第二十二声「できれば、姫様たちとも仲良くしてくださぃ」
昂ぶりを鎮めるためにお気に入りの夢魔をどれだけ傅かせて嬌声をあげさせようとも、闘争への欲求は激しさを加速度的に増してゆくばかり。
獅子じみた貌。くすんだ翡翠の鬣は針金のように硬い。濁色を帯びた黄眼の奥には火が宿っていた。
ジェオン。獣人にして魔王国の四大幹部。国内で最も鋭い爪と瞬脚の持ち主。狡猾であり基本的に残虐。心を許すのは現元首と数人の部下のみだ。
小さくて狭い小屋のような室内に息苦しさを感じつつも、傍らでぐったりと横たわる夢魔の寝息を耳が拾っていた。
苦しそうな様子はない。疲れ果てて寝入っている時のそれだ。薄くて汚れた掛布越しにさえ判る豊かな肢体を毎夜ごとに嬲っているのだ。嫌でも違いは知れるというもの。
はだけた掛布を正したりはしない。零れる双丘を凝視し、傷を眺める。獣人自身が刻んだ証と、その下にある呪いによる黒紫の澱み。澱みは胸の間から緩やかに拡大していく。日ごと夜ごとでは変化も気付けないが、一ヶ月二ヵ月三ヶ月経てば、大きさも濃さも顕著になる。一年二年三年過ぎてみれば鎖骨付近や下腹部にまで澱みは呪巣を拡げていた。
被呪毒者への影響は推して測るしかない。ジェオンの肉体は変化に拮抗した故に、容貌こそ人ではないが力に満ちた新しい種として適応を許した。
しかし賢人フィロソムのように、変化に抗いきれない者らは徐々に何かもわからぬ別物に存在を書き換えられていく。
獣人も幾度も目にしていた。理性を、記憶を、感情を失った怪物らと、その断末魔を。肉か土かも判別し切れぬ物質を葬る爪の感触を。気持ちの良いものではない。
故に彼は呪う。どうして自分たちばかりが苦汁を啜らねばならないのだろうかと。鬱屈した感情は怨念を膨らませるだけでは済まない。人格を、その魂さえもをより暴虐に変質させていく。
無意味なはずの行為に意義を求めて、価値あるモノへは色彩を濁らせんと傷つけてしまう。
どことなく子供じみている。そうも認識しているが、衝動はとめどなく、津波となって襲い来る。抗ってみても更なる苦痛に見舞われるだけ。ならばいっそ、身を任せてしまえばいい。
そうして蝕まれていくのだ。彼は自覚している。
獣人が未だに自我を保てている理由があるとすれば、彼にとっての日常が傍らにあるからであろう。
「同族嫌悪ってやつは初めてだが、確かにアレはオレと同じだぜ」
同じ質を持つ者だとしても全くの同類ではない。
自己を維持する糧のために流れに身を任せる者と、自己を平然と流れに放り込むを糧とする者。似ているからこその決定的な違い。
「相変わらずエンド様はよく見ているぜ」
唯一信頼を預ける漆黒の美丈夫の視野に広さ、懐の深さに獣人は心を燃やす。
これは自己矛盾なのだ。自己矛盾を認識したう上で「打ち破れ、か」。
獣人は首を振って「ブッ潰せ、、、がオレ流だな」クククと喉を鳴らした。
「救いなんて必要ねぇぜ。いつでも、どんなときでも壁はブッ壊すもんだろ!」
傍らに脱ぎ捨てた羽織りの、付嚢から小瓶を引っ張り出した。上薬の所為か青く変色した厳かな造りには特徴的な意匠が押されていた。強く押し込まれていた木栓を抜くと、勢いで水滴が飛び散った。
「っ!?」
じゅっと、水滴が掛かった腕から紫煙が立ち上った。獅子の貌が苦痛に歪む。獣人は思わず身を仰け反らせる。特別に痛みに弱いことなどない。体を、ではなく存在を否定されたような本質的な激痛は、ジェオンにとっては生まれて二度目になる。
寝台が大きく揺らされた衝撃に、夢魔は目を覚ました・
「ジェオン様、どうなされました?」
「なんでもねぇ……寄るんじゃねぇ!!」
獣人はロブエルを強引に振り払った。剛腕はいともあっさりと夢魔の躰を狭い部屋の壁に叩きつける。
背部への衝撃は夢魔を咳き込ませるに充分だった。
ロブエルも眩暈を覚えながら、それでも獣人の傍に歩み寄った。
たった数滴の雫がもたらした致命的な苦痛に、未だにもがき苦しむ。腕を床に押さえつけて患部を圧迫、または殴りつける。
「ダメです、痛いのはダメなんです!」
「床でしか役に立たねぇ夢魔程度が吠えるな」
「痛いのも怖いのも、あたしだけでいいんです! だから」
今度は縋りつく。鉄状毛が柔肌を傷つけようとも、彼女は力を緩めなかった。獣人が腕を振るうたびに鉄状毛が深く刺さるが、夢魔はただただ自傷を諌めようと身を挺した。
「わかったから離せ」獣人が腕を収めたことで、夢魔も強く縋るのを止めて、傷口を恐る恐る撫でた。
「熱い!」じゅっと焼けるような紫煙と突き刺すほどの深痛が全身を支配した。ロブエルは顔を歪めながらも、手を離そうとはしなかった。
「離せよ、お前まで爛れるぞ」
「子供のころに誰かが教えてくれました。痛いのは一緒に感じれば半分になるんだって」
「バカかよ? 二人とも痛ぇだけじゃねーか」
「そうですよ。だから通じるんです。痛い気持ちがわかるから、痛いのを少しだけ忘れることできるんです」
「バカバカしい」
言い放つも、獣人は夢魔の好きにさせておいた。痛みが徐々に和らいだのは時間経過によるものに違いない。それでも、“手当”を続ける夢魔の穏やかであやすような表情に呆れる。呆れつつも止めることはしなかった。
「もういい。マシにはなった……」
「よかったです」
傷を隠すように手を握り込む夢魔。顔色を変えないようにいつもの笑顔を浮かべる。そして恐る恐るに獣人が置いた小瓶を指さした。
「ジェオン様。その水は一体」なんの毒なのですか?とは言葉を飲み込んだ。薬品というには強すぎて、毒というには澄みきっていた。
「こいつは聖水ってやつだ」清浄協会のお墨付きだと、獣人は意匠を顎で示した。
「オレたちみたいな呪いに汚れた輩にとっては致命的なまでの毒みたいだがな」自嘲じみた笑みに、夢魔は不安そうに小瓶より後ずさる。
「邪悪を退けて、協会を信仰する徒に祝福を与えるなんて嘯いていやがる連中の真実ってやつを見せられているようだぜ」
夢魔は困惑気に首をかしげた。
「コイツには邪悪を払う効能があるっていうんなら」身を侵す呪いを解する可能性があるやもと。
バカバカしいと獣人は喉を鳴らした。
「浴びたらどうなるのかってな。頭でっかちの魔女やあの小娘に頭から浴びせたならどうなるのかってな」小瓶は国境侵犯をした協会信者の娘の懐より取り上げた物だ。
「ジェオン様止めて下さい!こんなものを浴びてしまったらコーディニアス様も姫様も大怪我をしてしまいます!」
云われるまでもない。
こんな聖水を頭から浴びせたのならば確実に死に至る苦痛が絶え間なく身を苛むのだろう。それはジェオンの流儀ではない。明暗をはっきりつけるのも、排斥するも服従させるのも手頭から行うのが獣人の常套である。
「そいつに触るな!」
何を思ったのか、小瓶を持ち去ろうと動いた夢魔。獣人は僅か以上に焦りを覚える。
攻撃にも程近い剛腕と鋭爪が伸びるが、それは小瓶を捉えなかった。
呪いの変質による浅黒い柔肌を切り裂く。鮮血が噴き出して、爪を、寝台を、壁を、洋灯を、赤く紅く朱く塗り替える。
悲鳴も苦鳴もなく夢魔は地に伏した。鉄錆の臭い。アカの色彩は冷たい石床に染み込む。
獣人が行為と結果を認識できたのは、夢魔が倒れてから五度の呼吸を重ねた後だった。
獣人は動かなかった。手足が石像然と固まったように。指先の震えや、息の荒さは彼の冷徹な意思と意識を以ってしても適わない。血濡れの鋭爪の先端に残留する感触。無色透明だったものが急激に生々しい感覚を帯び始めた。
「お……」
「ジェオン様は、わるくない、のです」
のそのそと身を起こす夢魔。裂けた背部からは赤いドレスがとめどなく彼女を飾り立てた。
笑顔は何故かとても穏やかだ。泣き顔だけ、苦痛を受けるだけの表情しか知らない獣人。この部屋での、夢魔ロブエルしか知らないジェオンは胃の辺りに酷い締め付けを覚える。
この女はただの愛玩であるはずなのに!と。
「ずっと、ありがとうございました。あたしは、嬉しかったです」
いつの間にか、女の腕の中には小瓶が抱かれていた。固く締めたはずの栓は開らかれている。
「おい、やめろ! それは……!」
「できれば、姫様たちとも仲良くしてくださぃ」
女は瞼を閉じて、小瓶を傾けた。
透明よりも寧ろ銀色の聖水がちょろちょろと流れ出でる。激しい蒸気と肉が爛れる臭気が狭い部屋に充満する。
悲鳴。もしくは絶叫。それは女のものなのか、獣人のものなのか。
本人たちでさえも理解し得てはいなかった。
新年明けましておめでとうございます(^ー^)
年末の最終投稿は叶わず、年始も4日スタートとなりました。
また生活リズムを戻しつつも、追われ過ぎないように頑張ってみますね!
本年も【新訳ひめまお】をよろしくお願いいたします( ≧∀≦)ノ




