木がまとめて倒れ、舞い上がった土埃と枝葉の向こうに巨大な灰色の影が現れる。
四本脚の魔物だった。
肩の高さだけでも北門の半分近くあり、全身を岩のような灰色の皮膚が覆っている。頭から伸びた二本の太い角のうち片方は途中で折れ、背中には古い傷が幾重にも走っていた。
けれど、その巨体より先に目についたのは左の脇腹だった。
肉が大きく抉れ、黒ずんだ血が腹から後ろ脚まで流れている。傷は一か所ではなく、同じ幅で並んだ細長い裂け目が何本も刻まれていた。
「怪我してる……」
魔物は森を抜けたところで足を止めた。
荒い息を吐きながら北門を一度見たものの、こちらへ突進する様子はない。むしろ落ち着かない様子で何度も背後を振り返り、森の奥から音がするたびに巨体を震わせていた。
私は脇腹の傷と、その怯えた目を交互に見る。
「リリィ。あれも逃げてるんじゃない?」
リリィはすぐには答えず、魔物の脚、視線、傷の向きを順番に確認した。
「たぶん。村より後ろを気にしてる」
外壁の上にざわめきが広がった。
私たちは、あの巨体こそが森の魔物たちを追い立てていたのだと思っていた。
でも違う。
あれほど大きな魔物まで、傷を負って北から逃げてきた。
「じゃあ、何があれを……」
最後まで言えなかった。
森の奥から甲高い鳴き声が響いた瞬間、灰色の巨獣が目に見えて反応したからだ。
頭を跳ね上げ、折れた角を森へ向ける。前脚が一歩後ろへ下がり、次の瞬間には傷ついた身体を引きずるように東へ走り始めた。
「撃つな! 行かせろ!」
見張り台から指示が飛び、弓を構えていた賞金稼ぎたちが狙いを外す。
巨獣は村へ近づかず、さっき魔物の群れを逃がした草地へ入った。巨体が地面を蹴るたびに振動が伝わり、傷口から血を落としながら南東へ遠ざかっていく。
誰も追わなかった。
私も巨獣の背中ではなく、再び静まり返った森を見つめた。
木々の間で、小さな影が動いた。
さっきの巨獣を見たあとだから、最初は普通の獣にしか見えなかった。
黒い狼に似た魔物だった。
大きさは普通の狼より少し大きい程度で、四本の脚は細く、全身を覆う黒い毛にも硬い甲殻や角のようなものはない。
けれど、歩き方がおかしかった。
あれだけの魔物が我先にと逃げてきた森を、一頭だけゆっくり歩いてくる。警戒する様子も、急ぐ様子もない。
黒い獣は森を抜けると、巨獣が残した血の跡へ鼻先を近づけた。
その口元と前脚も、赤く濡れている。
私はもう一度、遠ざかっていく灰色の巨獣を見た。
脇腹には同じ幅の傷が何本も並んでいた。
そして目の前の黒い獣には、前脚の指から長く湾曲した爪が伸びている。
「あの傷……」
リリィも同じところを見ていた。
「爪の間隔と似てる」
黒い獣が顔を上げた。
こちらを見る。
距離はある。
高い外壁もある。
それなのに、真正面へ立たれたような圧迫感があった。
「壁際から下がれ」
近くの賞金稼ぎが低い声で指示し、前列にいた者たちが一斉に数歩下がった。
私も今度は素直に離れる。
黒い獣はしばらく外壁を見上げていたが、やがて興味を失ったように血痕へ顔を戻した。そのまま巨獣の逃げた東へ身体を向ける。
追うつもりなんだ。
そう思った。
そのとき、外壁の上で金属音が響いた。
一人の賞金稼ぎが震える手から矢を落としていた。
黒い獣の耳だけが、ぴくりと動く。
身体は東を向いたままだった。
「動くな」
誰かが囁くように言った。
全員が息を殺した。
黒い獣は数秒そのままでいたあと、再び歩き出そうとした。
その瞬間、恐怖に耐えられなくなった賞金稼ぎが弓を引いた。
「待って!」
矢が飛ぶ。
黒い獣は避けなかった。
額へ命中した矢が乾いた音を立て、鏃が弾かれるように折れた。
血は出ない。
外壁の空気が凍りついた。
私は黒い獣の額を見る。
硬い皮膚には見えない。
毛も普通に見える。
それなのに矢が通らなかった。
黒い獣がゆっくりとこちらを向く。
さっきまで村は、追う必要のないものだった。
今は違う。
身体を低く沈めた瞬間、私は叫んだ。
「来る!」
黒い獣の姿が消えた。
次に見えたときには北門のすぐ前まで来ている。
「速っ――」
声が追いつかない。
地面を蹴った黒い獣が一度の跳躍で石壁の途中まで届き、前脚の爪を突き立てた。石が削れ、そのまま身体を引き上げてくる。
「迎撃!」
矢と魔法が一斉に飛んだ。
黒い獣は壁を横へ蹴った。
直前までいた場所へ火球が直撃し、石片と煙が舞い上がる。黒い影はその煙を突き破り、さらに高い場所へ爪を掛けた。
速いだけじゃない。
動く直前まで、どこへ行くのか分からない。
「右!」
誰かが叫ぶ。
獣は左へ跳んだ。
槍が空を突く。
次は上へ来ると思った賞金稼ぎの頭上を越え、壁の途中へ一度下がる。
人の動きを見ている。
そう思った。
「フラン、あれ……適当に避けてないよ」
フランも黒い獣から目を離さない。
「うん。攻撃を見てから動いてる」
壁の縁へ前脚が掛かった。
屈強な賞金稼ぎが大盾を叩きつけ、黒い獣を外へ押し落とす。巨体ではないため、その一撃には耐えられず姿が壁の下へ消えた。
けれど、歓声は上がらなかった。
すぐに爪が石を削る音が聞こえたからだ。
「また来るぞ!」
前衛が盾を構え直し、後ろでは弓兵と魔法使いが位置を変える。私もフランに肩を掴まれ、階段へ下がりかけた。
その途中で、リリィが動いていないことに気づいた。
壁際からは離れている。
でも逃げてもいない。
黒い獣が残した爪痕を見ていた。
「リリィ?」
「一回目と二回目、同じところを使ってる」
壁には左右へ伸びる爪痕が残っていた。
黒い獣は好き勝手に跳んでいるように見えたけれど、壁を登るときだけは右前脚を高い位置へ掛け、そのあと左後ろ脚を強く沈ませて身体を跳ね上げている。
私はさっきの動きを思い返した。
「右に行く前も、左の後ろ脚が沈んでた」
リリィが私を見る。
「見てた?」
「うん。倒木のところで男を捕まえたときと同じ。動く前に、力を入れる場所がある」
全部が分かったわけじゃない。
でも、一つなら分かる。
「次に登ってきたら、跳ぶ直前だけは読めるかもしれない」
近くの賞金稼ぎが私たちの声を聞いた。
「どっちへ来る?」
「まだ分からない。でも左の後ろ脚を深く沈めたら、その反対へ強く跳ぶと思う!」
黒い獣が再び姿を現した。
石壁へ爪を立て、一気に登ってくる。
弓兵が撃とうとした。
「待って!」
私は思わず叫んだ。
今撃てば、また見てから避けられる。
黒い獣が壁の途中で身体を縮める。
左後ろ脚が深く沈んだ。
「右!」
今度は誰も先に攻撃しなかった。
黒い獣が右へ跳ぶ。
その先へ、待ち構えていた三本の槍が同時に突き出された。
二本は空を切った。
一本だけが脇腹を掠める。
黒い毛の間から血が飛んだ。
初めて傷を負わせた。
「当たった!」
外壁に声が上がる。
でも私は喜べなかった。
傷が浅すぎる。
それに、黒い獣は着地すると自分の脇腹を一度見ただけで、すぐにこちらへ顔を戻した。
その目が、さっきまでと違っていた。
こちらの動きを覚えている。
そんな気がした。
「フール、下へ行こう」
フランが言った。
私は一瞬だけ迷った。
ここに残れば、もう少し動きを見つけられるかもしれない。
でも私が壁の上にいれば、フランもリリィも私を気にする。賞金稼ぎたちだって、十歳の私が戦場にいれば守ろうとするかもしれない。
だったら、ここにいることが一番役に立つとは限らない。
「うん。下りる」
私はメリーを見た。
「メリー、怪我した人を助けられる?」
『できるよ!』
「じゃあ私たちは下で手伝おう。フランも――」
言いかけて止める。
フランには戦える力がある。
私が決めることじゃない。
「フランはどうする?」
「壁に残る。何かあったらすぐ下りるよ」
「分かった。リリィは?」
「もう少し見る。でも危なくなったら下がる」
私は二人へ頷き、メリーと石段へ向かった。
強い人のそばへ飛び込むことだけが、一緒に戦うことじゃない。今の私にできる場所で動いたほうがいい。
階段の下では、すでに負傷した賞金稼ぎが運ばれていた。火球の爆発で飛んだ石片が当たった人や、混乱の中で転んだ人もいる。
「メリー、あっち!」
『うん!』
私は治療場所まで人を呼び、メリーは怪我人のそばへ飛んだ。
そのとき、森から甲高い鳴き声が響いた。
さっき聞いたものと同じだった。
でも、一つではない。
少し離れた場所から二つ目が返る。
さらに奥から三つ目。
外壁の上の空気が変わった。
私は石段の途中まで戻り、森を見る。
木々の間に黒い影が現れていた。
一頭。
その横にもう一頭。
さらに奥にもいる。
黒い獣たちはすぐには村へ近づかなかった。一定の間隔を空け、最初の一頭を中心にするように森の縁へ広がっていく。
五頭。
八頭。
十頭を超える。
それでもまだ、奥の茂みが揺れていた。
私はそこで初めて、さっきまでの違和感の意味を理解した。
灰色の巨獣に残っていた傷は、一方向からつけられたものではなかった。脇腹だけではなく、背中にも、後ろ脚にも同じ幅の爪痕があった。
一頭に追われた傷じゃない。
囲まれてつけられた傷だった。
黒い獣たちは、速さと硬さだけで獲物を追うんじゃない。
群れで追い込み、逃げ道を削っていく。
さっき私たちが一頭を傷つけたことで、その群れ全体が村を見ていた。
北門の外で、黒い獣たちがゆっくりと左右へ広がり始める。
正面だけではない。
外壁に沿って、村を囲むように。
私は思わず息を呑んだ。
何百もの魔物が森を捨てた理由は、ようやく分かった。
あれは逃げていたんじゃない。
追い立てられていたんだ。
そして今度は、この村が同じように囲まれようとしていた。




