第106話 炎を喰らう短剣とグランドバイツ
黒龍王の炎が少年へ激突した。
そう見えた。
私は思わず目を閉じかけたけれど、次に起きた光景が理解できず、そのまま炎の中を見つめていた。
少年の身体が燃えていない。
光る短剣へ炎が触れた瞬間、巨大な火炎の流れが不自然に歪んでいた。
左右へ弾かれているわけではない。
短剣へ向かって吸い込まれている。
「炎を……吸ってる?」
黒龍王が吐き続ける炎は少年の目前で細く絞られ、渦を巻きながら刀身へ流れ込んでいた。
短剣の光が強くなる。
白。
橙。
そして、黒龍王の鱗の隙間を流れているものと同じ深い赤。
吸収される炎が増えるほど刀身の周囲の空気が激しく揺らぎ、少年の腕も小刻みに震え始めた。
無傷で吸収しているわけではなかった。
炎そのものは短剣へ消えているけれど、凄まじい熱と圧力までは完全に消せないらしい。少年の靴が石床を擦り、身体が少しずつ後ろへ押されていく。
一歩。
さらに半歩。
それでも少年は短剣を下げない。
歯を食いしばり、両腕で柄を握り直す。
「まだ……だ」
黒龍王はさらに胸を膨らませ、炎の勢いを強めた。
轟音が空洞を埋め尽くす。
少年の足元の石床が熱で赤く変色し、靴の周囲から煙が上がる。それでも、少年の正面だけは炎が届かず、すべてが短剣へ飲み込まれていった。
オラクルが小さく息を呑んだ。
「とんでもねえ武器だな……。だが、あいつ自身が先に潰れるぞ」
私にも分かった。
少年の右腕から血が流れている。
さっき岩を受けた左肩だけではない。短剣へ流れ込む力を抑え込んでいる右手の皮膚まで裂け、指先から赤い血が落ちていた。
それでも少年は黒龍王から目を逸らさなかった。
やがて、炎の勢いが落ち始める。
第106話 必殺(続き)
黒龍王の喉を走っていた赤い光が弱くなり、白かった炎の中心も少しずつ赤へ戻っていく。あれほど空洞全体を照らしていた炎の奔流が細くなり始めると、それまで後ろへ押され続けていた少年の足が、ようやく石床の上で止まった。
それでも短剣は炎を吸収し続けていた。
刀身には黒龍王から奪った膨大な熱が凝縮され、赤い光が脈打つたびに周囲の空気が歪んでいる。少年の右腕は限界に近いらしく、肩から指先まで細かく震えていたけれど、ここまで吸収した力を逃がさないよう両手で柄を握り締めていた。
やがて黒龍王が最後の炎を吐き切った。
ゴォォォ……という轟音が急速に弱まり、最後に散った火の粉まで短剣へ吸い込まれる。突然静かになった空洞には、焼けた岩がぱちぱちと割れる音と、大量の蒸気が噴き上がる音だけが残った。
黒龍王も異変に気づいたらしい。
自分が吐いた炎が目の前の人間を焼き尽くすどころか、一つ残らず奪われた。その事実を理解したように頭を低くすると、巨大な翼を開き、今度は炎ではなく身体そのものを武器にして少年へ突進しようとした。
一歩踏み出しただけで石床が割れる。
少年との距離は三十メートルほど。
あの巨体なら、ほんの数秒で届く。
「逃げて!」
思わず声が漏れた。
少年の耳が僅かに動いた気がしたけれど、こちらを振り返ることはなかった。
それどころか、逃げるどころか一歩前へ出た。
左足を前へ。
右足を後ろへ。
腰を落とし、膨大な炎を吸収した短剣を身体の右側へ引く。
構えが変わった。
さっきまで黒龍王の攻撃を受け流し、隙を探していた剣士ではない。
ここで終わらせるつもりだ。
黒龍王が地面を蹴った。
巨大な身体が加速するたび、前脚が石床を砕き、黒い岩片が左右へ弾け飛ぶ。翼まで半分開いているため、岩柱の間を埋め尽くすほどの巨体が少年へ迫っていった。
それでも少年は動かなかった。
残り二十メートル。
短剣の赤い光がさらに強くなる。
残り十五メートル。
刀身の周囲へ圧縮された炎が渦を巻き、その熱で足元の石が赤く変色する。
残り十メートル。
黒龍王が口を開き、少年の身体をそのまま噛み砕こうと巨大な牙を剥き出しにした。
その瞬間、少年が短剣を振り抜いた。
「――《グランドバイツ》!」
世界が揺れた。
短剣に蓄積されていた黒龍王の炎が、そのまま火炎として放たれたわけではなかった。
少年が横薙ぎに振り抜いた刃の軌道から、圧縮されていた膨大な力が一気に解放される。赤白い光をまとった衝撃波が石床を深く抉りながら扇状に広がり、正面から突進してきた黒龍王へ叩きつけられた。
ドゴォォォォォォォォォンッ!!
黒龍王の頭部が跳ね上がった。
巨体が止まる。
あれだけ勢いよく突進していた何十メートルもの身体が、真正面から見えない巨大な壁へ激突したように押し返されていた。
けれど、《グランドバイツ》はそこで終わらなかった。
最初の衝撃が黒龍王の頭部と胸を打ち抜いた直後、その後ろから二重、三重に圧縮された衝撃が追いつく。黒い鱗の隙間へ赤い光が入り込み、表面では耐えていた鱗が内側から次々と浮き上がった。
黒龍王が翼を広げて踏みとどまろうとする。
右前脚の鉤爪が石床へ深く食い込み、何本もの亀裂を作った。
それでも止まらない。
少年が吸収したのは、もともと黒龍王自身が吐いた最大級の炎だった。
その膨大な力へ短剣と少年自身の一撃を重ね、衝撃へ変換して撃ち返している。
「うそ……黒龍王が押されてる……!」
黒龍王の前脚が一本、地面から浮いた。
続いてもう一本。
巨大な身体が完全に後ろへ傾く。
最後の衝撃が胸部へ突き抜けた瞬間、黒龍王の巨体が地面から離れた。
何十メートルもある龍が吹き飛んだ。
背中から岩柱へ激突し、一本目をへし折る。そのまま二本目まで巻き込み、砕けた岩と大量の砂煙を撒き散らしながら空洞の奥へ倒れ込んだ。
ズズゥゥゥゥゥン……!!
地面が大きく揺れた。
私は反射的に岩壁へ手をつき、オラクルも車椅子の両輪を押さえて転倒を防ぐ。天井から細かな石が雨のように降り、メリーが私たちの頭上へ小さな障壁を広げてくれた。
砂煙の向こうで、黒龍王の翼が一度だけ動いた。
長い尾が石床を擦る。
もう一度起き上がるのかと思い、私は息を止めた。
けれど、それ以上は動かなかった。
黒い鱗の隙間を流れていた赤い光が、胸から尾へ向かって少しずつ消えていく。最後まで赤く残っていた両目からも光が失われ、巨大な頭が砕けた岩の上へゆっくり沈んだ。
黒龍王が倒れた。
たった一人の少年が。
私はしばらく何も言えなかった。
黒龍王の炎を受け止めたのではない。
避けたのでもない。
敵自身の最大攻撃を短剣へ吸収し、その力を《グランドバイツ》として撃ち返して倒した。
さっきまで五匹の小さな竜から逃げ回っていた自分たちとは、戦っている場所そのものが違うように感じた。
「……すごい」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
ところがオラクルは黒龍王ではなく、少年を見ていた。
「フール、まだ出るな」
「え?」
「戦いが終わったからって安全とは限らねえ」
少年は《グランドバイツ》を放った姿勢のまま動いていなかった。
やがて短剣を下ろすと、大きく息を吐く。
右腕から力が抜け、刃先が石床へ触れた。
かなり消耗している。
それでも少年は倒れなかった。
左肩から流れている血を確認し、服の一部を裂いて傷口へ巻き始める。手慣れた動きで止血を終えると、今度は倒れた黒龍王へ慎重に近づいた。
完全に死んでいることを確認しているようだった。
そのとき、メリーが私の肩で僅かに動いた。
岩へ小さな靴が触れた。
コツッ。
本当に小さな音だった。
でも、少年の反応は速かった。
黒龍王へ向けていた顔が、こちらへ向く。
「伏せろ!」
オラクルの声とほぼ同時だった。
少年が短剣を振った。
吸収した炎はほとんど使い切っている。それでも刃から鋭い風の斬撃が飛び、私たちが隠れていた岩の上部を切り裂いた。
ギィンッ!
頭上から岩の欠片が落ちる。
私は咄嗟にしゃがみ、メリーも髪の間へ潜った。
「誰だ」
さっきまでとは声まで違っていた。
低く、冷たい。
十五歳くらいの少年とは思えないほど鋭い殺気が、岩越しにこちらへ向けられている。
「出てこい。次は外さない」
私は怖くなってオラクルを見た。
「どうするの……?」
「隠れ続けたら敵だと思われる。俺が先に――」
「待って。私が行く」
「おい」
「向こうも怪我してる。戦うつもりがないって分かってもらわないと」
私は杖をつきながら立ち上がった。
両手が見えるよう、武器らしいものは構えない。右足へ負担を掛けないようゆっくり岩陰から出ると、少年の短剣がすぐにこちらへ向けられた。
その瞬間、肌が粟立った。
黒龍王へ向けていたものとは違う。
明確に私を敵として見ている目だった。
私は足を止めた。
「待って! 私たち、あなたと戦うつもりは――」
少年の表情が変わった。
私の顔を見る。
次に杖。
怪我をしている右足。
赤いツインテール。
最後に、岩陰からこちらを心配そうに覗いているメリーへ視線を移した。
殺気が消えた。
本当に一瞬だった。
少年は短剣を下ろし、驚いたように私を見た。
「……女の子?」
「う、うん」
「しかも俺よりずっと年下じゃないか。悪い、敵の仲間かと思った」
さっきまで黒龍王と殺し合っていた人とは思えないほど、声が普通に戻っていた。
私はようやく息を吐いた。
「びっくりしたよ! いきなり岩が切れたんだから!」
「だから謝ってるだろ。こんな洞窟の最深部近くに子供がいるなんて思わない」
「子供って……あなたもそんなに大人じゃないでしょ?」
少年は一瞬黙った。
「十五だ」
「やっぱり!」
「何がやっぱりなんだよ」
そのやり取りを聞いていたオラクルが、ようやく岩陰から車椅子で出てきた。
「殺し合いにならなくて結構だ。こっちはフール。俺はオラクル。ちっこいのがメリーだ」
『ちっこくない』
「いや、ちっこいだろ」
少年はタバコを咥えた猫が車椅子で現れたことのほうに驚いたらしく、数秒だけオラクルを凝視していた。
「……喋る猫?」
「黒龍王倒した直後の感想がそれかよ」
私は思わず笑ってしまった。
張り詰めていた空気が、ようやく少しだけ緩んだ。
少年は短剣を鞘へ戻すと、私たちを順番に見てから名乗った。
「フランアーデル。フランでいい」
それが、私とフランアーデルさんとの最初の出会いだった。




