第105話 黒龍王と金髪の剣士
黒龍王
その名前が頭から離れないまま、私は咆哮が響いてきた通路の奥を見つめていた。
さっき遭遇した五匹の竜も十分に恐ろしかったけれど、今の声はまるで違う。鳴き声が大きいというだけではなく、空気を通して胸の奥まで震わせるような重さがあり、一度聞いただけで身体が勝手に「近づいてはいけない」と判断しているようだった。
もう一度、地面が揺れた。
今度は足音ではない。遥か奥で何か巨大なものが岩へ叩きつけられたような衝撃が走り、数秒遅れて乾いた破砕音が通路を抜けてくる。天井から落ちた小石がオラクルの車椅子の横へ転がり、メリーも私の肩で小さく身を縮めた。
「……誰か、戦ってるよね」
「ああ。さっき見つけた焦げ跡も刃物の傷も、たぶんこの先から続いてる」
オラクルも普段の軽い口調を消し、暗闇の奥を見たまま答えた。
私は一度、来た道を振り返った。塞がれていた古道を抜ければ分岐まで戻れるし、そこから入口へ向かう道も覚えている。ここで引き返しても誰にも責められないし、右足が完全には治っていない今の状態なら、そのほうが正しいのかもしれない。
それでも、壁に残っていた新しい刃の跡が気になった。あれをつけたのが人間なら、この先で黒龍王らしき何かと戦っている可能性がある。
「少しだけ確認したい。もし誰かが戦ってるなら、怪我して動けなくなってるかもしれないし」
「言うと思ったぜ。ただし勘違いすんなよ。助けに飛び込むんじゃなく、まず状況を見るだけだ。俺たちじゃどうにもならねえ相手だったら、その場で引く」
「うん。絶対に無理はしない」
「それと、お前は右足で走れねえ。逃げることになったら俺たちより遅れるんだから、いつもより早く引くぞ」
私は右足へ視線を落としてから頷いた。さっき五匹の竜から逃げられたのも、メリーの《精霊障壁》とオラクルの道具、それに偶然持っていた《肉の笛》があったからだ。同じ幸運がもう一度続く保証なんてない。
メリーも肩から飛び立ち、私の顔の前で真剣な表情を浮かべた。
『フール、危なくなったら帰る』
「約束する。メリーも一人で先へ行かないでね」
『うん』
灯りをできるだけ弱くし、私たちは咆哮が聞こえた方向へ進み始めた。
古い石板の通路は緩やかな下り坂になっており、奥へ進むほど戦闘の痕跡が増えていく。壁には鋭い刃物で切られたような傷だけでなく、直径一メートルほどの岩が真ん中から割れた跡や、床の石板が何枚もまとめて陥没した場所まであった。
やがて前方の暗闇が一瞬だけ赤く染まり、遅れて腹の底へ響くような轟音が届いた。
熱を帯びた空気も流れてくる。
湿った洞窟の中にいるはずなのに頬がじんわり熱くなり、壁を伝っていた水も途中から消えていた。
その先で通路が大きく右へ曲がっている。
オラクルが片手を上げたので、私はすぐに足を止めた。
「灯りを消せ。ここから先は向こうの光だけで見る」
灯りを消しても完全な暗闇にはならなかった。曲がり角の向こうから赤い光が不規則に漏れ、何かが燃えるたびに黒い岩壁がぼんやり浮かび上がっている。
オラクルは車椅子を壁際へ寄せ、私はその横で身体を低くした。メリーも私の赤いツインテールの間へ潜るようにして姿を隠す。
少しずつ角へ近づき、岩壁の向こうを覗いた瞬間、私は思わず息を止めた。
そこには、これまで歩いてきた洞窟とは比較にならないほど巨大な空洞が広がっていた。
端から端までどれほどあるのか、暗くて正確には分からない。天井も高すぎて見えず、ところどころから巨大な鍾乳石が槍のように垂れ下がっている。床には何十本もの岩柱が立ち、その間を地下水が細い川となって流れていた。
けれど、中央付近だけはまるで別の場所だった。
地面は広範囲にわたって黒く焼け、何本もの岩柱が途中から折れている。地下水が流れ込んでも焼けた床へ触れた瞬間に白い蒸気を上げており、その蒸気が薄い霧となって空洞全体へ漂っていた。
その向こうで、何か巨大なものが動いた。
最初に見えたのは脚だった。
一本だけで私の身体より太く、黒い鱗が何層にも重なっている。鉤爪は一本一本が剣のように長く、踏み出しただけで石床へ深い亀裂が走った。
続いて、長い尾が蒸気を薙ぎ払う。
その先端が岩柱へ触れた瞬間、私たち三人で抱えても届かなそうな太さの柱が、乾いた音を立てて真ん中から折れた。
「……大きすぎる」
声に出したつもりはなかったのに、言葉が漏れていた。
さっきの五匹とは比べものにならない。
頭から尾まで何十メートルあるのか分からず、折り畳まれた両翼だけでも小さな家が何軒も隠れそうだった。全身を覆う鱗は洞窟の闇よりも黒く、その隙間では溶岩のような赤い光が呼吸に合わせて脈打っている。
頭には、壁画で見たものと同じ形の角が伸びていた。左右へ広がった角の根元が重なり、遠目には王冠を被っているようにも見える。
もう疑う必要はなかった。
あれが黒龍王だ。
オラクルが口元へ指を当てたので、私はそれ以上声を出さなかった。
黒龍王はこちらを見ていない。
その巨大な頭は、空洞の反対側へ向けられていた。
誰かがいる。
蒸気が薄くなった一瞬、黒龍王の正面に人影が見えた。
最初は、距離があるせいで子供なのかと思った。でも違う。黒龍王があまりにも巨大だから、人間が小さく見えているだけだった。
一人の少年が、折れた岩柱の上に立っている。
私より少し年上に見える。短めの金髪は汗と湿気で額へ張りつき、黒と白を基調にした旅装のあちこちが焼け焦げていた。左肩の布は大きく裂け、そこから血が滲んでいる。
それでも、少年は逃げていなかった。
右手に一本の短剣を持ち、黒龍王と正面から向き合っている。
「あの人、一人で戦ってるの……?」
「静かにしろ。まだ気づかれてねえ」
黒龍王が前脚を持ち上げた。
少年は、その脚が動いた瞬間にはもう岩柱から飛び降りていた。
巨大な鉤爪が直前まで少年のいた場所へ叩きつけられ、轟音とともに岩柱の上半分が粉々に砕け散る。破片は周囲へ弾丸のように飛び散ったが、少年は着地と同時に身体を前へ転がし、黒龍王の右側へ走り込んだ。
速い。
ただ逃げているわけではない。
黒龍王が攻撃した直後、右前脚へ体重が集中して次の動作へ移るまでの僅かな時間だけを狙っている。
少年は短剣を逆手へ持ち替え、前脚を覆う鱗と鱗の隙間へ刃を滑り込ませた。
ギィンッ――!
岩を斬ったとは思えない、硬い金属音が空洞へ響いた。
黒い鱗の表面に細い傷が走る。
けれど、浅い。
黒龍王が怒りの咆哮を上げ、巨大な尾を横薙ぎに振った。
少年は後ろへ逃げなかった。
むしろ尾が迫ってくる方向へ一歩踏み込み、身体を石床すれすれまで沈める。黒い尾が頭上を通過し、その風圧だけで金髪と服が激しく揺れた。
「攻撃が来る方向に……」
私には怖くてできない。
でも、少年は巨大な尾の先端から逃げるより、根元側へ入り込んだほうが動く距離が短いことを分かっているようだった。
ところが、尾が通過した先で岩柱へ激突する。
砕けた岩片が少年の死角から降り注いだ。
全部は避けられない。
拳ほどの石が左肩へ直撃し、少年の身体が前へ投げ出された。二度、三度と石床を転がり、最後は短剣を地面へ突き立てて無理やり止まる。
私の身体が反射的に前へ出かけた。
「待て」
オラクルに腕を掴まれた。
「でも、怪我してる!」
「だからって出るな。あいつをよく見ろ」
少年はすぐには立たなかった。
片膝をつき、荒い呼吸を整えながら黒龍王を見ている。
その視線には恐怖よりも、何かを確かめようとする鋭さがあった。
黒龍王が一歩進む。
少年は立ち上がり、数歩だけ下がる。
もう一歩進むと、また下がった。
逃げているように見えた。
けれど、少年は何度も足元を確認している。
その先には、岩柱の間を流れてきた地下水が溜まっていた。黒龍王の攻撃で石床が陥没し、そこだけ浅い池のようになっている。
「……あそこへ誘ってる?」
少年は最初から追い詰められていたわけではなかった。
黒龍王の巨体を、自分が選んだ場所へ少しずつ動かしている。
前脚が水溜まりへ入った。
少年の動きが変わった。
短剣を左手へ持ち替え、空いた右手を水面へ向ける。
「《雷閃》!」
青白い光が指先から迸り、水面へ落ちた。
雷は地下水を走って一瞬で枝分かれし、黒龍王の前脚を這い上がる。
バチィィィィッ!!
巨大な身体が初めて硬直した。
ほんの一瞬だった。
それでも少年には十分だった。
石床を蹴り、黒龍王の前脚へ飛び乗る。膝、肩、首元と突き出した鱗を足場にして駆け上がり、一気に頭部へ迫っていく。
少年が狙っているのは右目だった。
黒龍王もそれを察したのか、首を激しく振って少年を振り落とそうとする。
少年は左手で角の根元へしがみつき、右手へ戻した短剣を振り上げた。
あと少し。
その刃が目へ届く寸前、黒龍王の全身を走る赤い筋が急激に明るくなった。
私はさっきの五匹との戦いを思い出した。
胸から首へ、首から喉へと赤い光が昇っていく。
「炎が来る……!」
少年も同時に気づいた。
目への攻撃を捨て、黒龍王の頭から飛び降りる。
着地と同時に距離を取った少年を、黒龍王は追わなかった。
四本の脚を大きく開き、胸を膨らませている。
五匹の竜とは比較にならない量の赤い光が巨大な胸の奥へ集まり始め、空洞の温度が目に見えない勢いで上昇していく。地下水から湯気が立ち、濡れていた岩壁の水滴が次々と消えていった。
少年の背後には岩壁がある。
右には折れた岩柱、左には黒龍王自身が砕いた大きな亀裂があり、さっきまで使っていた広い退路は残されていない。
逃げられない。
私はそう思った。
ところが少年は、背後を一度確認しただけで逃げようとはしなかった。
右手に握った短剣を胸の前へ構える。
その刃が、淡く光り始めていた。




