第102話 黒龍王の洞窟
ゴブリン王国を出てから二日目の昼過ぎ、私たちは《黒龍王の洞窟》があるという山岳地帯へ入っていた。
王国を囲んでいた岩山とは景色がまるで違う。この辺りは地面から山肌まで黒っぽい岩で覆われ、植物も標高が上がるにつれて急激に減っていた。道の脇に残っているのは、岩の隙間へ根を食い込ませた背の低い草と、強い風に押されて斜めに曲がった細い木くらいだった。
空には厚い雲が広がっている。まだ昼を過ぎたばかりなのに陽射しは弱く、山と山の間へ入るたびに夕方のような薄暗さになった。
私は杖を使い、右足へ負担を掛けすぎないよう一定の速度で歩いていた。
「オラクル、本当にこっちで合ってる?」
「地図が正しけりゃな。さっきの分かれ道から北東へ入ってるから、もうそれほど遠くないはずだ」
オラクルの膝には、一枚の古びた地図が広げられている。
端が擦り切れ、何度も折り畳まれた跡が残った手描きの地図だった。
ゴブリン王国を出発する直前、布団ゴブリンが餞別として渡してくれたものだ。
『フールちゃんたちが次にどこへ行くか分からないから、使えそうな地図を集めておいたでぷ』
そう言って何枚もの地図を持ってきた中に、これが混ざっていた。
しかも《黒龍王の洞窟》の横には、布団ゴブリンの字で、
《☆付きのアイテムがあるという噂あり。真偽不明でぷ》
とまで書き足されている。
「布団ゴブリン、これも五千コイン分の仕事に入ってたのかな」
「知らねえ。ただ、あいつが集めてくる情報は馬鹿にできねえぞ。ヒヨコレースのときも、誰も気づいてなかったことまで調べてきたからな」
「それはそうだけど……この地図、ちょっと古くない?」
「だから慎重に進んでんだろ。山の形まではそう簡単に変わらねえが、崖崩れで道が消えるくらいは普通にある」
言われて周囲を見る。
確かに、ここを「道」と呼んでいいのかは怪しかった。
人が踏み固めた土の道はとっくに消え、今は黒い岩の間に残る細い隙間を進んでいる。ところどころ拳ほどの石が転がり、踏むと簡単に動くため、右足を庇っている私には歩きにくい。
私は足元を確認しながら、一歩ずつ進んだ。
以前なら「これくらい平気」と急いでいたと思う。
でも今回は治療役と約束している。
痛くなってから休むのではなく、その前に休む。
しばらく進んだところで、右足の奥に重たい疲労を感じ始めた。
「オラクル、ちょっと休んでいい?」
オラクルが驚いたように振り返る。
「……お前から言うとは思わなかった」
「何その反応!」
「成長したな」
「子供扱いしないでよ!」
「十歳だろ」
「そうだけど!」
道の脇にあった平らな岩へ腰を下ろし、水筒を取り出す。
オラクルも車椅子を岩壁の近くへ止めた。
メリーは私たちが休んでいる間に少し先まで飛んでいき、岩と岩の間を覗き込んでいる。ただし一人で見えなくなる場所まで行かないよう、何度も約束していた。
私は水を飲みながら、布団ゴブリンの地図を借りる。
現在地から先には、二つの黒い山が向かい合うように描かれ、その間に小さな洞窟の印がある。
横には大きく、
《黒龍王の洞窟》
と書かれていた。
「黒龍王って、本当にいるのかな」
「洞窟の名前だけ残って、中身は空って可能性もあるぞ」
「でも☆付きアイテムの噂もあるんでしょ?」
「噂は噂だ。最深部まで行って戻った奴がほとんどいねえって話まで一緒についてる。宝だけ都合よく本物だと思うなよ」
「分かってる。でも、せっかくここまで来たんだから見てみたいよ」
私は地図を返し、鞄へ手を添えた。
赤、緑、黄色がいない旅は、まだ少し不思議だった。
こんな場所なら、赤は黒龍の肉が食べられるか気にしただろうし、緑は洞窟について本を調べていたと思う。黄色なら☆付きアイテムが本当にあった場合、いくらで売れるのか計算を始めていたはずだ。
思い出すと寂しい。
でも、そのぶん次に会ったとき話したいことも増えていく。
私は緑から貰った白紙の本へ、山道について簡単に書き込んだ。
《黒龍王の洞窟へ向かっている。山は黒い岩ばかりで、道がかなり歩きにくい。布団ゴブリンから貰った地図は今のところ合っている。》
そこまで書いたところで、メリーが戻ってきた。
『フール』
「どうしたの?」
『大きい穴、あった』
私はすぐ立ち上がりかけ、途中で止まった。
まだ休み始めたばかりだ。
オラクルがこちらを見ている。
「……もう少し休んでから行く」
「本当に成長したな」
「だからその言い方やめて!」
十分ほど身体を休めてから、メリーに案内してもらった。
山と山の間を抜けると、それまで狭かった視界が急に開けた。
正面に巨大な黒い岩壁が立っている。
その中央に、洞窟の入口があった。
「……大きい」
思っていた洞窟とは全然違った。
高さは十メートル近くあり、幅も大型の馬車が何台か並んで入れそうなほど広い。入口の周囲だけ黒い岩が不自然なほど滑らかで、ところどころ表面が垂れた蝋のように波打っている。
私は近づきながら、焦げたような臭いに気づいた。
「何か臭わない?」
「ああ。古い煤みてえな臭いだな」
オラクルも入口の岩壁を見る。
「この辺だけ岩が溶けて固まってる。火を焚いた程度じゃ、こうはならねえ」
その言葉を聞いて、私は洞窟の名前を思い出した。
黒龍王。
「……龍の炎?」
「決めつけるには早い。ただ、何か強い熱を受けた跡なのは間違いなさそうだ」
入口の上には古い石板が埋め込まれていた。
表面は風雨で削られ、細かな文字のほとんどは読めなくなっている。それでも中央に刻まれた大きな文字だけは、かろうじて形を残していた。
《黒龍王の洞窟》
「地図、合ってたね」
「布団ゴブリンに礼言っとけ」
「帰ったら言うよ」
入口へ立つと、洞窟の奥から冷たい風が流れてきた。
外は乾燥していたのに、中から来る風には湿気があり、土と岩、それに古い煤を混ぜたような臭いがする。
外の光が届いているのは入口から二十メートルほどまで。
その先には、灯りのない暗闇が続いていた。
私は《聖なるマップ》を開いた。
現在地を示す印は洞窟の入口にあり、そこから先へは細い線が少しだけ伸びている。でも、まだ入っていない場所は何も描かれていない。
「やっぱり中へ入らないと進まないみたい」
「なら戻れるように、俺たちでも印を残していくぞ。マップだけに頼るな」
オラクルは白い粉の入った小袋を取り出した。
私は灯りを用意し、メリーにも一人で先へ行かないようもう一度念を押す。
三人で洞窟へ足を踏み入れた。
十歩も進まないうちに、外の風の音が遠ざかった。
代わりに、水滴が岩へ落ちる音が聞こえてくる。
一滴落ちるたびに、何度も反響しながら奥へ消えていった。
洞窟の中は外から想像していた以上に湿っていた。
天井から垂れた水が壁を伝い、床の一部には薄い水溜まりができている。黒い岩の上には細かな砂や砕けた石が積もり、踏むたびに靴底でざらりと音を立てた。
私は杖の先を一度地面へ置き、滑らないことを確かめてから足を運ぶ。
「これ、思ったより歩きにくいね」
「足元だけ見て頭ぶつけんなよ」
「こんなに天井高いのにぶつけないよ」
「今はな」
奥へ進むにつれ、天井が少しずつ低くなっていた。
入口付近では十メートル近くあったのに、しばらくすると半分ほどになり、壁との距離も狭くなってくる。
そして、洞窟の奥へ入るほど焦げた臭いが濃くなっていた。
私は壁へ灯りを向ける。
黒い岩の一部が、ガラスのように光っている。
「ここも溶けてる」
「しかも入口だけじゃねえな」
オラクルの声から、さっきまでの軽さが消えた。
誰かが昔、洞窟の入口で大きな火を使っただけなら、こんな深い場所にまで同じ跡が残るはずがない。
さらに進むと、今度は壁に巨大な傷が現れた。
五本の溝が斜めに岩を抉っている。
一本だけでも、私の腕より太い。
溝の内側は新しく削れたような色ではなく、長い時間をかけて黒ずんでいる。それでも、何か巨大な爪が岩へ食い込んだ跡だということは一目で分かった。
私は少し離れたところから傷を見上げた。
「……これ、爪だよね?」
「ああ」
「何の?」
「この洞窟の名前を考えりゃ、候補は一つだろ」
私は暗闇の奥を見る。
黒龍王。
さっきまで名前だけだった存在が、急に現実味を帯びた。
洞窟は静かだった。
でも、何もいない静けさには思えなかった。
遠くで水滴が落ちる。
冷たい風が、さらに奥から流れてくる。
その風の中に混じって、さっきまでとは違う臭いを感じた。
湿った岩でも、古い煤でもない。
もっと生き物に近い、獣のような臭いだった。
肩にいたメリーも気づいたらしく、暗闇へ顔を向ける。
『フール』
「うん。私も感じた」
オラクルが白い粉で壁へ印を残しながら、小さな声で言った。
「ここから先は、何が出てもおかしくねえ。☆付きアイテムを探すのはいいが、見つける前に食われたら意味がねえぞ」
「分かってる。無理には進まない」
私は杖を握り直した。
黒い洞窟の奥には、まだ道が続いている。
その先で何かが動いたような音が、一度だけ聞こえた。
岩を擦るような、低く重い音だった。
私たちはそこで足を止めた。
暗闇の向こうに何がいるのかは、まだ見えなかった。




