第二十四声「速くて強いだけの一本調子で、わたくしから勝ちを拾うことは適いませんわよ!」
重心が下がる。二足歩行の獣人が力を抜いて、両手が武舞台の地に触れたか触れないかの刹那。
ルインの眼から獣人の姿がかき消えた。咄嗟に軸足回転で左へと身を反らしたが不充分。生じた衝撃波は一直線に武舞台の対岸へと到達した。小さな娘など障害にもなり得ない。牙も爪も触れずとも、大きく弾き飛ばす。
ゴゴゴゴゴ! 制動を駆けるために爪で抉られた石床はまるで轍。ただの一撃でまともな武舞台は大きな傷跡に見舞われたのだ。
弾かれようとも横転にて勢いを殺し、ルインはすぐさま体勢を立て直した。手にはすでに銀扇を握っている。対応はできたとしても目視不可能。繰り出される斬撃突撃は体のいづれに命中しようが致命傷かそのまま絶命。もともときれいな品ではなかったが、着込んだお仕着せは獣人が掠っただけで鋭利なナイフで咲かれたように裂ける。露わになった白磁の肩から腕は赤い筋が伝った。
「速いし強力ですが、初見殺しですわね。見えずとも読むことは難しくありませんわ」銀扇を開いて、しなやかな盾のように身を覆う。王女の嗜みとして、攻めるよりは守る方ことが彼女の得意分野だ。
獣人は構わずに高速突撃を敢行した。
初撃目と違い速度は、更に速い!
受けてから捌いて流すを一連動作とするルインの器用さでも抑えきれない衝撃。まともに受けるのは悪手だと切り替えて、ルインは衝撃に身を任せた。脚で踏ん張るのを止めて、勢いに押されて吹き飛ばされる。
獣人は武舞台の端ギリギリで制動をかけ、鋼鉄の尾による重打撃のおまけを加えた。
ルインは衝撃に乗ったまま観覧席にまでの跳躍行を強いられる。空中では姿勢制御もままならないし、尾の一撃を防いだ左腕がまともに動かない。
観覧席の密集地帯はてんやわんやで飛来する王女から身を躱した。正しき力の儀に手を貸すのは認められていないし、小さな体躯といえども、まともに衝突すれば大怪我は免れない。
何度か体を捻り、腕を振る。ルインは最低限の姿勢制御にて観覧者の退いた先へと身を誘導し、
「っ!」
若木のような両脚と無事な右腕、それぞれの関節を巧く使い、衝撃を半分以上を緩和させた。代償はあったが、背部より叩きつけられることに比べれば雲泥の差。
「おい、嬢ちゃん」
観覧席の大男が恐る恐る声をかける。
「あら、これはこれは大角の親方」声を作ろうにも、体の傷みが阻む。ルインも負けじと最高の笑顔を浮かべて現場監督の大角男に応える。
「奇遇ですね。このような場所でもお顔を……合わせるなん、て」けほけほ、咳き込む小さな王女の姿に大角男は言わざるを得ない。
「もう止めとけ! 降伏すればジェオン様も許して下さる!」
「降伏することはできませんわ」穏やかな顔で小さな王女は笑った。
「なんでだよ! こんなにボロボロんなって、おふざけも過ぎると死んじまうぞ!」
「ご心配には感謝いたしますわ。ですが、わたくしは降りません」
「意地になるなって! 死んじまったらなんにもならねえよ! 旨い飯も酒も、風呂だって、嬢ちゃんが大好きなお遊びだってもうできなくなっちまうぞ!」
「親方の仰る通りですわね。確かに、死んでしまえばそこで終わり。遺志は残すことができても、楽しいことはできませんものね」
「じゃあ」
ルインはやはり首を振った。
「生きることは大事です。いたずらに命を投げ出すことは愚かです。親方には、今のわたくしがそう見えているのでしょうね」
「ああそうだ、馬鹿げてるぜ!」
「ですが、この闘いを避けることはできません」
王女は頑としていた。
「傷ついた痛みに蓋をして、傷を視ない素振りを続けることで、傷は大きく深く浸透していきます。わたくしは親友の傷を知りつつ、知らない素振りをしてきました。いつか親友の方から打ち明けてきてくれるものだと、疑いもしませんでした」
でも、そうはならなかった。
「ですから、見て見ぬ素振りは止めたのです」
「傷って、嬢ちゃんの方が傷だらけじゃねえかよ!」
「見た目の傷は体が治してくれますが、内側の傷を治すにはどなたかの手助けが必要になりますわ」
「ジェオン様が、心の傷を……?」
「親方、お話しできて嬉しかったですわ!」
観覧席を飛び降りる。両の足首に走る鋭利な痛み。着地の際に捻ったものか、折れてはいなさそうだ。
足の不調を感じさせない優雅な足取り。
「嬢ちゃんは掃除大臣なんだろ! その仕事放り出しちまう気かよ!」
大角男は叫んだ。周囲にいる彼の部下たち、現場作業員たちもルインを案じるような視線を送っていた。
「そうでしたわね。わたくしは魔王国デモナリアが清掃担当大臣でありましたわね!」
ルインは観覧席を振り返り、銀泉を大きく掲げて笑った。
「わたくし、絶対に勝ちますから!」
力強い宣言。この円形闘技場で最も傷ついているはずの小さな王女が唱えた短い言葉。それは耳にした者の意識を王女に釘づけるには十分すぎるもの。
ルインの足取りは軽い。命懸けの闘い。
たった今、先刻、運が悪ければ死に瀕していたとは思えないほどに、少女は穏やかで、明るく、自信に満ちていた。
「自分には負けません!」
まるで、これから上がる舞台にてダンスを披露するかのごとく、程よい緊張感と高揚感。力が満ちる。痛みが引いたわけでも、傷が治ったわけでもない。左腕は手首から先しか動かない。膝関節にも鈍痛を覚える。
しかし、心がなんと澄んでいることか。
「なにを笑っている?」
獣人は低く唸った。
「おかしいわけではありませんわ。決して楽しいわけでも、喜んでいるわけでも」
小娘のふっきれたように清々しい表情を訝しく思う。獣人は苛立っていても、次の言葉を待つほどの余裕を取り戻していた。
「ジェオンさん、そろそろあなたの本心を見せて下さいませんか? 今のあなたは辛いお気持ちを深奥に潜めて隠したまま暴力を振るう装置です。激情であっても、感情を曝け出して下さい! さもないと、あなたの辛さは癒されることはありませんわ」
「減らず口ばかりかガキィが」
「いくらでも申し上げます! 今のあなたの姿勢には意味などない! 正しき力から遥かに遠いものです!」
「違ぇよ! 勝ったものが強い! 強者の存在こそが正しい力の本質だ!」
「いいえ否定します! ご自身の感情にさえ尻尾を向け続けるあなたの力が“正しき力”のはずがありませんわ!」
獣人は、まさにケモノ然と牙を剥いた。獅子の貌の鬣は逆立つ。硬い体毛は鉄の棘。先刻の数回よりも、身を深く沈ませて、しっかりと眼前の敵を見据えた。
「本気でブッた斬るぞ小娘っ!?」
「やって御覧なさいなジェオンさん! あなたの本気はこの程度のかすり傷しか負わせられませんか? あなたの爪や牙はこけおどしですか?」
「ぐぬぬぬぬっ!」
獣人は強く、更に強く地を蹴った。
石床が穿たれる。脚が沈むよりも疾く、獣人は鉄棘を纏った弾丸だ。
「速くて強いだけの一本調子で、わたくしから勝ちを拾うことは適いませんわよ!」
ルインは両手を広げて、突撃する獣人に無防備を晒した。
誰とも知れない悲鳴が観覧席から上がる。
武舞台から目を離さない魔王ですら眉根を寄せた。
部隊の上の二人。さらわれた雪国の王女と獣人だけが知る。
王女が慈愛の笑みを浮かべたこと。
それを目にした獣人が、咄嗟に床に爪を立てたこと。




