第111話 見えているもの
リリィと別れたあと、私たちは予定どおり村の引き渡し所へ向かった。
昨日の情報屋が薄暗い部屋いっぱいに紙と記録を抱え込んでいたのに対し、こちらは朝から人の出入りが激しかった。両手を縄で縛られた男を連れてくる賞金稼ぎもいれば、討伐した証拠らしい魔物の角を受付へ置き、職員が長さや傷の位置を一つずつ確認するのを黙って待っている人もいる。
入口近くの壁には、新しく発行された手配書と回収済みの依頼が分けて貼られていた。その横では受付の職員が賞金稼ぎから聞き取った内容を帳面へ書き込み、別の職員が持ち込まれた証拠と照らし合わせている。
昨日までの私なら、捕まえられた人や大きな魔物の角ばかり見ていたと思う。
でも今は、その周りにいる人たちが何をしているのかも少し気になった。
「ここも情報がいっぱいあるんだね」
「金を払う場所だからな。適当な報告で賞金を出してたら、偽物持ち込む奴だらけになる」
オラクルは受付の列を眺めながら、タバコを取り出しかけた。すぐ横に《火気厳禁》と書かれた札を見つけると、見るからに嫌そうな顔で懐へ戻す。
「捕まえたって言うだけじゃ駄目なの?」
「駄目に決まってんだろ。顔、傷、持ち物、使ってた武器。依頼によっちゃ本人しか知らねえ情報まで照合する。死人ならもっと面倒だ」
「賞金稼ぎって、戦うより調べてる時間のほうが長そう……」
「相手によるが、見つけられなきゃ戦うところまで行かねえからな」
その言葉を聞いて、朝のリリィを思い出した。
大勢の人が踏み荒らした地面から、一人分かもしれない足跡を探していた銀髪の少女。私にはただの泥にしか見えなかったものから、左脚の古傷まで読み取っていた。
私とリリィでは、同じ場所を歩いていても見えているものが全然違う。
そのことが、少し悔しくて、かなり面白かった。
フランはオラクルと一緒にTIMEの報告記録を調べることになり、私はメリーと近くの長椅子で待つことにした。右足はかなり良くなっていたけれど、昨日歩きすぎたせいか、朝より少し重くなっている。
リリィなら、また一目で気づくのだろうか。
そう思ったところで、自分がさっき会ったばかりの女の子をずいぶん気にしていることに気づいた。
『リリィのこと考えてる?』
膝へ降りてきたメリーに聞かれ、私は少し驚いた。
「なんで分かったの?」
『さっきから入口ばっかり見てるから』
「……私も分かりやすいのかな」
『すごく』
即答された。
リリィなら歩き方や杖の跡を見る。
メリーは顔を見る。
それなら私は、何を見ているのだろう。
そんなことを考えていると、受付の近くで突然大きな声が上がった。
「だから、俺じゃねえって言ってるだろ!」
見ると、若い男が職員二人に囲まれていた。
二十歳くらいだと思う。旅人らしい茶色い上着を着て、背中には大きな荷物を背負っている。腰に武器はなく、怒ってはいるものの、職員へ殴りかかろうとしている様子もなかった。
男の前には、一枚の手配書が置かれていた。
「昨日、南の街道で荷馬車から財布を盗んだ男と服装が一致してる。目撃者は茶色い上着、灰色の鞄、右頬に傷がある若い男だと言っている」
職員が説明すると、男は自分の頬を指差した。
確かに細い傷がある。
「こんな傷、旅してりゃ珍しくもねえだろ! 俺は昨日の夕方まで北の森にいたんだ。村へ着いたのだって夜だぞ!」
「それを証明できる人間は?」
「一人で歩いてたんだからいるわけねえだろ!」
周囲の賞金稼ぎたちが少しずつ集まり始める。
私は長椅子から立ち上がった。
「フール」
少し離れた場所からオラクルに呼ばれる。
「首突っ込むなよ」
「まだ何もしてないよ」
「立っただろ」
「見るだけ!」
本当に見るだけのつもりだった。
でも、男は困っているように見えた。
怒鳴っているけれど、その声には怒りだけではなく焦りが混じっている。何度も周囲を見て、誰か助けてくれる人はいないか探しているようだった。
「本当に盗んでないのかな」
私が呟くと、いつの間にか横へ来ていたフランが言った。
「分からない。服装は合ってるみたいだけど、それだけじゃね」
「聞いてみればいいのに」
「本人はやってないって言うだろ」
「じゃあどうするの?」
フランが答えるより先に、背後から声がした。
「靴を見ればいい」
振り返る。
銀色の短い髪があった。
「リリィ!」
思わず大きな声を出してしまった。
リリィは私ではなく、囲まれている男を見ている。朝に追っていた賞金首はどうしたのか聞きたかったけれど、その横顔があまりにも真剣だったので、今はやめた。
「靴って?」
私が小声で聞くと、リリィは男の足元から視線を外さないまま答えた。
「昨日の夕方まで北の森にいたって言ったでしょ。北側は昨日の朝に雨が降ってる。この村の南は降ってない」
私は男の靴を見る。
泥がついていた。
でも、それ以上は分からない。
リリィは少し近づき、男の靴底を確認した。触りはせず、付着している泥と小さな草の欠片を目で追っている。
「泥が赤くない。北側の森の土に近い色だし、細い葉もついてる。少なくとも、南の街道だけ歩いてきた靴じゃない」
「じゃあ、この人は犯人じゃないんだ!」
私が言うと、リリィがすぐこちらを向いた。
「まだ分からない」
まただ。
「でも今――」
「北へ行ったことがあるのは分かる。でも、昨日の夕方までいた証明にはならないでしょ。前の日についた泥かもしれないし、途中で靴を替えた可能性だってある」
私は口を閉じた。
少し前の私なら、泥の色が違うと聞いた瞬間に、この人は犯人ではないと決めていた。
リリィはそうしない。
男が困っているかどうかも、怒っているかどうかも関係なく、見つけたものだけを一つずつ並べている。
「他には?」
フランが聞いた。
リリィは男をしばらく見たあと、今度は背負っている鞄へ視線を移した。
「昨日、財布を盗んだ人は荷馬車から飛び降りて逃げたんだよね?」
職員が頷いた。
「目撃者の話ではな」
「高さは?」
「荷台だから、それほど高くない。だが走行中だった」
リリィは男の鞄を指した。
「この人、割れ物を運んでる」
男が驚いた。
「なんで分かる?」
「歩くたびに中で硬い物同士が当たってる。でも布を巻いてるから音が鈍い。それに鞄を下ろすときだけ、ずっと右手を底へ回してる」
言われて初めて気づいた。
男はさっきから荷物を下ろしていない。怒鳴っている間も、背中の鞄だけは壁へぶつけないよう身体の向きを変えていた。
「中身を見せてもらえる?」
職員が尋ねる。
男は少し迷ったあと、鞄をゆっくり下ろした。
中から出てきたのは、小さなガラス瓶だった。
何十本もある。
それぞれ布で包まれ、木の仕切りへ収められている。
「薬売りか?」
「行商だよ。北の村で薬を仕入れて、南へ運んでる」
男は苛立ったように答えた。
リリィは瓶そのものより、仕切りを見ていた。
「全部埋まってる」
「それが?」
私は聞いた。
「走ってる荷馬車から飛び降りたら、何本か割れる可能性が高い。鞄を置いて盗んだなら別だけど、目撃された男は灰色の鞄を背負ったまま逃げたんでしょ?」
職員の顔が変わった。
「確かにそうだ」
「だからこの人じゃない!」
今度こそ言った。
リリィがこちらを見る。
私は先に言い直した。
「……可能性が高くなった?」
「うん」
少しだけ満足そうに見えた。
でも、その直後だった。
「いや、俺じゃないって!」
男が焦ったように言う。
さっきまでより声が大きい。
私はそちらを見る。
リリィも見た。
そして、なぜか黙った。
「どうしたの?」
答えない。
男の顔ではなく、手を見ている。
右手。
指先。
そこから視線が袖へ移り、最後に首元で止まった。
「あなた、昨日南の街道にも行った?」
男の顔が固まった。
ほんの一瞬だった。
でも私にも分かった。
「行ってない」
返事が遅かった。
リリィは近づかない。
「右手に赤い粉がついてる。南の街道沿いにある赤土と同じ色。それだけなら荷物についた可能性もあるけど、首の後ろにもついてる」
男が反射的に首へ手をやった。
その動きを見た瞬間、周囲の賞金稼ぎたちの空気が変わった。
「北から来たあと、南にも行ったんだね」
「違う。これは――」
「行ったかどうか聞いてるだけ」
リリィの声は変わらなかった。
怒ってもいない。
責めてもいない。
だからこそ、男の焦りだけが目立った。
「……行ったよ」
しばらくして、男が認めた。
「昨日の夜、村へ着く前に南側の街道を少し通った。でも財布なんて盗んでねえ。言ったら疑われると思ったから黙ってただけだ」
私は混乱した。
さっきまで、この人は犯人じゃないと思っていた。
今度は嘘をついた。
「じゃあ犯人なの?」
思わず聞くと、リリィはまた首を横へ振った。
「嘘をついたことと、財布を盗んだことは別」
その一言で、私は何も言えなくなった。
リリィは最初から変わっていない。
この人が犯人だとも、犯人ではないとも決めていない。
靴。
泥。
鞄。
瓶。
指先。
一つずつ確かめているだけだ。
「目撃者にもう一度確認したほうがいい」
リリィは職員へ言った。
「服と鞄と頬の傷だけじゃ足りない。走り方とか、身長とか、声とか、他に見たものがあるかもしれないから」
職員は頷き、別の人間へ指示を出した。
結局、その男はすぐには解放されなかった。
でも罪人として牢へ入れられることもなく、目撃者の再確認が終わるまで別室で待つことになった。
私はその背中を見送りながら、妙な気持ちになっていた。
「フールなら、最初にどうしてた?」
突然リリィに聞かれた。
私は少し考えた。
「たぶん……あの人が困ってたから、話を聞いたと思う」
「それから?」
「本当に北の森にいたって言われたら、信じたかも」
「どうして?」
「だって、すごく必死だったし」
リリィは何も言わなかった。
馬鹿にされると思ったけれど、そうではなかった。
「リリィは?」
私から聞き返す。
「必死かどうかは見ないの?」
「見るよ。でも、必死だから本当のことを言ってるとは限らない。嘘をついてる人だって必死になるから」
その答えは、少し寂しく聞こえた。
私は男が消えた扉を見る。
リリィがいなければ、私はたぶん最初の印象だけで決めていた。
でも、リリィだって最初から全部分かっていたわけではない。泥の色を見ても犯人ではないと決めず、嘘を見つけても犯人だとは決めなかった。
「リリィって、人を信じないんだね」
考えるより先に口から出た。
リリィの表情が止まった。
私はすぐに、言い方が悪かったかもしれないと思った。
でも、もう遅い。
リリィは怒らなかった。
少しだけ視線を落とし、静かに答えた。
「信じて間違えるより、確かめたほうがいいから」
それだけだった。
なのに、その言葉の奥に何かがあるような気がした。
私にはまだ、それが何なのか分からない。
「私は逆かも」
「何が?」
「信じてから、違ったら考える」
「危ないよ、それ」
「よく言われる」
「直さないの?」
「全部は直さなくていいかな」
リリィが初めて、少しだけ困ったような顔をした。
私たちは同じ男を見ていた。
同じ声を聞いていた。
それなのに、見えていたものはまるで違った。
どちらが正しいのかは、まだ分からない。
でも私は、この銀髪の女の子が見ている世界を、もう少しだけ知りたいと思った。




