Ⅻ:天狼
「ルイス、どうして・・・」
白金の髪を乱し、白いシーツを素肌に纏うその姿は、まるで地上に堕ちた天使のようだった。
怯えと狼狽に揺れる青い瞳は、黒い銃口と凍てついた男の顔を、ただただ懇願するように見つめていた。
「あの男は何処だ」
四方を尖頭アーチの装飾窓に囲まれたこの部屋に、ブラトヴァの姿はない。
傘の骨の如く弧を描いた天井を見上げると、釣鐘の跡に豪奢なシャンデリアが下がっていた。
悪趣味な部屋だ───。
四隅の柱には巨大なバイソンの頭部、アカシカの頸、ヘラジカの角などが誇らしげに掲げられ、夥しいボタンが銃創のように腫れ上がらせた紅い革張りのソファには、まだ若いユキヒョウの毛皮が垂れている。そして床一面には、頭部のついた白銀の絨毯が敷かれていた。
「これがお前の正体か、ブラトヴァ───」
“君の欲は何だ。血か?肉か、それとも愛か?”
あの日、はじめてこの手を血で染めた時、俺は、あの人を護りたかった。
たとえそれが、残酷な選択であっても、俺は、あの時代を護りたかった。
獣と恐れられようとも、悪魔と罵られようとも、死神と怨まれようとも。
俺は、護り続ける。
すべては、己のために。
─── それが応えだ、ブラトヴァ。
夜空を見上げ、耳を澄ました。蒼白く浮かび上がる斑らの教会は、傲岸な老壁で唯一の光源である月を隠し、家畜も、人も、虫も、すべての魂を呑み込んだように森閑と寝静まっている。
白い繭のような花の蕾をつけた林檎の樹の傍らに身を隠し、中庭の隅から回廊越しに四方の建物を順に眺め見た。講堂、処置室、書庫、開かずの個室、炊事場と食堂、そして背面は啓蒙所。ここに、気配はない。
男は頸を回して、高々と聳える鐘楼の方を見上げた。その鋒の象徴はへし折られ、無冠の尖塔の天上には、無数の星々を散りばめた濃紺の空に一等輝く瑠璃色の星がぎらぎらと瞬いていた。
やはり、あの塔か ───。
男は使い慣れた黒い銃の丸い窪みに親指を当てがい、マガジンの弾数を目視した。スライドを引いて初弾を装填すると、身に染みた手順どおり、もう一度スライドを慎重に引いた。薬室を覗き見て装弾の確認を済ませると、雑念が消え、重心が整った。酷い目に遭ったものだが、幸い、左手の神経にも痺れや違和感は残っていない。
盗られた銃や機材は識別用集積回路と連動した生体認証付きだ。主人以外の手に渡れば、すべて、ただの瓦落苦多になる。腹癒せに破壊されていないことを願うが、手元に残ったのが予備の凡庸なハンドガン一丁とは多少心許なかった。その上、消音機器も無い。下手をすれば騒動になる。しかし、装備を探す時間も無ければ、単車とライフルのある丘陵地まで戻り策を練り直す気もない。
イリーナの告げた“今夜”と云う言葉が、静かな胸騒ぎを掻き立てている。
男は大きく息を吸い込み、冷えた夜気を肺に満たすと、神経の隅々まで感覚を研ぎ澄ませた。
孤独な獣の様子を傍で見護る林檎の樹を見上げ、男は、その可憐な姿に無言で別れを告げた。
多くの生命が去った、この氷雪の荒野に生き遺り、ただ独り、枯れず、染まらず、人々に搾取され続けることを厭わない姿は、強さと、やさしさと、静謐な神気を宿しているようだった。
しかし、この蕾が美しく咲き華やぐ姿を、決して見ることはないだろう。
ジャッカルは、動いた。
壁に沿って中庭を横切り、太い柱伝いに回廊に入ると食糧庫から伸びた陰を利用して屋根のある渡り廊下へ出た。左手には煉瓦を敷いた古路が家畜を放牧していた裏庭へと続いている。鼻腔に感じる下水の類いから、そこは水場であろうと予想した。前方には左右に分岐した列車のような棟が見え、片側は鐘楼へと続いている。踵から爪先へ慎重に重心を移しながら、突き当たりの二棟の連結部へ足を進めた。女子どもが潜んでいるのはこの先だ。
何層にも繰形が施された重厚な両扉の取手を握り、慎重に力を込めるも、男は小さな動揺とともに手を離した。扉は、頑として動かない。取手の下に黒鉄の板で補強された大きな鍵穴がある───ウォード鍵だ。これを撃ち壊す頃には、家畜も人も起き出して、大騒動になる。
イリーナ・・・あの女は一体何を考えているのだろうか ───。
男は宙をひと睨みすると向きを変え、渡り廊下を越えた。棟の壁には尖頭アーチ窓が幾つも等間隔に並んでいる。奉賛者の個室だろう。男は長身を低く屈めて枯燥と萌芽の入り交じる芝草の上を踏み、棟と食糧庫の間を抜けた。
白亜の化粧が剥がれ落ち、褐色の煉瓦が剥き出しになった壁に背を預けると、荒い鼻息を吐き捨てて紺碧の夜空へ突き抜ける尖塔を仰いだ。─── 灯りは無い。鐘楼の真下へ辿り着いたが、やはり進入は不可能だ。棟と鐘楼の壁は連結されている。空気は肌を刺すように冷え込み、月が西へと傾いている。時刻は不明だが、もう真夜中は過ぎているだろう。
苛立っている─── 俺は、怒りまかせに誰かを殺すのか ───。
ふと夜風が頬を掠め、遠吠えが聴こえた。森のオオカミたちが次々と呼応して群れを成し動き出している。遥か山脈の方々から谺するその美しく哀切な声は、まるで、山が啼いているようだ。
シビルの瞳が脳裏を過った───。あの少年は、たとえ独りでも、決して孤独ではなかったのだ。
黒い銃をその手に握り締めると、ジャッカルは、凪いだ顔を上げて、再び進みはじめた。
この箱庭と外界との堺である格子柵を背に立つと、西側の奥まった陰の中に、半月の装飾窓を戴く大扉が現れた。しかし、鍵の類は無い───つまりは、内鍵だ。
一か八か、片手を添えて押すと頑丈な扉は酷く軋み、その手応えに、男は肩を押し当てて全身の力を込めた。扉は幾らか躊躇いを引き摺り続けたが、時間をかけて重々しく降参した。中は深い暗闇で満ちている。月夜の方がよほど明るいほどだ。扉の内側を見ると、故意か偶然か、大きなデッドボルト式の黒鉄の閂が開いたままで留まっていた。男はその閂に掴み掛かった。永い間使われていなかったのか、癒着した錆を引き剥がすように何度か捻りを加え、重い鉄の棒をようやく引き抜くと、開け放った扉の内側に突き立て、内部に月明かりを入れた。
穹窿造りの天井と落ち窪んだ小窓に囲まれた伽藍堂の中腹辺りで、先ほど侵入を阻まれた棟へ通ずる扉があった。しかし、それには眼もくれず、男は既に隅に潜んでいる片開きの小さな扉に狙いを定め、脇目も振らずに直進した。次第に足取りに力が漲り、大股で突き進んで扉に体当たりすると、鍵の破片が石の階段に甲高く転がった。
戸口に立って耳を欹てていると、異変に気づいた獲物の動きを感じ取った。
この先には、もはや逃げ場はない───。
分厚い石壁が圧し迫る暗澹たる螺旋階段は、まるで旧き王族の墓場までの路を思わせる。
踊場の仄かな月明かりを目指して一歩、一歩と階段を昇るたびに、深く、深く底へ降っているような、奇妙な感覚に見舞われた。
永い永い階段を昇り続けると、視線を上げたその先に、蒼白い頂上が見えた。物音もなく、不気味なほどにしんと静まり返っている。ジャッカルは、最上段の手前で壁に背を預け、深呼吸を繰り返し乱れた息を整えた。そして、口元を引き締め、銃を構え、一気に踏み込んだ。
「ルイス、どうして・・・」
銃口は、白金の髪を垂らした少女の背中を捉えた。剥き出しの白い素肌を自らの腕で抱く、追い縋るような、赦しを乞うような顔は、男の青褪めた精神を驚愕の衝撃から、無情の冷徹さへと突き上げた。
「あの男は何処だ」
「ごめんなさい、わたし・・・」
「───囮だ。答える気がないなら、そこを動くな」
ジャッカルは少女の顔を睨み据えて、その動揺が不意に部屋の何処かへ気を逸らさないか具に観察した。独りで眠るには、あまりに大きすぎるベッドの上に座り込む裸の少女は、ありふれた涙に頬を濡らしている。
この部屋の詮索は徒労だと察知した男は、下手に踏み込むのをやめ、少女を視界に入れたまま静かに踵を退いた。
その途端、熱い破片が耳を掠めた。間一髪、男は咄嗟に屈み、獣のように部屋へ跳んだ。少女の悲鳴を合図に、狂暴な轟音が何発も追って鳴り響き、次々と石を抉り、仄暗い闇に砂埃を舞い上げた。
やはり、武器を所持していたか ─── しかし、上から狙い撃ちでは一溜りもない。
一向に降りて来る気配もない卑怯な男を諦め、ジャッカルは立ち上がって三叉槍のコートハンガーを握り締めると、振りをつけ、見上げるほど巨大な尖頭の窓に向かって叩きつけた。少女は再び悲鳴を上げた。硝子は木枠の窓格子ごと無惨に砕け、地上に破片の雨を降らせた。
男は風穴の開いた窓から慎重に顔を覗かせた。頭上に展望台らしき造りが見えるが、非常階段のようなものは無く、壁を這うわけにも行かない。
頸を引くと、ジャッカルはベッドに近寄り、裸で啜り泣く少女の上に無言でシーツを覆い被せた。
そして戸口に銃口を構え、静かに階段へと進み出た。
「飛び降りたとでも思ったか?」
狭い屋根裏の奥に、欄干から地上を見下ろす、黒く丸い無防備な背中があった。ブラトヴァは、その窮地に気づくと、脂に濡れた白髪混じりの毛髪の間から、余裕の消え去った慄く目つきで、恐る恐る振り返った。
「お前の“欲”の全貌を見た。交渉は無意味だ」
「・・・お前は、本当に、狂っている。ソーニャを、あの娘を突き落としたのか?」
ジャッカルは、演技性の強いブラトヴァの別人のような表情を不審に思いながらも、両手を脱力したまま、その手に在る銃を構えようともしない亡霊のような異様さに、わずかに瞳孔が揺れ動いた。
銃口を突きつけ、警戒を維持したまま展望台の方へ一歩踏み出すと、身体の奥底からみるみる焦燥が駆け上がり、ジャッカルはブラトヴァを押し除けて欄干に飛びつき、地上を見下ろした。
そこには、大きく広がった白布の上に、頸を折り曲げ、白金の髪を散らした少女の姿が横たわっていた ───。
その傍らには、黒髪の少年が、まるで幽霊のように佇んでいた。
そして、少年は力無く空を見上げ、遙か上空の獣の顔と見つめ合った。
風を切って、銃声が吼えた───。
肩口に衝撃を受け、身体は欄干と壁の間に倒れ込んだ。足元に転がった銃を拾おうとブラトヴァを睨むと、その身体は既に主を失っていた。見開いた眼が虚ろに空中を漂い、黒いマントがゆらゆらと揺れ傾き、そのまま欄干の外へと引っ張られるように消え去った ───。
ジャッカルは、焼き付けるような熱さに痛めつけられながら、ただ独り、尖塔の頂上に倒れ、果てのない無限の星空を見上げた。
月は彼方へ遠退き、瑠璃色の焔を燦々と燃やす天狼星が、ひときわ鮮烈に輝いていた。




