第14話 それぞれの異世界
日が高くなる頃、馬車が止まったのはヴェネラル王国から真南にある所らしく、ラキアの指示に従って馬車を降りると、そこは銛の中にある丘のような場所だった。
辺りを見回すと数カ所程、木々の奥に開けた場所があり、微かに水音が聞こえる。
「もしかして、どこか近くに滝がある?」
「そうだろうな。……向こう側から聞こえる」
2人は辺りを観察し、警戒すると同時に、戦術を考えて始めていた。
周辺に何があるかを把握し、地形的に何が使えるかを考える。
戦闘が少しでも有利になるように思考を巡らせる。
先程の戦いで、踏ん切りがついたのか、一皮むけたであろう2人に、動揺や焦りは見られない。
だが、その後ろにいる1人。大樹だけは、不安そうに2人の後ろ姿を眺めているだけだった。
「アレクイーグルという鳥は主に魚を狩って捕食する鳥だ。鳥というだけあって動きが素早いから気をつけろ。好戦的でもあるから姿を見せると容赦なく襲ってくるぞ」
ラキアが次のターゲットについて説明すると、先導するように三人の前に立ち、後ろに続くよう指示する。
3人は黙って頷いてから従い、木々の茂る森の中に足を踏み入れていく。
大きな木々を縫うようにして前へ進んでいくと、段々と滝の音が大きくなる。
やがて、川が見える場所まで来ると、その上の崖に並ぶ鳥たちの姿が確認できた。
まるで電線に止まるムクドリのように、その数はざっと40は超える。
細くしなった黄色いクチバシと、ムクドリの数倍はある体躯と禍々しい紅い体を見ると、やはり魔物と呼ばれるべき生き物なのだと分かる。
「これ、全部を相手にするのか?」
未だこちらに気付いていない鳥たちを見上げ、耕介が呟く。
「あいつらの攻撃力自体は低い。速いだけだ。ちょっと固いクチバシで突かれる程度の可愛いものだ。正面突破で我慢すれば問題ない……が」
「なんだ?」
ラキアの歯切りの悪い言葉に、耕介は視線を鳥たちから外す事なく先を促す。
「距離を取ってから突っ込んでくる奴には注意だ。近距離で戦う分には可愛いが、速さがある分、長距離から加速して一気にぶつかって来られると、ちょっと固いクチバシでも十分な威力になる」
「なるほど。具体的な攻略法はあるのか?」
「俺なら遠距離から飛んでくるアレクイーグルのみに集中し、来た所をカウンターで合わせる。近くにいる奴らは適当にあしらう」
「さすが脳筋。参考にならないな。師匠はこういう時どうすると思う?」
「ダルド様なら……そうだな。全部重力魔法で落として、必要なだけ倒していくだろうな」
「ふむ……あんだけの量をいちいち相手していてもキリがないしな。そういう考えは理に適っているな」
「……グラビってほんと使い勝手がいい魔法ですよね」
「小室君も覚えればいいじゃないか? 便利だぞ?」
「ストラ先生はちなみにどうします?」
背後で戦略をあれこれ考えている2人をニコニコとして見ていたストラに話を聞くと、その笑みを崩さずに、何となく予想できる答えが返って来た。
「私ですか? この川を使って水の中に引き込んだ後、凍らせますね」
「デスヨネー」
雄也は引きつった笑いを返して、耕介を見やる。
「結局、2人で相手をするには効率のいい倒し方を考える必要がある。一気にやれればいいが……私達にはそんな技量はまだない。よって、あれを使おうと思うのだがどうだろう?」
そう言って耕介が指し示したのは、滝の横にポッカリと空いた洞窟。
耕介の意図を悟った雄也は、それでいきましょう、と大きく頷いた。
◇ ◇
一同は洞窟の中に入り、アレクイーグルが視界に入る浅い場所で足を止めた。
洞窟の入口は横に狭い縦穴になっていているが、場所が滝の横にあるので光はあまり入ってこない。だが、ランタンを灯せる魔法を習得している以上、暗闇というものはもう怖いものではなかった。
弱い炎が揺らめく洞窟の中、耕介が自分の考えた作戦内容を説明すると、ラキアとストラがなるほど、と感嘆の息を漏らす。
「よく考えるじゃないか」
「ラキアのように正面からってのは性に合わないし、何より効率が良くないからな。師匠みたいに全部を攻撃なんて出来ないし、こういう事を考えないとやっていけん」
「はっはっはっ! 言うじゃないか。なら、スマートに成功させてくれよ?」
「……正面突破がスマートじゃないことだけは理解してるよな?」
「正面から堂々と相手を斬り伏せるのはスマートだと思うが?」
「……そうか。これ以上やり取りは無駄だな」
熱苦しさを思わせるように、腕をくの字に曲げて主張するラキアの言葉に呆れた耕介は、会話を打ち切ると、雄也に話を振る。
「さっきの話でいけそうか?」
「大丈夫です。単純作業は得意ですから。さっきのヴェネウルフよりはやりやすそうです」
「頼もしいな。それじゃ、始めるぞ。3人とも下がっていてくれ」
耕介の指示にしたがって、ラキアとストラと大樹は更にもう少しだけ洞窟の奥に歩を進める。
それを確認すると、入り口から少し入った所で雄也が剣を構え、耕介は入り口に立って静かに目を閉じた。
集中して放つ魔法のイメージを明確にする。
想像するものは、土の魔法。ダルドが使っていた、石の槍。サリアーラで見たような3メートルを超える大きさのものは作れないが、雄也を助けた石の矢をもっと頑丈にしたものを想像する。
耕介が魔法を100%発揮できる有効範囲は、およそ60メートル弱。
先程、雄也を助けるために魔法を放った距離が感覚的に覚えている距離であった。
しかし、今は100メートルは離れている距離を狙撃する。正確には撃ち落とすわけではなく、こちらに攻撃の意識を向けさせればいいので、100%の威力でなくても届けばいい。
だから、槍。矢では心許無いから、威力が落ちても届くように1メートルはする石の槍を思い描く。
「『ロックランス!』」
右手を持ち上げ、叫ぶと手のひらに石の槍が出現した。そして右腕を引き絞り、目標であるアレクイーグルを見据えて投げ放つ。
その様子を見守る雄也は、襲ってくるだろうアレクイーグルの群れを見極めるために、耕介の放った石槍の行く末を見守る。そして──
「来る!」
耕介の実力か、はたまた偶然か。
一匹の鳥を落とした事で、崖に止まっていた群れが一斉に羽ばたき、大きく広がってからこちらへと向かってくるのが見えた。
「落ち着けば対処できるハズだ。いくぞ、小室君!」
「はい!」
洞窟に入ってすぐの場所にある窪みに身体を隠した耕介は、直径1メートル程の洞窟の入口に向けて2つの魔法を使用した。
「『アクアウォール!』、『グラビ!』」
入り口から5メートルほど中、ど真ん中に立って雄也は洞窟の外を見据えていたが、耕介のアクアウォールで洞窟の外が見えなくなった。
そこに突っ込んできたのは3羽のアレクイーグル。
しかし、滝の水を引水して洞窟の入口に作られた水の壁に、飛び込んできたアレクイーグルはその勢いを弱め、地面にそのクチバシを突き刺す。
その隙だらけのアレクイーグルに、雄也は剣を振り下ろした。
「フッ!」
体の作りはやはり鳥と変わらず、細くなっている首元を一思いに葬る。
やることは至ってシンプル。
耕介は入り口に水の壁を作って突進してくる動きを弱める。更に重力魔法をかけて、突っ込む軌道を下へと向けて、動きを鈍らせるのが目的。
そして雄也は動きを弱めたか、あるいは運悪く地面にクチバシが刺さってしまったアレクイーグルを退治して行く。
これが耕介が出した案だった。
こうして安全に狩ること、15分。
もうこれ以上襲ってくる様子もなく、耕介がアクアウォールを解除すると、アレクイーグルの姿はもうなかった。
足元には未だ数十匹の死骸が転がっていて、目標枚数の10枚を大幅に超えていた。
「思ったんですけど、これって1匹倒して10枚の羽をもげば良かったんじゃないですかね」
「残念ながらユウヤ、依頼で必要になるアレクイーグルの羽はこれだ」
ラキアが足元に転がる1匹のアレクイーグルを持ち上げて、右側の翼の根本から一本の色違いの羽根を切り出した。
深い赤っぽい色の中に隠れるように一枚だけ存在するその羽は、黒ずんでいて異様な雰囲気を持つ。
「これが一般的に言われているアレクイーグルの羽だ。覚えておくんだ」
「1匹から1枚しか取り出せないのか? 面倒だな」
耕介がぼやく間にも、1匹また1匹と消えて行くので、大樹も手伝って雄也と耕介はアレクイーグルの羽を回収した。
「これって何に使うんだ?」
「これを煮詰めて抽出すると、羽ペンのインクになるんですよ。私もよくお世話になります」
「……なんともまぁ、庶民的な」
ストラの言葉に溜息を吐きながら、次の依頼を片付けるために洞窟を後にした。
◇ ◇
「しっかし、結局今日は最後まで大塚君は戦わなかったな」
「すみません……」
「まぁまぁ。いいじゃないですか」
「だが、このままでは……」
「いいんですよ。出来る人がやれば。そうそうこんな決意なんて出来ませんって」
今回受けた依頼の報告、そして品物を納品して、城へと戻り、夕食を食べた3人はいつものように大樹の部屋に集まっていた。
だが、雰囲気だけはいつもと違っていて、大樹があまり喋らずに俯き気味になって、ベッドに腰をかけていた。
雄也はソファーに寝そべり、耕介は部屋の中心にある椅子に座って、机にだらしなく上体を横たえている。
そんな状態でダラダラと話しをしていた耕介は、上体を起こして雄也に言葉を投げた。
「前から少し思っていたんだが、小室君は大塚君に少し甘いんじゃないか?」
「そんな事ないですよー」
「そうか。世が世なら、大塚受け、小室攻めの本が大流行だな」
「大樹は昔から受けだ総受けだ、とは言われてますけど、俺を攻め子で参加させないでくださいよ! それに、そんな狭いマイナージャンル、流行するわけありません! やめてください!」
「ま、何か勘繰りたくなる程に甘やかし過ぎだと思うわけだ」
「そういうつもりは本当にありませんて。魔物退治なんて出来る人が、本当にやりたい人がやればいいんだと思いますよ。この世界に生きる人だって、全員が全員戦うための術を持っているわけじゃないですし」
「そりゃそうだ。だが────」
「勇者だって事ですよね。それも別に、勇者が側にいればラスボス倒すのが別の人でもいいんじゃないですか? ほら、ゲームでもとどめ刺すのが勇者とは限らないじゃないですか。世界を救うのが勇者一行、つまり勇者の仲間なら誰だって問題無いですよ。結局世界を救えばいいんですから」
「それはそうだが……さすがに、勇者も戦わないと見栄え的に良くないんじゃないか?」
「まー無理に敵と戦って、怪我ならまだしも死んじゃうよりはいいと思いますよ。それに、大樹ならきっとその内戦えるようになりますよ。何だかんだ腹を括れる奴ですから」
雄也はそう言いつつも、ベッドにうつ伏せになって倒れている大樹を見やる。
無論大樹も寝ているわけではない。2人の会話が途切れたことで、自分に視線が集まっているのを感覚的に察知すると、上体を起こして2人の視線を受け止めた。
「雄也……ありがとう。ごめんね」
「別にいいって。大樹はスタートダッシュが遅いだけなんだろ? 勇者なんて主人公属性を持ってるんだからきっと大丈夫さ」
耕介は2人のやり取りを見ながら、呆れ混じりに心の中で溜息をついた。
「それよりも、だ。夕食の時に言われたこと、覚えているか」
「…………はい」
「覚えています」
耕介の言葉に神妙に頷き、覚悟を問うような視線を正面から受け止める。
「決行日は5日後。私達になら出来るという判断だが……正直、どうなるか分からない。行くメンバーは私と小室君だけで考えてるが、それでいいか?」
「────え!? 僕は留守番ですか!?」
今し方まで少しばかり弱腰になっていた大樹が、予想外だと言わんばかりにベッドから身を乗り出す。
「だが、君は──」
「だって、契約する時勇者が必要なんじゃないですか!?」
「……はぁ。君は都合のいい時だけ勇者になるんだな?」
「でも……だって」
「分かった分かった。小室君、面倒は頼んだぞ」
「りょーかいです。大樹、無理しなくていいから、危ないと思ったら逃げるんだぞ」
「うん! 逃げ足には自身があるから任せて!」
「威張るような事じゃないだろうに……。何にせよ、着実にやっていくしかない。まずは水の庭園────水の精霊との契約だ」
耕介の言葉を受け、3人は視線を交わし、強く頷いた。
「その為にも、水の庭園に行くまでギルドの依頼をこなすとしよう」
耕介は立ち上がり、おやすみと一言告げると自室へと戻っていった。
「それじゃおれも」
おやすみ、と言おうとして大樹の方を見やると、どこか浮かない顔をしている様子をしていて、言いかかった言葉を飲み込んだ。
「そんな顔してどうしたんだよ?」
「なんかさ……みんな凄いよね」
「凄い? まぁ、ラキアさんもストラ先生も有名な人だし……」
「違うよ! 雄也とこーすけ先輩だよ!」
「……凄くはないと思うよ。少なくともおれは、さ。榊さんは好奇心旺盛だからこの世界を堪能してるだけだろうけど、おれは必死だよ」
「どうしてそんなに必死なのさ?」
「んーどうしてだろうな」
答えをはぐらかすようにそっぽを向く雄也。
大樹はそれを不思議に思いながらも、その先を聞かずに別の事を問いかける。
「雄也は……死ぬのが怖くないの?」
「怖いよ。でも、この世界で何もしないでいて、そのせいで目の前で友達が死んだり、それを指を加えて見てる事しか出来ないくらいなら──死ぬのを覚悟して、強くなる。嫌なんだ。何も出来ないのが」
「そっか。そういえば前にもそんな事言ってたね」
「あぁ」
雄也は大きな窓の外へと視線を仰ぐと、大樹も釣られて視線を夜の空へと向ける。
まるでガラスを散りばめたかのように星々が大小輝いていて、この空を見上げている時だけは、この世界から元の世界を思い描くことが出来る。
「帰りたいね。元の世界に」
すぐに解決するような問題だとは思っていない。
どれだけ時間がかかるか分からない、先の見えない人生を懸ける事を余儀なくされた────突如降りかかった逃げられない使命。
そんな元の世界に思いを馳せた大樹の呟きに、雄也は黙って星空を見上げるだけだった。
◇ ◇
「もうだいぶ手慣れたものだね」
「置いてもらっているので、手伝いくらいはしないと! 料理だって、まだまだノエルさんの味には届きませんし」
夜の帳が下りてから数時間後。最後のお客を見送ってから、いつものように店の掃除を始める知枝。
そんな彼女の働きぶりを楽しそうに眺めているのは、アクアヴェネラル王国の城下町の一角、とある宿屋の隣地下で軽食屋を営む、少しだけ恰幅のいい女性────ノエル・アルバート。
表向きには軽食屋を経営している気のいい中年女性なのだが、彼女にはもう一つの顔が存在する。
その名も、情報屋のノエル。
そのネットワークは表向きには知られず、しかしアクアヴェネラルの土地の事ならば様々な情報がこの場所で手に入ると噂されている。
噂、というのもノエルが気に入った人にしか情報を渡さないので、この店を情報屋として使う者は片手で収まるくらいしかいない。
その内の1人はエレアノール。ノエルも『ノーレ』と名乗ってこの場所を利用するのが一国の姫である事は理解しているが、この店では彼女の素性を隠すためにノーレとして話を合わせている。
態度も周りの客に王女だとは悟らせぬようにしながらも、実の娘のように可愛がっているつもりだ。
そうやって、元々一人で切り盛りしていた場所だったが、最近ひょんなことから知枝を引き取り、一緒に生活をしていた。
「もう少しでこっち終わりますから、中の片付けも手伝いますね!」
「そうかい? それなら、床の掃き掃除が終わったらこれ飲みな。捨てちゃうのは勿体無いからね」
「いいんですか? ……じゃぁありがたくもらいますね」
少し前から見られていたのだろう、ほぼ掃き掃除が終わったタイミングで店の出し物にしているジュースをカウンター越しに渡され、知枝は敵わないなーと思いつつストローに口を付けた。
「そう言えば小耳に挟んだんだけど……」
「?」
知枝もすでにこの店が情報屋だという事は知っている。
少し前に知人2人の自爆により、得た情報。
元々、この街の事や世界の様々な話を知枝にしてくれていたので、ただの世間話好きなおばちゃんかと思っていたが、本物の情報屋だという事を知ってから、軽率な印象を抱いていたことを内心で謝罪していた。
「チエのお友達……勇者様ご一行が、今日とうとうギルドに参加して、魔物と戦ったみたいよ?」
「…………そっかー。今日だったんだ」
寂し気なのか、悲し気なのか判断の付かない表情で、呟く知枝。
そんなもの憂げな知枝の表情を見て、ノエルはカラカラと笑う。
「安心しなって。みんな無事に依頼をこなしたらしいよ? ただ、勇者様だけは戦わなかったみたいだけど……何でだろうねぇ?」
「……何ででしょうね」
心当たりは無きにしも非ずだが、言っても栓のない推測になってしまうので、ジュースと一緒にそれを飲み込んだ。
「だけど、偉いもんだねー! あたしの半分くらいしか無い年齢の子が勇者で、世界を救う為に戦いを始めるなんてね!」
「どう……なんですかね? ノエルさんは本当にあのメンバーが世界が救えるとかって思うんですか?」
「そうだねぇ。救ってほしいねー。…………じゃないと、色々な人達が浮かばれないからねぇ」
呟きながら厨房へと戻っていくノエルにの背中に、サリアーラの一件を思い出した知枝は、つまりはそういう事なのだと納得する。
そしてなんだか急に居心地が悪くなったように感じ、手伝いの続きをしようと立ち上がって厨房へと入った。
スープの入っている大きな鉄製の寸胴がまだ洗われていないようで、厨房の中にはまだスープの残り香が漂っている。
そういえば日が暮れてから何も食べてないな、と考えると途端にお腹が可愛らしく、くぅと鳴った。
その音を聞いたノエルは豪快に笑い、もう少しだけ待ってなと伝えると、下げ台にある大きな皿やフォークやスプーンを湯の張ったシンクの中へと入れていく。
「チエはそっちの洗い終わった大皿とかを拭いて、棚に戻してくれるかい?」
「あ、はい!」
知枝は指示された通り、山とまでは言わないでも数十と積み上げられた皿を拭き始め、元ある場所へと戻していく。
蛇口から勢い良く出る水の音をリズムにし、鼻歌を歌いながら皿を洗うノエルの背中を見て、知枝は少しだけ口元が緩んだ。
前の世界にはなかった、こんなにも緩やかで穏やかな時間を過ごせるのが嬉しく、この世界を気に入り始めている自分に気付く。
この世界に来た瞬間は、恐ろしい魔物に襲われ、死を覚悟する程の絶望に襲われたが、今はそんな気持ちはほとんどなくなり、居心地良くすら感じている。
ノエルのような人が母親だったなら、どんなに気楽だろうと思うこともあるが、やはり無い物ねだりなのだろうと自分を戒める。
「チエ」
「はい?」
「…………いや、なんでもない」
「? 変なノエルさん。あ、すみません!」
気が付くといつの間にか鼻歌が止んでいたようで、自分の事を見つめていたノエルの手元を見るとすでに洗い物が終わり、残すは自分が拭いて片付ける分のみとなっていた。
急いで片付け始める知枝に、少しだけ影のある表情をしていたノエルだったが、それも一瞬の内に消し、いつもの柔和な表情に戻る。
「いいの。それを片付けたら、ご飯にしようか」
「はい! それじゃこれちゃっちゃと終わらせますねー!」
そんなノエルの態度に、知枝は軽く引っかかるような疑問を抱いたが、自分の今やるべき事を優先するために、安穏とした雰囲気の中へと戻って行った。




