蛇のささやきと、第三の男(後編)
せいけん・第九話、前回の「蛇の誘惑」の続きです。
ラグビー部・日向敦希くんが正式に「せいけん」に加入!!
真夏の西日が教室を黄金色に染め上げる中、放課後聖書研究会——『せいけん』の机を囲むのは、いつもの二人ではなく三人だった。
中央には「探求者」吉岡郁夫。その隣には、マイ聖書を大事そうに開き、サマーオレンジのネイルを輝かせる「観察者」寺脇彩音。そして向かい側には、ラグビー部のトレーニングウェアを着た巨躯のナイスガイ、「実践者」日向敦希がどっかと腰を下ろしている。
「よし、本日の『せいけん』を始めよう。前回に引き続き、創世記第3章『失楽園』の後編だ。日向くん、今日もよろしくね」
「おう、吉岡! 今日もがっつり食らいついていくから頼むぜ!」
敦希が白い歯を見せて笑うと、彩音も嬉しそうにペンを回した。
「日向くん、すっかり馴染んでるじゃん! 楽しみに決まってんじゃん、禁止の果実を食べちゃったあとの二人のドタバタ劇!」
「ふふ、じゃあ早速、テキストの続きに入ろうか」
郁夫は聖書に指を添え、ゆっくりと朗読を始めた。
『すると、二人の目が開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは無花果の葉をつづり合わせて、腰の覆いを作った。夕の風の吹くころ、神の歩まれる音が園に聞こえると、人とその妻は、神の顔を避けて園の木の間に身を隠した』
朗読を終えた郁夫が顔を上げると、敦希がうーんと唸りながら腕を組んだ。
「果実を食べた途端に『裸であること』に気づいて身を隠した……か。なあ吉岡、これってどういう心理なんだ? 先週の解釈だと、果実を食べたら『神みたいに凄くなれる』はずだったんだろ? なのに、凄くなるどころか、コソコソ隠れ始めてるじゃんか」
「そこにこそ、人間の本質的な悲劇があるんだよ、日向くん」
郁夫は静かに頷き、言葉を継いだ。
「蛇は『目が開けて、神のようになる』と言った。でも、実際に開けた彼らの目は、何を見たと思う? 自分たちの『誇らしさ』ではなく、自分たちの『無力さ』と『弱さ』だったんだ。神様を裏切ってしまったという罪悪感が生まれた途端、相手からの視線が怖くなり、お互いの裸(ありのままの弱さ)を見せ合うことができなくなってしまった」
「あー……!」
彩音の瞳がハッとしたように見開かれた。マイ聖書の『無花果の葉で腰の覆いを作った』という一文を指でなぞる。
「ウチ、それめっちゃ分かる気がする! 隠し事とか嘘をついちゃった時ってさ、相手の顔が見られなくなるじゃん。メイクが落ちた顔を見られたくないとかそういうレベルじゃなくて、『素の自分を見られたら嫌われるんじゃないか』って恐怖で武装しちゃうやつだ!」
「その通りだよ、彩音さん」
郁夫はあたたかな眼差しを向けた。
「彼らが隠したのは、単なる肉体じゃない。『ありのままの自分』なんだ。無花果の葉っぱで隠さなきゃいけないくらい、素の自分が恥ずかしく、恐ろしくなってしまった。これが、神様との関係が壊れたことで人間に生じた最初の『孤独』なんだよ」
「……身ぐるみ剥がされた時の惨めさ、か」
敦希がポツリと呟いた。その言葉には、運動部で限界まで身体を追い込んできた者ならではの実感がこもっていた。
「試合でボロ負けした時とか、自分の実力不足を痛感した時、男って変にプライドを張って強がったり、周りから逃げたくなるんだよな。自分のダサいところ、無力なところを見られたくなくてさ。アダムたちも、神様に怒られるのが怖くて隠れたんじゃない。自分の情けなさに耐えられなくなったんだ」
「日向くん……」
彩音は感心したように敦希を見つめた。
郁夫も深く感銘を受けた。敦希の「身体者」としてのリアルな感情の読み解きが、数千年前の古代のテキストに生き生きとした血を通わせていく。
「まさに日向くんの言う通りだよ。そして物語はさらに切ない展開を迎える。神様は園を歩きながら、アダムを呼ぶんだ。『あなたはどこにいるのか』とね」
「神様、知ってるはずなのに呼んでくれたんだ……」
彩音が低く呟いた。
「そう。神様は糾弾するためではなく、関係を修復するために対話を求めた。でも、見つかってしまったアダムはどうしたと思う? 神様から『食べるなと言ったあの木から食べたのか』と問われた時、アダムはこう答えたんだ」
郁夫は苦笑いを浮かべながらテキストを指した。
『あなたが私と一緒にいるようにしてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです』
「……うわぁ」
彩音は呆れたように眉をひそめ、ドン引きの表情を作った。
「だっさ!! アダム、責任転嫁すご!! 『あなたがくれたこの女のせいです』って、神様のせいにもウチらのせいにも同時にしてんじゃん!」
敦希も「うぐっ」と胸を押さえて苦笑した。
「これは痛いな……。男として庇う余地もないぜ。前回あんなに『私の骨の骨、肉の肉だ!』って愛を叫んでた奴が、ピンチになった途端に『アイツのせいです』かよ」
「そうなんだよ」
郁夫はうなずいた。
「神様のようになって全知全能になりたかった人間が、いざ失敗すると『自分は悪くない、他人のせいだ』と醜く責任をなすりつけ合う。自分を守るために、一番大切なパートナーすら攻撃してしまう。……これが、神様から離れた人間が陥る『罪』のドミノ倒しなんだ」
教室に静かな沈黙が流れた。
窓の外では、グラウンドの部活の足音が少しずつ遠のき、夏の夕暮れ特有の涼しい風がカーテンをゆっくりと揺らしている。
彩音はアゴに手を当て、サマーオレンジの爪を見つめながらポツリと言った。
「でもさ……なんか、アダムとエバのこと、責められないや」
「え?」
と敦希が顔を上げる。
「ウチだってさ、テストの点が悪かったら『先生の教え方が悪い』とか言っちゃうし、友達と気まずくなったら『相手が察してくれないから』って人のせいにしちゃうことあるもん。完璧ぶろうとして、失敗したら隠して、人のせいにして……。ウチら全員、アダムとエバの子供なんだなって思った」
「……そうだな」
敦希も大きくうなずいた。
「俺もさ、試合でミスした時、心の中で『あいつのパスが低かったからだ』とか言い訳を探しそうになる自分がいる。人間って、放っておくとすぐ自分を神様の位置に置いて、自分を正当化したがるんだな。……でも、それを知ってるだけでも、少し変われる気がするよ」
郁夫は二人の顔を交互に見つめ、胸の奥が熱くなるのを抑えきれなかった。
「二人とも、本当に素晴らしいよ。創世記のこの物語は、人間を罰するための物語じゃないんだ。『人間とは、放っておくとこうなってしまう弱い存在なのだ』という鏡を見せてくれているんだよ。自分が裸で、弱く、言い訳ばかりしてしまう存在だと認めること。そこからしか、本当の誠実さや、他人とのやり直しは始まらないんだから」
敦希は深く息を吐き出し、力強い目で郁夫を見た。
「吉岡。俺、今日確信したわ」
「何についてだい?」
「俺、ただの“見学”のつもりだったけど……正式に『せいけん』に入部させてくれ」
「えっ!?」
彩音が歓声をあげた。
敦希は机に太い腕を置き、まっすぐに二人を見つめた。
「グラウンドで体を鍛えるのもラグビーには不可欠だが、ここで二人と話して、自分の『心』や『人間の弱さ』と向き合う時間が、俺には絶対に必要だと思った。俺をこの研究会の一員にしてくれないか?」
彩音はポンと自分の胸を叩いた。
「当然大歓迎に決まってんじゃん! ね、吉岡部長!」
郁夫は溢れんばかりの笑顔を浮かべ、深くうなずいた。
「もちろんだよ、日向くん! 君が来てくれて、僕たちの探求はどれほど豊かになったか分からない。心から歓迎するよ」
郁夫は自分の革装丁の聖書を優しく撫で、二人に向かって語りかけた。
「聖書の中にね、旧約聖書の『コヘレトの言葉(伝道の書)』という本に、大好きな言葉があるんだ」
「どんな言葉?」
彩音が身を乗り出す。
「『一人は責められても、二人なら立ち向かえる。三つよりの糸は切れにくい』……という言葉だよ」
敦希と彩音は、じっと郁夫の言葉に耳を傾けた。
「一人だと、自分の弱さに押しつぶされたり、慢心して高ぶったりしてしまう。でも二人いれば支え合える。そして『三つよりの糸』……三人の人間が互いの視点を持ち寄り、束ね合わされた時、その絆や探求は簡単に切れることのない強い力になるんだ。探求者の僕、観察者の彩音さん、そして実践者の日向くん。僕たち三人が揃った『せいけん』は、今日からもっと強くなれる」
敦希は胸を熱くし、ガッツポーズを作った。
「『三つよりの糸』か……! めちゃくちゃラグビー精神に通じる良い言葉だな! 応援される側としても、仲間としても、最高に腹に落ちたぜ」
「ウチら、最強の三人組ってことね!」
彩音は弾けるような笑顔で、サマーオレンジのネイルを誇らしげに立てた。
「よし! じゃあ新入部員・日向敦希の加入を祝して、今日の『せいけん』はここまで!」
「おう! 吉岡部長、寺脇副部長、これからよろしく頼むぜ!」
敦希が爽やかに頭を下げると、彩音も「よろしくね、日向くん!」と元気に手を振り返した。
三人がそれぞれの荷物をまとめ、夕陽が斜めに差し込む教室をあとにしようとする。
廊下へ出る手前で、郁夫はふり返り、誰もいなくなった静かな教室を一望した。
人間は弱く、過ちを犯し、互いに傷つけ合ってしまう存在かもしれない。けれど、こうして弱さを認め合い、互いの視点を束ねて真理を探求する仲間がいる。
『三つよりの糸』のように硬く結ばれた三人の足音は、夏の終わりの放課後に、どこまでも頼もしく響き渡っていた。




