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フールの大冒険 ~聖なるマップを手に、異世界でまだ見ぬ両親を探します~  作者: ☆☆アダム☆☆


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第103話 黒鱗の群れ


暗闇の奥から聞こえた音は、一度きりではなかった。


ガリ……ガリ……と、硬いものが岩肌を擦るような音が一定の間隔を置いて響き、そのたびに洞窟の壁や天井で何度も反射する。正面から聞こえたと思った次の瞬間には背後から近づいてくるようにも感じられ、音だけでは相手がどこにいるのか判断できなかった。


冷たい風が頬を撫でるたび、湿った岩と古い煤に混じって、さっき気づいた獣のような臭いが鼻へ入ってくる。腐った肉の臭いとは違い、濡れた革と焼けた毛を混ぜたような独特の臭いで、洞窟の奥へ進むほど少しずつ濃くなっていた。


『いる。何匹かいる』


肩にいたメリーが声を落とした。


一匹ではないと聞いた途端、背中が少し冷たくなる。右足は歩けるところまで回復しているけれど、まだ走れない。何かに追われても全力では逃げられないうえ、今まで前に立ってくれていた赤も、魔法で援護してくれた緑も、周囲を見ながら道具を使ってくれた黄色もいなかった。


ゴブリン王国を出てから何度も感じていた三匹の不在が、危険な洞窟へ入ったことで急に大きくなったように思えた。


「オラクル。三匹がいないと、やっぱりちょっと怖いね」


私が小さな声で言うと、オラクルはからかわず、暗闇を見たまま答えた。


「そりゃそうだ。今まであいつら三匹がやってたことまで、俺たちで考えなきゃならねえんだからな。怖くならねえほうがおかしい」


「でも、戻りたいって意味じゃないよ。怖いからって何も見ないまま帰りたくはないし、三匹だって王国で頑張ってるんだから、私もちゃんと進みたい」


「だったらそれでいい。ただし、危険だと思ったら引くぞ。☆付きアイテムが本当にあるかも分からねえ場所で、命まで賭ける必要はねえ」


私は一度深く息を吸い、杖を握り直した。


怖いことを隠す必要はない。


怖いままでも、考えて進めばいい。


オラクルが白い粉で壁へ新しい印を残し、私たちは再び洞窟の奥へ進み始めた。


そこから先は入口付近よりもさらに歩きにくかった。


通路は緩やかな下り坂になり、黒い岩の床には天井から剥がれ落ちた大小の石が散らばっている。水滴が長い時間をかけて作った窪みには濁った水が溜まり、場所によっては靴が半分沈むほど深い。


私は杖の先で足場を確かめてから進み、オラクルも大きな石を避けるため何度も車椅子の向きを変えた。狭い場所では前輪が岩へ乗り上げることもあり、そのたびに私は左足を軸にして後ろから支える。


「フール、右足に力を入れすぎんな。俺が前輪を浮かせるから、お前は左足で押せ」


「分かった。せーのでいくよ」


オラクルが両腕で車輪を動かし、私が背もたれを押すと、前輪が岩を越えたところで車椅子が大きく揺れた。それでも倒れることなく通過でき、私はようやく肩の力を抜いた。


「洞窟って、魔物がいなくても大変なんだね」


「整備された道じゃねえからな。最深部まで行って戻った奴がほとんどいねえって話も、魔物だけが理由とは限らねえぞ」


確かに、この足場を何時間も進むだけでもかなり体力を使う。


私は右足の状態を確かめ、まだ痛みが出ていないことに安心した。以前なら先を急いでいたかもしれないけれど、ここで傷を悪化させれば帰ることすら難しくなる。


やがて通路が三方向へ分かれた。


中央は今までと同じ幅を保ったまま地下へ続き、左側は人一人が通れるほど狭くなっている。右側は広いものの、十数メートル先から床全体が黒い水に沈んでいた。


私は《聖なるマップ》を開いた。


ここまで歩いてきた道は細い線として描かれているけれど、三つの分岐から先はまだ真っ白だった。


「どれにする?」


「いきなり決めるな。まず床を見ろ」


オラクルが灯りを低くし、三本の通路を順番に照らす。


左側には細かな砂と石が積もり、何かが頻繁に通った形跡はない。右側の水路にも目立った痕跡はなかったけれど、中央だけは明らかに違っていた。


黒い土の上に、大きな窪みが残っている。


灯りを近づけると、それが足跡だと分かった。


三本の太い指が前へ伸び、その先には岩混じりの地面を深く抉った爪の跡がある。一つの足跡だけで私の頭より大きく、同じ形が一定の間隔を空けながら暗闇の奥まで続いていた。


「これ、さっき壁にあった爪痕をつけたやつかな?」


「可能性はある。ただ、こっちは古い痕じゃねえ」


オラクルが足跡の縁へ灯りを向ける。


窪みの内側には湿った土が残り、周囲へ押し出された細かな砂も完全には乾いていない。かなり最近、この場所を巨大な何かが通ったように見えた。


さらによく見ると、その大きな足跡の周囲には同じ形をした小さな跡が何十個も残っている。こちらは大型犬ほどの大きさしかなく、何度も行き来しているらしく、古いものと新しいものが複雑に重なっていた。


メリーが中央の通路へ顔を向ける。


『臭い、こっち』


私は三つの道を見比べた。


☆付きアイテムを探しに来たからといって、何かがいると分かっている道へ最初から突っ込む必要はない。


「左から調べよう。何もなかったら戻ってくればいいよね」


「ああ。そのほうがいい」


左の通路は、進むほど狭くなった。


湿った岩壁が両側から迫り、オラクルの車椅子は何度も車輪を擦った。天井も低くなり、私は身体を屈めながら進んだけれど、数十メートル先で完全な岩壁に塞がれていた。


右側の水路も調べたものの、途中から急激に深くなり、灯りを近づけても底が見えない。奥から地下水の流れる音まで聞こえ、オラクルの車椅子では通れない以上、無理に進む理由もなかった。


結局、残されたのは中央だけだった。


巨大な足跡と、無数の小さな足跡が続いている道。


「結局ここなんだね」


「嫌なら戻れるぞ。布団ゴブリンが集めた情報だって、☆付きアイテムがある『らしい』ってだけだからな」


私は少し考えてから首を横へ振った。


「まだ戻らない。ただし危なくなったらすぐ引く。それで行こう」


中央の通路へ入ると、生き物の臭いはさらに濃くなった。


壁の低い位置には何かが身体を擦った跡があり、水溜まりには濁った足跡が残っている。黒い鱗らしい欠片まで落ちていて、灯りを近づけると濡れた金属のような鈍い光を返した。


その少し先には、白く乾いた骨が壁際へ積み重なっていた。


一本一本が私の腕ほど太く、中には牙で噛み砕かれたように真ん中から割れているものもある。ここに棲んでいる何かが、実際に獲物を捕まえて食べている。その事実を目の前へ突きつけられた気がして、私は足を止めた。


「……怖くなってきた」


「だったら、その感覚は忘れんな。怖いと思ってりゃ周りを見るからな」


「うん。でも、まだ行ける」


私たちは声を落とし、さらに奥へ進んだ。


やがて、さっきまで遠くで聞こえていた岩を擦る音が、明らかに近くなった。


ガリッ……ガリッ……。


何かの爪が石床へ触れている。


メリーが静かに私の肩から飛び上がった。


『来る』


オラクルは灯りを少し下げ、暗闇の奥が見やすいよう角度を変えた。


最初に現れたのは、二つの赤い光だった。


地面から一メートルほどの高さに浮かび、ゆっくりこちらへ近づいてくる。やがて灯りの端へ細長い頭部が入り、黒い鱗に覆われた口元から鋭い牙が覗いた。


頭から尾まで二メートルを超えるほどの大きさがあり、四本の脚で低く地面へ構えている。背中には一対の小さな翼が折り畳まれ、太い後脚の先には三本の鉤爪が伸びていた。


何より異様だったのは、黒い鱗の隙間を走る赤い筋だった。


胸から首にかけて何本もの赤い光が浮かび、呼吸するたびに弱く明滅している。まるで黒い身体の内側で火が燃えているようだった。


「……龍?」


「黒龍王じゃねえ。大きさが違いすぎる。ただ、竜種には見えるな」


魔物が口を僅かに開き、喉の奥で低く唸った。


グルルルル……。


その音が洞窟の壁へ反響すると、返事をするように暗闇の奥から別の唸り声が聞こえた。


一つではない。


最初の個体の後ろで赤い目が二つ開き、その横にも、さらに奥にも同じ光が浮かぶ。


最終的に姿を現したのは五匹だった。


私は無意識に一歩下がりかけたけれど、右足へ急な負担を掛けないよう途中で止まった。


メリーが私たちの前へ出て、両手の周囲へ赤い魔力を集め始める。


「まだ撃つな」


オラクルが声を抑えた。


「向こうが引くなら戦う必要はねえ。刺激しないよう少しずつ下がるぞ」


私は頷き、竜たちから目を離さないまま杖を後ろへ置いた。


一歩ずつ距離を取る。


五匹もすぐには襲ってこなかった。


最前列の一匹が鼻先を上げ、何度も空気の臭いを嗅いでいる。その赤い目が私からメリーへ移り、オラクルを見たあと、最後に私の鞄で止まった。


「……何で鞄を見てるの?」


嫌な予感がした。


昨日、《合成の聖杯》で作ったものが入っている。


「もしかして、《肉の笛》?」


「吹いてねえよな?」


「吹くわけないでしょ! でも、あれ自体ちょっと肉の匂いがするんだよ!」


最前列の竜が鼻を大きく動かし、明らかに私の鞄へ向かって一歩近づいた。


オラクルが低く呟く。


「……関係あるかもしれねえな」


「こんなところで存在感出さなくていいよ!」


私は慌てて鞄を身体の後ろへ回そうとした。


その動きに反応して、一匹の竜が身体を低くする。


続いて二匹目、三匹目も鉤爪を石床へ食い込ませ、太い尾を左右へ振り始めた。


「フール、来るぞ!」


オラクルの声と同時に、前にいた四匹が一斉に地面を蹴った。


鉤爪が黒い岩を削り、乾いた音が洞窟いっぱいに重なる。最初の一匹はメリーへ向かい、残る三匹は左右へ散りながら、私とオラクルの退路を塞ぐように迫ってきた。


『フール!』


「メリー、正面をお願い!」


メリーの両手に集まっていた赤い魔力が、一気に放たれた。


赤い光弾は先頭の竜の胸へ正面から直撃し、黒い鱗の表面で激しく弾ける。竜は前脚を滑らせながら一メートルほど押し戻され、胸の鱗に焦げた跡を残したものの、そのまま倒れることなく再び頭を上げた。


「硬い……!」


『ベルガよりは柔らかい』


「比べる相手が悪すぎるよ!」


二発目を撃とうとしたメリーへ、左から別の一匹が飛びかかる。


メリーは身体を上へ逃がし、振り抜かれた爪をぎりぎりでかわした。空振りした鉤爪が岩壁へ叩きつけられ、火花とともに三本の白い傷を刻む。


あれをまともに受けたら、私の身体なんて簡単に裂かれる。


怖さで身体が固まりかけた瞬間、オラクルの声が飛んだ。


「フール、右だ!」


振り向くと、三匹目がすでに数メートルまで迫っていた。


走って逃げることはできない。


私は杖を地面へつき、左足を軸にして身体を横へずらした。直後、さっきまで立っていた場所を鉤爪が通過し、風圧だけで服の裾が大きく揺れた。


反射的に右足で強く踏み込みそうになったけれど、寸前で止める。


ここで怪我を悪化させたら、次は避けられない。


「焦らない……ちゃんと動けば大丈夫」


自分へ言い聞かせるように呟き、もう一歩だけ距離を取った。


その間にオラクルが懐から二つの小さな金属球を取り出し、迫っていた竜たちの足元へ転がす。


「目閉じろ!」


私はすぐに瞼を閉じた。


直後、洞窟の中で白い光が爆発した。


キィィンッ――!


竜たちが甲高い声を上げる。


目を開けると、私とオラクルへ迫っていた二匹が頭を激しく振り、赤い目を何度も瞬かせていた。閃光をまともに見たらしく、こちらの位置を見失っている。


「今のうちに下がれ! こいつらを倒す必要はねえ!」


「うん!」


私は杖を使いながら、来た道へ向かって後退した。


怖さで身体は今すぐ走り出したがっている。それでも右足で強く地面を蹴れば、せっかく治りかけた傷をまた悪化させるかもしれない。ここで動けなくなれば自分だけではなく、オラクルやメリーまで危険に巻き込んでしまう。


左足と杖を中心に身体を支え、右足へ掛ける力をできるだけ小さくしながら一歩ずつ距離を取る。メリーも追ってくる一匹へ魔力の光弾を撃ち込み、こちらへ近づかせないよう牽制していた。


このまま分岐まで戻れれば、戦わずに済むかもしれない。


そう思ったところで、私は妙なことに気づいた。


五匹いたはずなのに、目の前で動いているのは四匹しかいない。


「オラクル、もう一匹は?」


オラクルの顔色が変わった。


「奥だ! メリー、後ろの奴を見ろ!」


暗闇の奥へ視線を向けると、最後尾に残っていた一匹だけが追いかけてきていなかった。


四本の脚を大きく開き、頭を低くしている。その黒い鱗の隙間を走っていた赤い筋が、さっきまでとは比べものにならないほど強く輝いていた。


胸の奥で生まれた赤い光が、呼吸に合わせて首へ昇っていく。


首から喉へ。


さらに口の奥へ。


竜が息を吸い込むたびに周囲の空気まで引き寄せられ、牙の隙間から小さな火の粉が漏れ始めた。


湿っていたはずの洞窟の空気が急に熱を帯びる。


「炎を吐く気だ!」


「メリー、あいつを止めろ!」


『うん!』


メリーが空中で身体の向きを変え、両手に集めた赤い魔力を奥の竜へ向けた。


ところが、その隙を狙ったように一匹が岩を蹴って跳び上がった。


「メリー、上!」


私が叫ぶと、メリーは攻撃を中断してさらに高く飛び、横から振り抜かれた鉤爪をぎりぎりでかわした。


その一瞬で、奥の竜の喉へ炎が集まりきった。


大きく開かれた口の奥が真っ赤に染まる。


次の瞬間、炎が噴き出した。


ゴォォォォォッ――!


火の筋なんて呼べるものではなかった。


人一人を丸ごと飲み込めるほど太い炎が、狭い通路の床から天井まで赤く照らしながら押し寄せてくる。湿った岩壁を舐めた炎が水滴を一瞬で蒸発させ、白い蒸気を巻き上げながら距離を縮めてきた。


今の右足では絶対に逃げ切れない。


そう理解した瞬間、恐怖で息が止まりそうになった。


けれど、メリーは私より先に動いていた。


『《精霊障壁》!』


小さな身体が私とオラクルの前へ飛び込み、両手から溢れた赤い魔力が半円状に広がった。


直後、炎が障壁へ激突する。


ドゴォォォンッ!!


空気そのものを殴られたような衝撃が通路を走り、私は杖を強く握って踏みとどまった。


炎は赤い障壁にぶつかって左右へ分かれ、壁へ叩きつけられる。濡れていた岩肌から大量の蒸気が立ち上り、視界が白く霞んだ。


障壁の後ろにいるのに、頬が焼けそうなほど熱い。


「メリー、大丈夫!?」


『大丈夫。でも、重い』


メリーの小さな身体が少しずつ後ろへ押されていた。


障壁の表面にはまだ亀裂こそ入っていないけれど、炎を受けるたびに赤い光が激しく波打っている。このまま耐え続ければ、エドガーの悪魔と戦ったときのようにメリーの魔力が尽きてしまうかもしれない。


しかも、炎を吐いている一匹だけを見ていればいいわけではなかった。


オラクルの閃光で怯んでいた竜たちも、少しずつ視力を取り戻している。一匹が頭を振るのをやめ、赤い目をこちらへ向けた。


「オラクル、このままだと挟まれるよ!」


「分かってる!」


オラクルも周囲を素早く確認する。


右側には岩壁が迫り、左側にも大きな岩が張り出している。人一人なら身体を横にして通れそうな隙間があるものの、オラクルの車椅子では抜けられない。


来た道へ戻るには、四匹の竜がいる場所を突破するしかなかった。


「さっきの光る球、もうないの?」


「まだある。だが、同じ手が何度も効く保証はねえ。それに、あの炎を止めねえ限り動けねえぞ!」


どうする。


メリーは炎を防ぐので精一杯。


オラクルの道具にも限りがある。


私は剣を持っていないし、魔法だって使えない。


こんなとき、赤なら前へ出てくれた。


緑なら魔法を撃ってくれた。


黄色なら道具袋を探りながら、何か使えるものを見つけようとした。


でも、三匹はいない。


その事実に一瞬だけ心細さが押し寄せたけれど、すぐに首を振った。


三匹は、強くなるために自分たちで王国へ残ると決めた。


だったら私も、三匹がいないから何もできないなんて言いたくない。


今持っているもので考える。


私は鞄の中身を頭に浮かべた。


☆5《幻獣種召喚の本》。


でも、シャイニーたちをいつでも自由に呼べるのかはまだ分からない。たとえ召喚できても、十五メートルを超えるアクアリヴァイアスがこの狭い通路へ現れたら、私たちまで押し潰されかねない。


《人魚の旋律》もある。


《合成の聖杯》もある。


けれど、今から何かを合成している時間なんてない。


「何か……ほかに……」


焦りながら鞄へ手を入れたとき、指先が少し柔らかなものへ触れた。


私は一瞬動きを止めた。


昨日、干し肉と安物の笛を《合成の聖杯》へ入れて作った、最初の合成品。


《肉の笛》。


昨日は吹くだけで鳥や犬、それに近くにいたゴブリンまで肉の匂いにつられて集まってきた。


そして洞窟で竜たちと遭遇したときも、最前列の一匹は何度も私の鞄の匂いを嗅いでいた。


「……これ、使えるかもしれない」


「何かあんのか?」


私は鞄から茶色い笛を取り出した。


オラクルはそれを見た瞬間、さすがに言葉を失った。


「お前……まさか、それを吹く気か?」


「ここで吹いたら全部こっちへ来るから、そうじゃないよ。あいつらが肉の匂いに反応してるなら、もっと強い匂いを出して別の場所へ投げれば、そっちを追うかもしれない」


私は左側へ視線を向けた。


壁から大きな岩が張り出し、その向こうには人一人が入れる程度の細い亀裂がある。私たちが逃げ道として使うことはできないけれど、笛を投げ込むには十分な隙間だった。


オラクルもすぐに意図を理解した。


「なるほどな。成功すりゃ、あいつらを横へ逸らせる。ただし失敗したら、肉の匂いで五匹まとめてこっちへ突っ込んでくるぞ」


「どっちにしても、このままじゃ囲まれるよ。だったら試したい」


オラクルは一瞬だけ迷い、すぐに頷いた。


「分かった。ただし炎が止まってからだ。今障壁から顔出したら、笛を吹く前に焼かれる」


「うん!」


私は《肉の笛》を握り、メリーの障壁の後ろで待った。


炎はまだ激しく障壁を叩いている。


でも、竜の喉を走っていた赤い光は少しずつ弱くなり始めていた。


永遠に吐き続けられるわけではない。


「メリー、あと少しだけお願い!」


『任せて!』


メリーが両手へさらに魔力を込めると、障壁の赤い光が強くなった。


炎を押し返すほどではない。


それでも崩れずに耐えている。


やがて竜の炎が細くなり、最後には大量の火の粉を残して途切れた。


ゴォォォッという轟音が消え、代わりに蒸気が立ち込める。


「今だ!」


オラクルの声と同時に、私は《肉の笛》を口へ当てた。


思い切り息を吹き込む。


プヒィィィィィィ――!


命が掛かっている場面とは思えないほど情けない音が、洞窟の奥まで響き渡った。


一瞬だけ、五匹の竜まで動きを止めたように見えた。


「……何でこんな音なの」


「今そこ気にすんな! もう一回吹け!」


私はもう一度、思い切り息を吹き込んだ。


プヒィィィィィ――!


笛から肉の匂いが一気に広がった。


竜たちの反応は明らかだった。


最前列の一匹が鼻を大きく動かし、続いて二匹目、三匹目も私の手にある笛へ顔を向ける。炎を吐いた個体まで口元から煙を漏らしながら、赤い目でこちらを見つめていた。


「効いてる!」


「喜ぶのはまだ早え! 投げろ!」


「うん!」


私は笛を左側の岩へ向かって投げた。


茶色い笛は弧を描き、大きな岩の上を越えて細い亀裂の奥へ消える。


数秒遅れて、亀裂の向こうから肉の匂いが漂ってきた。


竜たちが迷う。


私たち。


そして笛が消えた岩の向こう。


赤い目が何度も行き来する。


「お願い……そっちへ行って」


祈るように呟いた。


最初の一匹が動いた。


こちらではなく、左へ。


岩へ鼻先を向け、肉の匂いを追って進んでいく。


二匹目も続いた。


三匹目。


四匹目。


最後に炎を吐いていた個体まで低く唸りながら岩の向こうへ向かった。


「今だ! 戻るぞ!」


オラクルが車椅子を反転させる。


私は杖を地面へつき、その後を追った。


本当は走りたかった。


背後から竜の爪音が聞こえるたび、右足のことなんて忘れて全力で逃げたくなる。


それでも我慢した。


左足と杖を中心に身体を運び、右足へ強い衝撃を与えない範囲でできるだけ速く進む。メリーは最後尾を飛びながら、何度も竜たちの様子を振り返っていた。


しばらく進んだところで、背後から甲高い鳴き声が響いた。


「笛、見つかったのかな?」


「たぶんな! 食われてなきゃいいが!」


「食べられたら赤が悲しむかも!」


「今それ心配してる場合か!」


それでも立ち止まらず、最初の分岐まで戻った。


さらに少し進んでからようやく足を止める。


もう竜の爪音は聞こえなかった。


私は壁際へ腰を下ろし、ようやく大きく息を吐いた。


心臓がまだ速い。


右足には疲労感があるけれど、鋭い痛みは出ていなかった。


メリーも私の肩へ降りると、疲れたように身体を預けてきた。


『疲れた……』


「ありがとう、メリー。あの障壁がなかったら本当に危なかったよ」


『フールも笛で助けた』


「うん。まさか昨日作ったばっかりの《肉の笛》に助けられるとは思わなかった」


オラクルも額の汗を拭いながら、来た道を振り返った。


「古代の《合成の聖杯》で最初に作った物が、一日後には竜から逃げるための囮か。何が役に立つか分からねえもんだな」


「昨日はあんなに笑ってたのにね」


「だから道具は使い方次第ってことだ」


私は思わず笑った。


でも、すぐに暗い通路へ視線を戻した。


あの五匹は、確かに怖かった。


炎まで吐いた。


それでも、最初に見つけた巨大な足跡とは大きさがまるで違う。


「あの大きな足跡をつけたやつ、まだ見てないよね」


オラクルの表情から笑みが消えた。


「ああ。あの五匹より遥かにでかい何かが、この洞窟の中を歩いてる」


「……黒龍王かな」


「可能性はある。だからこそ、ここから先は今まで以上に慎重に行くぞ」


私は頷いた。


怖さは、さっきより強くなっている。


でも、同時に一つだけ自信も増えていた。


赤たちがいなくても、何もできないわけじゃなかった。


メリーが守ってくれた。


オラクルが敵の動きを見てくれた。


そして私は、自分が持っているものを使って逃げ道を作れた。


戦って倒さなくてもいい。


生きて先へ進む方法を考えればいい。


「少し休んだら、別の道を探そう。あの五匹がいる道には戻らないし、ほかに進める場所が見つからなかったら今日は帰る」


オラクルは私の言葉を聞いて、少しだけ笑った。


「それならいい。ようやく無茶と冒険の違いが分かってきたみてえだな」


「最初から分かってるよ!」


「怪我した足でレースした奴が言うな」


「それはもう何回も怒られたから言わないで!」


メリーが肩の上で笑った。


緊張で固まっていた身体から、ようやく少しだけ力が抜けた。


私は壁へ背中を預けながら、竜たちが消えた暗闇を見つめた。


《肉の笛》は失った。


それでも三人とも無事だった。


今は、それで十分だった。

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