第十七声「なります! あたし姫様のお嫁さんになりたいです!」
ごりごり、ごりごり。灰汁を染み込ませた床を砥石で少しずつ、撫でるように削る。一か所に呑み力を入れないように、なるべく面で擦ることで、染み汚れは次第に存在感を消していった。
代わりに姿を現したのは綺麗な床面。このままでは削った箇所のみが真新しく目立ってしまう。ならばと、ルインネイスは衣装殿の床総てを均等な状態になるように、黙々と手を動かし続けた。
時刻は深夜を大きく過ぎた頃。中空の月が遠くなり、窓からの明かりも取りづらくなってきていた。母なるの雪アイセンブルグの私室であったら、洋灯に暖炉にと薪や油をふんだんに使うこともできていた。
「明日に持ち越すわけにもいきませんしね」小さく欠伸をしてから、鼻歌交じりに丁寧に床を擦り続ける。
ごりごり、ごりごり。床磨きの単純作業など生まれて初めてのことなれど、それなりに楽しくできている。
もしも隣に親友が居てくれたならば、おしゃべりに夢中になって作業も進まず、ばあやにお小言をもらうまでの過程が目に浮かぶ。
「皆、元気なら良いですね」
両親や叔父、親類。武官、文官に兵士、侍女たち。王宮に仕えてくれていた使用人たち。城下町へ抜け出した際に邂逅した住人達。顔を合わせなくなって数日であるのに、もう懐かしさが溢れ出だす。
「デモナリアでも仲良しさんをたくさん作りませんと!」砥石を擦る手に力が入る。
「コーディニアスさんもロブエルちゃんもいい人ですしね」さてと、二人と仲良くなった後はどんな遊びをしたものかと、王城中の造りを思い起こす。
「親方やその奥方、職人さんたちにも喜んでもらえるようなことを」王女は楽しい思考を切り替えて
「それよりもまずは連合の方ですかね。イグリアの鷹王様を説得いたしませんと」もしくは懐柔、最悪は脅迫。彼女は幾重にも脳内で策を張り巡らせるが、首を振って否定した。
「いけませんいけませんね。今のわたくしは下働きの小娘。政治に口出しなんてとてもとても」
気が付けば衣装殿の十分の一ほどが綺麗に磨かれていた。
明日の昼までには終わるだろうと、王女は一旦、体で伸びをする。
ぎぃぃぃと衣装殿の扉が開く。
「あの、姫様、おられますか?」
「はいはい! ここにいますわ」
甘えるような声に立ち姿を認識するなり、ルインネイスは大手を振り回し主張する。
「姫様、洋灯も点けないで」
「客分ですからね、無駄遣いはしませんのよロブエルちゃん」
夢魔は手持ちの蝋燭の火で、部屋の壁灯に明かりを移した。
そしてすぐに、現状を目にして二度目の驚き。
「姫様、これをお一人で?」磨かれた床石のことだ。ルインネイスはない胸を張って見せる。
「わたくしにかかれば他愛もありませんわ」もともと古びていたお仕着せは擦り傷や破れでボロボロ。灰汁やなにかわからない液体でべとべとに汚れている。剥き身で砥石を握りこむ白磁の手先指先も大きく荒れていた。
「こんなにボロボロになって、お可哀そうに」
「このくらいは平気ですわ! 働き者の手はこうでなくてはいけません! まだまだ親方の奥方やロブエルちゃんには及びませんとも」
ぎゅっと、ロブエルの肉神的な身を抱きしめる小さな体と細い腕。。夢魔は戸惑い、どこか恥じらいを覚える。身の醜さや汚らわしさを認識しつつも、王女を払い退けられない。
「ロブエルちゃんはぎゅっをしてくれないのですか?」
「あたしは……」
小さく狭い小屋の中での己の姿がおぞましい。決して知られたくない。気付かれたくない。ならば突き放すべき。でも離したくない。離れたくない!
「では、わたくしがロブエルちゃんの分までぎゅっをしますね! 手加減はしませんよ?」
混乱する夢魔の思考などお構いなしに、小さな王女は距離を縮める。優しくて強く。夢魔の意地も抵抗も、全部わかったように。膝が崩れ落ちて、いつの間にか頭を、禍々と伸びる角を撫でられ、安息する。
「もう後悔も遠慮もしませんのよ、ロブエルちゃん。あなたが嫌がったってわたくしはロブエルちゃんのお友達。あなたが苦しんでいるなら全力で救って、全力で笑わせて差し上げます」
「姫様」
「もうそろそろ王女も捨てませんとね。ロブエルちゃん、わたくしことはルインとお呼び下さいな。わたくしはデモナリアのルインです」
わかりましたか? 優しく角と髪を撫でられながら、夢魔は夢見心地に頷いた。
「姫様」
「ですから姫はもういいんですよ。仕方がないですね、ロブエルちゃんは」
「魔王様もコーディニアス様も尊敬しています。でもあたしの一番は姫様がいい」
夢魔というのはなかなかに罪作りな生態なのだとルインは身を以て実感していた。潤んだ瞳で見上げる、仔犬よりも強烈な庇護欲と独占欲を掻き立てる。女の身であることが幸運なのか不運なのか迷うところだ。
「ロブエルちゃんと婚儀を交わすには如何すればよいものか真剣に考えさせられますね」
夢魔はとろんとした目で首をかしげる。
「ロブエルちゃんを将来の伴侶として……お嫁さんに迎えたいなぁ~って言ったんですよ」
「なります! あたし姫様のお嫁さんになりたいです!」
「では、これで相思相愛ですね!」
撫でるように黒い髪に指を通すと、夢魔は身震いしながら体重を預けた。
「そのためにも、まずはわたくしもデモナリアのルインと認めて頂く必要があります」
「認めてもらうとは、コーディニアス様にですか?」
「皆さんです。このデモナリア王国に生きる皆さんに、わたくしを認めて頂くのです!」
どうやって? 夢魔は眠りに堕ちそうな意識と格闘しながらも尋ねる。彼女の知る限り、さらわれてきた王女への印象は奇異か疎んじるもの、若しくは脅威を抱くものだけだ。
「まずはデモナリア中を綺麗にお掃除して回りましょう! 綺麗になれば人心は穏やかになるはずです! 魔王様に本当の清掃担当大臣にしていただけるやもしれませんしね!」
「あたしもお手伝いします。不器用だけど、一生懸命頑張りますから」
「いいですね。二人でお掃除旅行を満喫しましょうか!」
ふぁい。赤子のように言葉が歪んで、夢魔は深く眠りに堕ちる。表情はどこか穏やかだ。安堵したせいか、余程の疲労が蓄積していたのか。
ヒューと小さく口笛を吹いた。衣装殿の扉が押し開かれて、白い体毛の巨虎がぬぅっと現れた。
「ホーンちゃん、この子を休ませたいのでお願いできますか?」
白巨虎はゴロゴロと喉を鳴らして了承する。
「わたくしのお嫁さんなんですから、悪戯してはダメですよ?」
嬉しそうに頬を擦り付ける白巨虎は主人の傍で丸く座した。腹には夢魔が包まれるように眠る。
「夢魔さんということなので、良い夢を見れるといいですね」よしよしと顎を撫でてやる。ホーンは満足したように目を閉じる。
ルインはしばらく虎獣魔と夢魔の眠る様子を眺めてから、もう一度大きく伸びをすると、
「さてと、お仕事に戻りますか!」
砥石を控えめに床に擦り始める。
作業が終わったのは数刻後、早朝だ。
夢魔が目を覚ましてルインの姿を探し求めたる、すでに王女は何処かへと消えていた。
寂しさはあるが、じっとしていられない性分の姫を思うと可笑しくなり、納得してしまう。
覚束ない足取りで、夢魔は衣装殿を後にした。
ルインを探しに出たわけではなく、自らの本分に戻るのだ。
あの小部屋を好んでいるわけではない。
夢魔に優しく接してくれる小さな王女にもたれかかってばかりの自分を少しでも変えるために、自ら歩みを進める。
なんの覚悟も努力もしてこなかった。
状況に流されてここまで堕ちてしまった。
魔女の言葉が、今頃になって突き刺さる。
「また、お仕事を手伝わせてもらえるかな?」
今度は気持ちよく同意の返事をしたいと、ロブエルは登りつつある陽を目にしていた。向かう先が澱と汚泥に塗れていようとも。




