第104話 塞がれた古道
十分に休んでから立ち上がると、さっきまで必死に逃げていたせいか、洞窟の静けさがかえって不気味に感じられた。
遠くから五匹の竜が鳴く声は聞こえてくるものの、爪が石床を削る音は近づいてこない。《肉の笛》がまだ囮になってくれているのか、それともとっくに食べられてしまったのかは分からなかったけれど、少なくとも今のうちなら落ち着いて周囲を調べられそうだった。
私は立ち上がる前に右足をゆっくり曲げ伸ばししてみた。かなり歩いたうえに、さっきは竜から逃げるため普段より速く動いたので重さは残っている。それでも怪我をした場所に鋭い痛みはなく、杖を使って左足へ体重を多めに掛ければ、もう少しなら探索を続けられそうだった。
「まずは分岐まで戻るぞ。中央はあの五匹がいるから無し、右の水路も俺じゃ通れねえ。左は行き止まりだったが、あそこだけ妙に風が流れてた」
車椅子の向きを変えたオラクルに言われ、私はさっき調べた左の通路を思い出した。数十メートル先で完全な岩壁に塞がれていたので諦めたけれど、言われてみれば奥へ進むほど頬に触れる空気が冷たくなっていた気がする。
「行き止まりなのに風が吹いてたってことは、壁の向こうに何かあるのかな?」
『風、あった。ちょっとだけ』
メリーまで覚えていたので、私はもう一度だけ調べてみることにした。ただし、さっきの五匹との遭遇で無理をする危険性は十分に分かっている。☆付きアイテムが本当にあるのかさえ確定していない以上、何も見つからなければ今日は帰ると三人で決めてから分岐へ戻った。
左の通路は相変わらず狭く、両側から迫る黒い岩壁の間をオラクルの車椅子がぎりぎり通れる程度しかない。前輪が小石へ乗り上げるたびに私が後ろから支え、右足へ負担を掛けすぎないよう何度も休みながら進むと、やがて例の行き止まりが見えてきた。
正面には、天井から床まで大小の黒い岩が重なっている。
「やっぱり塞がってるよ?」
「一回、灯りを全部消してみろ」
「え?」
「いいからやってみろ。さっきは明るくて気づかなかっただけかもしれねえ」
言われた通り灯りを消すと、洞窟は一瞬で完全な暗闇に包まれた。自分の手さえ見えなくなり、天井から落ちる水滴と私たちの呼吸だけが妙に大きく聞こえる。
何も見えない状態で待っていると、やがて頬に冷たいものが触れた。
風だった。
右からでも左からでもなく、正面を塞いでいる岩の隙間から細い空気の流れが漏れている。手を伸ばして確かめてみると、壁へ近づくほど指の間を抜ける風が少しずつ強くなった。
「本当だ……。向こう側に空間がある」
メリーも私の肩から飛び立ち、岩壁の下のほうへ近づいた。
『ここ。いっぱい来てる』
再び灯りをつけると、メリーが指差した場所には、積み重なった岩と岩の間に指一本ほどの黒い隙間があった。顔を近づけてみると、そこから確かに冷たい空気が流れ出している。
オラクルは灯りを上下へ動かしながら、岩の積み方をしばらく観察していた。
「こいつは自然に崩れただけじゃねえかもしれねえな」
「どうして?」
「見てみろ。似たような大きさの石が隙間を埋めるように詰め込まれてるだろ。自然に崩れたなら、もう少しバラバラになっててもおかしくねえ」
言われて改めて見ると、確かに不自然だった。中央には私の身体より大きな岩があり、その周囲を拳ほどの石が埋めている。天井から一度に崩落したというより、誰かが通路を塞ぐために積み上げたようにも見えた。
誰かを入れないためなのか、それとも向こう側にいる何かを出さないためなのか。
そんな想像が頭をよぎり、私は伸ばしかけた手を止めた。
「……開けて大丈夫かな?」
「分からねえ。だから全部ぶっ壊すような真似はすんな。少しだけ穴を作って、向こうを確認してから決めるぞ」
私は頷き、岩の積み方を慎重に観察した。中央の大きな岩は上から何個もの石を支えているため、あれを動かせば一気に崩れる危険がある。反対に右下には、上の岩をほとんど支えていない小さな石がいくつも並んでいた。
「こっちからなら取れそう」
「ああ。俺もやる。メリーは上を見てろ。岩が動き始めたらすぐ言え」
『任せて』
私は右足に負担を掛けないよう床へ座り、小さな石から一つずつ取り除いた。オラクルも車椅子から手を伸ばし、届く範囲の石を横へ転がしていく。
作業は思った以上に時間が掛かった。
湿った石は重く、少し動かしただけで上から砂や小石が落ちてくる。何度かメリーに止められ、そのたびに別の場所から崩れないよう石を抜いていった。
二十個ほど取り除いたころには、人の腕が通る程度だった隙間が、私なら身体を横にすれば通れそうな大きさまで広がっていた。
私は灯りを近づけ、隙間の向こうを照らした。
光はすぐには壁へ当たらず、そのまま黒い空間の奥へ伸びていく。しかも向こう側の床は今まで歩いてきた自然な岩肌とは違い、ところどころ平らに削られているように見えた。
「オラクル、向こうを見て。道みたいになってる」
オラクルも身体を傾けて隙間を覗き込み、しばらく黙ったあと低く唸った。
「かなり古そうだが、人の手が入ってるな。床も壁も自然にできた形じゃねえ」
「じゃあ、昔は誰かがここを使ってたのかな?」
「それも分からねえ。ただ、わざわざ塞いだ道なら、何かしら理由はあったはずだ」
私たちはさらに時間を掛けて岩を取り除いた。
中央の大岩には最後まで触れず、その横だけを広げていく。ようやくオラクルの車椅子が通れる幅になったところで作業を止めると、向こう側から吹いてくる風が一気に強くなった。
その風に混じって、今までとは違う臭いが鼻へ届いた。
獣の臭いではない。
焦げた臭いだった。
古い煤が湿ったような臭いとも違い、もっと新しい。何かがつい最近まで燃えていたような、鼻の奥に残る焦げ臭さだった。
「何か燃えてるのかな?」
メリーが穴の向こうへ顔を近づけ、何度か鼻を動かした。
『今は燃えてない。でも、新しい』
オラクルの表情が少しだけ険しくなる。
「なら、この先に今も誰かいる可能性があるな。さっきの竜どもか、別の魔物か、それとも俺たち以外の冒険者か」
私は杖を握り直した。
怖さはあったけれど、焦げた臭いが新しいということは、誰かがここを通った可能性が高い。もし人間が魔物に襲われて怪我をしているなら、何も確認せずに帰るのも気になった。
「行ってみよう。ただし、すぐ戻れるようにここは塞がないでおこうね」
「それでいい。洞窟じゃ帰り道を失うのが一番馬鹿らしいからな」
穴を抜けると、そこには予想していたより遥かに広い通路が続いていた。
天井は高く、灯りを掲げても上まで届かない。左右の壁は黒い岩を削って作られており、床には長い年月で割れた石板が敷き詰められている。その隙間を地下水が細く流れ、ところどころに苔のようなものまで生えていた。
自然の洞窟とは明らかに違う。
ここには、昔誰かがいた。
数歩進んだところで、壁へ灯りを向けた私は足を止めた。
「……何か描いてある」
黒い岩壁に巨大な絵が刻まれていた。
長い年月で半分以上が削れているものの、翼を広げた巨大な龍の姿だけははっきり分かる。その前には大勢の人間が描かれていたけれど、剣を向けている者は一人もいなかった。
全員が膝をつき、龍へ向かって頭を下げている。
「龍を拝んでるみたい……」
「そう見えるな。こいつらにとっちゃ魔物じゃなく、神様みてえな存在だったのかもしれねえ」
先へ進むと、同じ龍を描いた壁画が何枚も現れた。
山の頂に立つ龍。雲の上を飛ぶ龍。人々から何かを捧げられている龍。それまでの絵では、人間と龍は争っているようには見えなかった。
けれど、最後の壁画だけは違っていた。
大勢の人間が地面へ倒れ、建物らしいものが炎に包まれている。その中心で巨大な龍が翼を広げ、頭上には王冠のような模様が刻まれていた。
私は布団ゴブリンから餞別にもらった地図に書かれていた名前を思い出した。
「……黒龍王」
オラクルも壁画を見上げたまま、珍しくすぐには軽口を叩かなかった。
「この洞窟の名前、適当につけられたわけじゃなさそうだな」
入口近くで見つけた、私の頭より遥かに大きな足跡。
洞窟に棲みついていた五匹の黒い竜。
そして、人間たちが崇め、最後には炎の中に立っていた王冠を持つ巨大な龍。
別々だったものが少しずつ一本につながり始めている。
それでも、肝心の黒龍王そのものはまだ見ていない。
壁画を越えてさらに奥へ進むと、床の様子が変わった。
割れた石板の上へ黒い煤が広がり、壁の一部まで焼け焦げている。水気の多い洞窟なのに煤が濃く残っていることから、何十年も前の跡には見えなかった。
「これが、さっきの臭いかな」
「ああ。しかも相当新しいぞ」
その少し先には砕けた岩が散らばっていた。自然に崩れたのではなく、強い力を正面から受けて外側へ吹き飛ばされたような割れ方をしている。
さらに壁には、斜めに走る細い傷が三本残っていた。
私はさっき戦った五匹の竜が残した鉤爪の跡を思い出したけれど、こちらは明らかに違う。傷の縁が驚くほど滑らかで、硬い岩を鋭い刃物で切り裂いたようだった。
「これ、爪じゃないよね?」
「刃物だ。しかも相当切れる武器だな」
「じゃあ、誰かがここで戦ったんだ……」
「たぶんな。だが誰が何と戦ったのかは、まだ決めつけんなよ」
私は頷き、先へ進もうとしたメリーを呼び戻した。
焦げた床、砕かれた岩、鋭い刃物の跡。戦闘の痕跡は奥へ進むほど増えているのに、不思議なことに血だけはほとんど見つからない。
誰かが怪我をせずに戦っているのか、それとも血を流さない何か同士が戦っているのか。
答えが分からないまま進んでいると、突然、足元から低い振動が伝わってきた。
ドン……。
私は反射的に立ち止まった。
数秒後、もう一度地面が揺れ、天井から細かな砂が落ちてくる。
さっき遭遇した竜たちの足音とは比べものにならない。もっと重く、一歩ごとに洞窟そのものが震えているようだった。
「オラクル……これって」
「静かにしろ」
オラクルが声を落とした直後、三度目の振動が響いた。
今度は明らかに近かった。
その直後――。
洞窟の遥か奥から、空気そのものを押し潰すような咆哮が轟いた。
声だけで胸を殴られたような衝撃が走り、天井から小石が落ち、水溜まりの表面へ無数の波紋が広がっていく。メリーもすぐに私の肩へ戻り、普段より強く服を掴んだ。
『……大きい』
私は返事をしながら、入口近くで見た巨大な足跡を思い出していた。
まだ姿は見えない。
それでも分かる。
あの足跡を残した何かが、この先にいる。
そして壁画に描かれていた王冠を持つ龍の姿が、頭から離れなかった。
黒龍王。
その名前が、さっきまでとはまるで違う重さを持って胸の奥へ落ちてきた。




