蛇のささやきと、第三の男(前編)
今回の「せいけん」は、創世記第三章の「蛇の誘惑」の箇所を扱います。
新キャラ加入!!
夏休みの補習が終わった直後の、どこか浮き足立った放課後。二年の教室には、いつものように吉岡郁夫と寺脇彩音の姿があった。
「よし、本日の『せいけん』を始めるよ。副部長、準備はいいかい?」
「はーい、部長! 今日もマイ聖書バッチリセット完了!」
彩音はサマーオレンジのネイルで、自分の新しい革装丁の聖書を愛おしそうに撫でた。
まさに郁夫がテキストを開こうとしたその時、ガラリと教室の引き戸が大きく開いた。立っていたのは、見上げるような体躯をした男子生徒だった。日焼けした肌、がっしりとした太い首、そしてTシャツの上からでもわかる鍛え上げられた胸筋。学校の名門ラグビー部でフォワードを務める、フィジカルを極めし男——日向敦希だった。
「よう、お前ら最近、なんか面白そうなことやってるじゃないか。俺も“見学”させてもらってもいいか?」
白い歯を覗かせて爽やかに笑う敦希に、郁夫は目を丸くした。彩音もびっくりして身を乗り出す。
「えっ、日向くん!? ラグビー部の練習は?」
「今日のグラウンド使用時間は後半なんだよ。で、廊下通ったら二人が真剣に話してるのが見えてさ。聖書か……正直言って門外漢だが、二人の話に食らいついてみるよ」
敦希はそう言うと、図体からは想像もつかないほど軽やかな動きで空いている机と椅子を引き寄せ、郁夫たちの環に入った。その屈託のない笑顔と、圧倒的な生命力。郁夫は一瞬圧倒されかけたが、すぐに胸の奥から湧き上がる歓迎の気持ちを感じた。
「もちろん大歓迎だよ、日向くん! 知識の有無なんて関係ない。いろんな視点がある方が、探求は深まるからね」
郁夫は心の中で、自分たちの役割を整理した。
知識を深く掘り下げる僕が「探求者」。
現実を鋭く感得する彩音さんが「観察者」。
そして、圧倒的な肉体感覚と現場のリアリティを持つ敦希くんは……まさに身体を通して真理の手触りを確かめる「実践者(あるいは身体者)」だ。
「よし、それじゃあ頼もしい見学者を迎えて、第八回の『せいけん』を始めよう」
郁夫は聖書のページ——創世記第3章を開いた。
「今日のテーマは、人類の歴史における最大の転換点と言われる『失楽園』……その前半部分である『蛇の誘惑』の物語だ」
彩音の目がキラリと光る。「出た! 蛇! リンゴ食べるやつでしょ!?」
「そう、まさにそれだ」郁夫は微笑み、テキストの文字を追い始めた。「神様が作ったエデンの園には、あらゆる美しい木が生えていた。そして神様は人間にこう命じられていたんだ。『園のすべての木の果実は食べてもよい。しかし、善悪の知識の木からは決して食べてはならない。食べると必ず死ぬ』とね」
「分かりやすいルールだな」敦希が腕を組み、深くうなずいた。「グラウンドのインゴールに入っちゃいけないとか、サイドライン出たらアウトとかと同じだ。明確なルールがあるから試合が成り立つ」
敦希のスポーツマンらしい例えに、郁夫は感嘆した。
「まさにその通りだね。だけどそこに、神様が作った生き物の中で最も賢く(悪賢く)狡猾な『蛇』が現れるんだ。蛇は女にこう話しかけた。『園のどんな木からも食べてはいけない、と神様は言われたのですか?』と」
彩音はうーんと首をひねった。「あれ? 蛇の聞き方、なんか性格悪くない? 神様は『善悪の知識の木だけダメ』って言ったのに、蛇は『全部ダメなのか?』って聞いてるじゃん」
「素晴らしい観察だよ、彩音さん!」郁夫は身を乗り出した。「蛇はわざと神様の命令を『極端で不自由なもの』に見せかけるように質問を歪めたんだ。それに対して女性は『ううん、園の木の果実は食べていいの。でも中央の木の果実だけは、触れてもいけない、死ぬからって神様が言ったの』と答えた」
「ちょっと待った」
それまで静かに聞いていた敦希が、鋭い声をあげた。太い指で机を軽く叩く。
「今、女の人は『触れてもいけない』って言ったか?」
郁夫はハッとして、自分のテキストを見直した。
「すごいね日向くん……! よく気づいたね。神様の最初の命令は『食べてはならない』だけだった。でも女性の答えには『触れてもいけない』という言葉が付け加わっているんだ」
「やっぱりな」敦希は白い歯を見せて笑った。
「俺たちラグビーでもそうなんだよ。監督が『過度な接触は気をつけろ』って言っただけなのに、選手間で『触るのすら禁止された!』ってオーバーに伝言ゲームになっちゃうことがある。ルールを過剰に怖がったり重く捉えすぎると、逆に人間ってメンタルが押されていくんだよな」
彩音は手を叩いて跳ねるように喜んだ。
「ヤバい! 日向くんの例え超わかりやすい! 確かに『ダメ』って言われすぎると、余計にそのことばっかり考えちゃうよね!」
郁夫は胸を高鳴らせた。敦希の「身体感覚に基づくリアリティ」が、古代の会話劇の不穏な空気を一瞬で現代に引き寄せたのだ。
「日向くんの言う通りだ」郁夫は話を続けた。「女性の心の中に『神様は厳しくて不自由な命令を出す存在だ』という誇張された恐怖が生まれた。そこを、蛇は見逃さなかったんだ。蛇はきっぱりと言い放った。『あなたがたは決して死にません。それを食べる時、目が開け、神のようになって善悪を知る者となることを、神様は知っているのです』とね」
教室の中に、一瞬冷たい風が吹き抜けたような錯覚を覚えた。
「蛇は『神様は意地悪で、お前たちが神みたいに賢くなるのを恐れて隠し事をしているんだ』と、神様への不信感を植え付けたんだよ」
彩音はあごに手を当て、サマーオレンジのネイルを見つめた。
「……うわぁ。これ、超ヤバい心理戦じゃん」
「どう見た? 副部長」
「だってさ、ただ『うまいから食べなよ』って言われたら断れるじゃん。でも『神様はお前らをコントロールしようとしてるんだよ、自立しちゃいなよ』って言われたらさ……なんか『自分も一人前になりたい!』って思っちゃうじゃん。マインドコントロールっていうか、マウント取られてる気分にさせるの超うまい」
「そうなんだよ」郁夫は深くうなずいた。
「そしてテキストはこう続くんだ。『女がその木を見ると、それは食べ物として魅力的で、目に美しく、賢くしてくれるように見えた』。女性は果実を取って食べ、一緒にいた夫にも与え、彼も食べた。……こうして、人間は神様の命令を破ってしまったんだ」
二人は静かにその結末を受け止めた。窓の外では夕陽が沈みかけ、グラウンドからラグビー部の掛け声が小さく響いている。
敦希は自分のたくましい大きな手を見つめ、静かに呟いた。
「『神のようになる』か……。自分の限界を超えて、何でもコントロールできる完璧な存在になりたいっていう欲望か。……それ、めちゃくちゃわかる気がするよ」
郁夫と彩音は、敦希の真剣な横顔を見つめた。
「俺さ、毎日筋トレして、練習して、もっと強く、もっと完璧になりたいって思ってる。でも『俺なら何でもできる』って過信した瞬間に、タックルで大怪我したり、チームの連携が崩れたりするんだ。『自分は神じゃない。ただの人間だ』って弁えることが、一番難しいんだよな」
「日向くん……」彩音は感心したように呟いた。
郁夫は胸の奥が熱くなるのを感じていた。
探求者としての僕が提示した「テキスト」。
観察者としての彩音が読み解いた「心理戦と誘惑のメカニズム」。
そして実践者としての敦希が捉えた「人間の限界と過信の危うさ」。
三人になった「せいけん」は、これまで以上に立体的で、深い真理の渦を生み出していた。
「蛇の誘惑の本質はね」郁夫は二人を見つめながら静かに言った。
「単に食べものを食べたことじゃない。『神様との信頼関係を捨てて、自分が神の立場に立とうとしたこと』なんだ。自分自身が善悪の基準になりたいという慢心……それが『原罪』の始まりなんだよ」
「深ぇ……」敦希は心底感服したように息を吐いた。「聖書って、ただの神話かと思ってたら、人間の弱さのスポーツ医学みたいな本なんだな。食らいついてみて良かったよ」
彩音もマイ聖書を撫でながら微笑んだ。
「ね! 日向くん、超いい着眼点だったよ! 『触れてもいけない』の過剰反応のくだりとか、マジで鳥肌立ったし!」
「へへ、そう言ってもらえると嬉しいね。フィジカルしか能がないと思ってたが、頭使うのも悪くないな」
敦希はガハハと爽やかに笑った。
「さて」郁夫は二人を見回した。
「果実を食べてしまったアダムとエバ。彼らの『目』が開けた時、一体何が起きたのか……そして神様と彼らの関係はどうなってしまうのか。この『失楽園』の結末については、次回後編としてじっくり探求していくことにしよう」
「おう! 次も絶対見学させてくれよな、部長!」敦希が力強く拳を握った。
「もちろん! 予約済みにしとくから!」彩音も弾けるような笑顔で答えた。
放課後の教室に満ちる、未知への知的好奇心と、互いへの深い敬意。
三人の「同志」となったせいけんの放課後は、夕闇の中でいっそう鮮やかな光を放っていた。




