第114話 確かめた先に
沢を越えてから、男が残した痕跡は急に見つけにくくなった。
それまでは右側だけ浅い靴跡が断続的に続いていたのに、森の奥へ入るほど硬い地面や岩場を選び、途中からは何度も進む方向まで変えている。追われていることに気づき、わざと痕跡を残しにくい場所を通っているのだろう。
それでも、人が通った跡を完全に消すことはできない。木の根についた新しい泥、踏まれてまだ起き上がっていない草、低い枝に引っかかった黒い糸。それぞれ一つだけなら昨日の男と結びつけるには弱いけれど、右足を庇う歩き方と同じ方向へ重なっていけば、偶然とは考えにくくなる。
リリィは歩く速度を落とし、足元だけでなく周囲の木々や茂みまで確かめながら進んでいた。私も少し後ろを歩き、教えてもらったことを思い出しながら視線を動かしているうちに、追跡とは別の違和感に気づいた。
森が、妙に静かだった。
村を出た頃には鳥の声があちこちから聞こえ、茂みの中を小さな生き物が走る音もしていた。それが奥へ進むにつれて少なくなり、今では風が枝葉を揺らす音と、私たちが土を踏む音ばかりが耳につく。
少し前には角のある獣が茂みから飛び出してきた。私は驚いて立ち止まったけれど、獣はこちらを見ることすらせず、何度も背後を振り返りながら南へ駆けていった。
「リリィ、この森って昨日もこんなに静かだった?」
声を抑えて尋ねると、リリィも頭上を見た。
「昨日はもう少し鳥がいた。小さい魔物も見たよ」
「じゃあ、どこかに行ったのかな」
「分からない。ただ、あの獣が南へ走っていったことも覚えておこう。今はそれ以上決めない」
私は頷いた。
昨日までなら「何か怖い魔物がいるのかも」と想像していたかもしれない。でも、それではまた知らないところを自分で埋めることになる。
その直後、リリィが片手を上げた。
私とフランはすぐに足を止める。
道から少し外れた木の根元に、靴底から落ちたらしい湿った泥が残っていた。その先の棘のある低木には細い黒糸が絡み、柔らかな土には右側だけ浅く沈んだ靴跡もある。
「さっきの糸と同じ?」
「色も太さもほとんど同じ。足跡の特徴も合ってるし、泥もまだ乾ききってない」
リリィはそこで声をさらに落とした。
「昨日の男なら、近くにいる」
その一言で、追跡の空気が変わった。
私は無意識に鞄の紐を握り直した。
昨日、財布を盗まれた男から話を聞いたとき、逃げた旅人が本当に犯人なのかは分からなかった。南の街道へ行っていないという話が嘘だったことも、賞金稼ぎから逃げたことも怪しくはあるけれど、それだけでは財布を盗んだ証拠にならない。
だからリリィは追っている。
依頼された財布を取り戻すだけではなく、この男が本当に盗んだのかを確かめるために。もし違うのなら、それも含めて依頼人へ持ち帰るのが仕事なのだ。
私たちは会話をやめ、森の奥へ進んだ。
足元の枯れ枝を避け、低い草を踏まないよう歩く。さっきまで気になっていた森の静けさが、今度は嫌なほどはっきり感じられた。
やがて木々の向こうに小さな空き地が見えてきた。
中央には古びた小屋が建っている。壁板は何枚か外れ、傾いた屋根には穴が開き、片側の壁には蔦が這っていた。長く放置されているように見えるけれど、入口へ続く雑草だけが何度も踏まれ、湿った土には新しい靴跡が残っている。
その一つは、右側だけが浅かった。
リリィはすぐに近づかず、太い木の陰へ身体を隠した。割れた窓と閉じた扉、小屋の左右、それから裏へ回れそうな獣道まで確認する。
「正面から近づいたら、裏へ抜けられる」
リリィは小声で言った。
「私が右から回って裏を塞ぐ。フランはここから少し左へ移動して、正面と森へ戻る道を見てて。フールは今いる木から前へ出ないで」
「分かった」
フランが左側の木陰へ移動し、リリィは右から小屋の裏へ回っていく。私は太い幹へ身体を寄せ、メリーと一緒に閉じた扉を見つめた。
誰も喋らない。
風が吹くたびに蔦が壁を擦り、乾いた音を立てる。そのたびに扉が開いたのかと思って心臓が跳ねた。
やがて、小屋の中から何かが床へ落ちる音がした。
続いて、慌ただしく荷物を動かすような音。
フランが腰の短剣へ手を添えた。
扉が開いた。
昨日、引き渡し所で見た旅人が姿を現した。
黒い上着は泥で汚れ、肩には小さな鞄を掛けている。男は外へ一歩出たところでフランに気づき、身体を硬くした。
次に私を見る。
そして、迷うことなく小屋の右側へ走った。
そこにはリリィがいる。
「止まって」
リリィが木陰から出ると、男は急停止した。右足を庇ったせいで身体が大きく傾き、それでも転ばずに反対側へ向きを変える。
今度はフランが森へ抜ける道を塞いだ。
「昨日盗まれた財布について確認したいだけ。あなたが盗んでないなら、村へ戻って話せば終わる」
「俺じゃねえ!」
男は怒鳴ったものの、視線はリリィではなく周囲を走っていた。左にはフラン、右にはリリィ、背後には小屋があり、私のいる正面から抜けようとすれば二人の間を通らなければならない。
男の喉が動いた。
次の瞬間、足元の土を蹴り上げる。
乾いた土と枯れ葉がリリィの顔へ飛び、その隙に男がフランとは反対側の木々へ走った。
「メリー!」
呼ぶより早く、メリーが肩から飛び立っていた。
淡い光とともに風が横から吹き抜け、土埃を押し流す。
リリィもすぐに走った。
男は右足を庇いながら、木々の狭い隙間を縫うように逃げていく。枝が顔へ当たっても止まらず、何度も後ろを振り返りながら速度を上げようとしていた。
けれど、悪い右足は隠せない。
リリィは真後ろから距離を詰めず、斜め左から男の進路を削っていく。
前方に倒木が現れた。
男は左へ避ける。
そこへリリィが寄る。
男は追いつかれる直前に右へ切り返した。
悪い右足が、一瞬だけ遅れた。
リリィが踏み込み、右腕を掴む。
「離せ!」
男が身体を捻り、空いた左拳を振り上げた。
私は反射的に木陰から出かけた。
でも、止まった。
リリィは男の拳ではなく、足を見ている。
振り下ろされる直前に身体を沈め、左腕の下へ潜り込む。掴んだ右腕を前へ引かれた男が踏ん張ろうとしたところで、リリィが悪い右足を払った。
男の身体が崩れ、肩から地面へ落ちた。
すぐに背後へ回ったリリィが右腕を押さえ、追いついたフランが反対側を封じる。男は何度か身体を捻ったものの、二人に押さえられた状態では起き上がれず、やがて荒い息を吐きながら抵抗をやめた。
両手を縄で縛り終えたあと、リリィが私へ手を上げた。
それを合図に近づく。
「ちゃんと待てたね」
「途中で飛び出しそうになったけど」
「知ってる。足が動いてた」
「そこまで見てたの?」
少し悔しかったけれど、昨日なら本当に飛び込んでいたと思う。
私は捕まった男を見た。
ここまで逃げた。
嘘もついた。
それでも、それだけで盗人だと決めてはいけない。
「この人が財布を盗んだかは、まだ分からないんだよね?」
「うん。逃げた理由が盗みとは限らないから」
男の鞄を確認すると、水筒、薬、着替え、干し肉、それから少額の硬貨が入った本人の財布しか出てこなかった。
依頼人の財布はない。
「ほら見ろ! 俺じゃねえ!」
男が勢いを取り戻す。
リリィは反論せず、小屋へ視線を向けた。
「昨日、あなたは南の街道へ行ってないって言った。でも実際には行ってた。そのあと東へ逃げたのに、今日は北へ戻って、わざわざこの小屋にいる」
「休む場所が必要だったんだよ」
「この小屋を前から知ってた?」
「ああ」
「だったら、中を確認させて。嫌なら村へ戻って、引き渡し所の係員と一緒に確認する」
男は答えなかった。
ただ、小屋へ一瞬だけ目を向けた。
私はその視線に気づいたけれど、それだけで何かを決めない。
しばらくして、男が顔を背けた。
「……好きにしろ」
フランに男を任せ、私とメリーはリリィについて小屋へ入った。
中には湿った木と古い埃の匂いが籠もり、割れた窓から差し込む細い光の中を埃が漂っていた。壊れた椅子や古い木箱が壁際へ積まれている一方、部屋の奥には毛布と食料があり、最近まで誰かが過ごしていたことが分かる。
リリィはすぐに荷物を調べず、床へ目を向けた。
新しい靴跡が寝床の周囲にいくつもある。
その中で、同じ木箱へ向かう跡だけが何度か重なっていた。
「ここ、何回も行ってる」
私が言うと、リリィが頷いた。
木箱の前へ近づく。
蓋には厚い埃が積もっているのに、手を掛ける中央部分だけが不自然に薄い。さらに箱の手前には、男の靴についていたものと似た乾いた泥が落ちていた。
リリィが蓋を開ける。
中には古い布や錆びた道具が詰まっていた。
何もないように見えたけれど、一枚だけ周囲より埃の少ない布がある。
リリィがそれを持ち上げた。
下から革製の財布が現れた。
青い糸で刺繍された、小さな鳥。
昨日、依頼人が説明していた特徴と同じだった。
私は息を呑んだ。
それでもリリィは財布を開き、中まで確認する。
硬貨の下から出てきたのは、村の鍛冶屋が発行した剣の預かり証だった。そこには依頼人の名前だけでなく、剣を預けた日付、修理箇所、受け取りに必要な印まで記されている。
青い鳥の刺繍だけなら、似た財布があるかもしれない。
でも、依頼人本人の預かり証まで入っている。
「これなら……」
「うん。この財布が依頼人のものだって確認できた」
昨日から拾ってきた小さな痕跡が、そこで初めて一つの答えになった。
外へ戻って財布を見せると、男は青い鳥の刺繍を見た瞬間に黙った。
リリィは責め立てなかった。
「どうして、これが小屋にあったの?」
長い沈黙のあと、男が息を吐いた。
「……酒場で盗った」
持ち主が席を離れた隙に財布へ手を伸ばし、最初は少し金を抜くだけのつもりだった。しかし手に取ったところを別の客に見られたと思い、怖くなって財布ごと持ち去ったという。
男は以前からこの小屋を知っていた。財布をここへ隠したあと、一度は南へ向かったものの、街道で賞金稼ぎを見かけ、自分を追ってきたと思って引き返した。
「それで東へ逃げたの?」
「追手をそっちへ流したかった。時間を置いて北へ戻って、財布を取ったら別の道から逃げるつもりだったんだ」
昨日の嘘も、何度も進路を変えた理由も、小屋へ戻った理由も、それで繋がった。
けれど男は話し終えたあとも、何度も森の北側へ視線を向けていた。
「北へ戻ったのは、それだけじゃねえ」
リリィが表情を変える。
「どういう意味?」
「昨日から、この森がおかしいんだよ。鹿も小さい魔物も、みんな南へ逃げてた。北の岩場にいるはずの獣まで下りてきてた。最初は何かに怯えてるだけだと思ったけど、夜になっても戻ってこなかった」
私の頭に、ここまで来る途中の光景が浮かんだ。
少なくなっていた鳥の声。
私たちを無視して南へ走った獣。
そして、森の奥へ進むほど濃くなっていった不自然な静けさ。
「だから北へ戻るのも怖かった。でも財布を置いたままじゃ逃げられねえし、東の街道には賞金稼ぎがいる。ここへ来て、すぐ出るつもりだったんだ」
男が嘘を認めたことで、それまで別々に見えていたものが繋がり始めた。
リリィは森の奥を見た。
「村へ戻ろう。急いだほうがいい」
帰り道では、行きに見落としていた異変が次々と目についた。
枝の間に鳥の姿はほとんどなく、茂みから飛び出した小動物は私たちを警戒することさえせず、そのまま南へ走り去っていく。途中には大きな獣の足跡まであり、それも北から南へ続いていた。
村の北門が見え始めた頃には、森の静けさそのものが不気味に感じられるようになっていた。
そのとき、背後から激しい羽音が響いた。
振り返る。
振り返る。
森の奥から何十羽もの鳥が一斉に飛び立ち、黒い影の群れとなって南の空へ流れていった。先頭の鳥を追うように次々と枝葉が揺れ、少し遅れて地面の下を這うような低い振動が足元へ届く。
私は思わず立ち止まった。
「今の……何?」
誰もすぐには答えなかった。
遠くで太い木が折れたような音がしたかと思うと、今度は一度では終わらず、間を置きながら二度、三度と続いていく。風で木が倒れているのなら、こんなふうに同じ方向から少しずつ近づいてくるはずがない。
捕まえた男の顔から血の気が引いた。
「昨日は……こんな近くまで来てなかった」
その言葉が終わるより早く、右手の茂みが激しく揺れた。
フランが私の前へ出て短剣へ手を掛け、リリィも男の縄を掴んだまま身体の向きを変える。ところが飛び出してきたのは、私たちを襲おうとする魔物ではなかった。
大きな角を持つ四足の獣だった。
身体のあちこちに枝や葉を絡ませ、口元から泡を垂らしながら走っている。私たちの姿を見ても速度を落とさず、すぐ横を駆け抜けて南へ消えていった。
その後から、さらに二頭が飛び出してくる。
どれも同じだった。
こちらを襲おうとはしない。それどころか、私たちがいることさえ気にしていないように、ただ北から遠ざかろうとしている。
「逃げてる……」
ここへ来る途中で見た獣もそうだった。
鳥が減っていたことも、小さな魔物が南へ移動していたことも、男が昨日から感じていた異変も、全部同じ方向を指している。
リリィもそれに気づいたらしく、北の森を見つめた。
「急ぐよ。村まで走れる?」
最後の言葉は捕まえた男へ向けられていた。
「右足が……」
「フラン、反対側をお願い。私がこっちを支える」
二人が男の身体を左右から支え、私とメリーが先に立った。北門まではもう遠くない。
走り始めると、背後から聞こえる音がさらに増えていった。
枝が折れ、茂みが揺れ、複数の足音が森の中を南へ流れている。それらとは別に、もっと重く、ゆっくりとした振動が一定の間隔で地面を伝ってきた。
何かがいる。
でも、振り返っても木々に遮られて姿は見えない。
それが余計に怖かった。
ようやく北門がはっきり見えたところで、こちらに気づいた賞金稼ぎが大きく手を振った。
門の内側にはオラクルもいる。
「遅えぞ! 何やってやがった!」
「オラクル!」
返事をしながら走る。
そのとき、背後で今までとは比べものにならない音が響いた。
どおん、と地面まで震わせる音に驚いて振り返ると、森の奥で大木の上半分が大きく傾き、そのまま隣の木々を巻き込みながら倒れていくところだった。
鳥の群れがさらに空へ噴き出す。
その下では、何頭もの魔物が我先にと南へ走っていた。
「門を閉める準備をしろ!」
見張り台から怒鳴り声が飛ぶ。
北門の周囲にいた賞金稼ぎたちが一斉に動き出し、巨大な木製の扉へ集まっていく。
私たちは門を潜った。
最後に男が中へ入ると、待っていた賞金稼ぎがその身柄を引き受ける。リリィは財布も一緒に渡したけれど、今は誰も盗難事件の解決を喜んでいる場合ではなかった。
「何があった?」
オラクルが聞く。
リリィは息を整えながら、森で見たことを手短に説明した。
昨日から鳥や獣が南へ逃げていたこと。
北の岩場にいるはずの魔物まで森へ下りていたこと。
そして今、その数が急激に増えていること。
オラクルの表情から、いつもの軽さが消えた。
「魔物が村を襲いに来てるんじゃねえのか?」
「違うと思う」
リリィは迷わなかった。
「こっちを見ても襲ってこなかった。みんな同じ方向へ逃げてる」
私も北門の隙間から外を見る。
森から次々と飛び出してくる魔物は、確かに村を目指してはいなかった。門の前を横切り、そのまま南へ走り去っていく。
だったら、あの魔物たちは何から逃げているんだろう。
答えを考えた瞬間、足元へまた振動が届いた。
今度は、さっきより近い。
閉じかけた門の向こうで木々が大きく揺れた。
一か所ではない。
森の奥からこちらへ向かって、順番に揺れが近づいている。
私は無意識に一歩後ろへ下がった。
「リリィ……」
「うん」
リリィも同じ場所を見ていた。
大木が一本、何かに押されたように傾いた。
その向こうは暗くて見えない。
けれど、次の木も揺れた。
さらに、その手前の木も。
森にいた生き物たちは、昨日からずっと逃げ続けていた。
私たちにはまだ姿さえ見えない、北から近づいてくる何かから。




