あばら骨の距離と、かたわらの伴走者
今回の「せいけん」は、創世記第2章の18節から25節、男性の助け手として女性を神様が創造するところを取り扱います。
ぜひお楽しみください!
真夏の太陽が校庭を照らしつけ、セミたちの声が賑やかに響く放課後。いつもより少し早く教室に現れた吉岡郁夫は、自分の机の前で思わず目を丸くした。
向かいの席に座る寺脇彩音の机の上に、一冊の本が置かれていたからだ。
それは郁夫が持っているものと同じ、文庫サイズの革装の聖書だった。ただ、郁夫のものが使い込まれて角が擦り切れているのに対し、彼女のものはまだ新しく、ピカピカと光沢を放っている。
「……あ、彩音さん! それって……」
郁夫が声をかけると、彩音はサマーオレンジの爪を誇らしげに立てて、ドヤ顔で胸を張った。
「ふふん! 気づいた? ウチの『マイ聖書』! 週末に駅前の大きな本屋さん行って、自腹で買っちゃった!」
「本当に買ったんだ! すごい……」
「『せいけん』の副部長なんだから、自分のがあってもいいでしょ? 付箋とかマーカーとかも揃えちゃった。これから気になったところにガンガン線引いていくからね!」
嬉しそうに最新の聖書のページをめくる彩音を見て、郁夫の胸の奥にじんと温かいものが広がった。自分の趣味から始まった放課後の小さな集まりが、こうして彼女の生活の一部になり、情熱を共有できていることがたまらなく誇らしかった。
「素晴らしいよ、副部長。マイ聖書のお祝いも兼ねて、今日の『せいけん』も気合いを入れていこうか」
「はーい、部長! 今日はどこ? マイ聖書のページ、自分でめくるから教えて!」
「よし、今日は創世記第2章の18節から25節だ。前回読んだ天地創造の、人間についてのさらに深い描写が書かれている箇所だよ」
彩音は「創世記……2章の18節……」と呟きながら、慣れない手つきでページをめくり、見つけた行にピッとピンクの付箋を貼った。
「見つけた! 『人がひとりでいるのは良くない』って書いてある!」
「そう、そこだ」郁夫は自分の聖書も開き、頷いた。「神様は世界を作ったあと、こう言われたんだ。『人がひとりでいるのは良くない。彼にふさわしい助け手を造ろう』とね。そこで神様は最初、あらゆる野の獣や空の鳥を土で造って、人のところへ連れて行った。でも、アダム(最初の人間)にとって、それらの生き物はしっくりくる『助け手』にはならなかったんだ」
「生き物たちじゃ、心の底から分かり合えなかったってこと?」
「そうだね。そこで神様は人を深い眠りに落とし、彼のあばら骨の片方を取り、その肉を塞がれた。そして、そのあばら骨から一人の『女』を創造し、人のところへ連れてこられたんだ」
彩音は目を輝かせながらテキストを追いかけた。
「あばら骨!? 男の人のあばら骨から女の人作ったの!? なんでまたそんなピンポイントな場所!?」
「ふふ、驚くよね。そして目覚めたアダムは、彼女を見てこう叫んだんだ。『これこそ、ついに私の骨の骨、私の肉の肉だ!』ってね。そして聖書はこう締めくくられる。『それゆえ、男は父母を離れて妻と結び合い、二人は一体となるのだ』。これが、聖書における男女の結婚や結びつきの原点なんだよ」
読み終えた郁夫が顔を上げると、彩音はあごに手を当て、うーんと首をひねっていた。マイ聖書の一文を指でなぞりながら、手探りで自分の考えを言葉にしようとしている。
「ねえ、吉岡くん……これさぁ」
「うん? どうかした?」
「最初読んだとき『え、男の骨から作ったの? じゃあ女って男のおまけ的な扱い?』って一瞬思っちゃったのね。でもさ……なんか変じゃない?」
「変、というと?」
「だって、おまけで作るなら指の骨とか髪の毛とか、なんか適当なところで良くない? なんでわざわざ痛そうな『あばら骨』なんだろうって。……あ、もしかして! あばら骨って心臓の近くにあるから、『めっちゃ大事なパーツを分けたんだよ』ってアピールしたかったのかな? ほら、『ウチの心臓(命)の一部だぞ』的な……いや、でもそれだと重すぎるかぁ」
彩音は照れくさそうに「えへへ、ちょっと乙女チックに考えすぎ?」と鼻をかいた。
郁夫は目を丸くしたあと、あたたかな感動に包まれた。完璧な解答ではない。けれど、彼女の感覚は間違いなくテキストの心臓部に触れていた。
「ううん、全然乙女チックなんかじゃないよ! すごく良い着眼点だし、むしろ本質にすごく近い」
「ほんとに!? どこらへんが?」
「『なぜあばら骨なのか』っていう疑問は、実は昔から世界中で議論されてきたんだ。あばら骨ってね、体の真ん中、胸の横にあるだろう? 頭の骨でもなければ、足の骨でもない」
「あ……! 足の骨じゃないんだ」
彩音はハッとして自分の膝をポンと叩いた。「足の骨から作ったら、男が女を踏みつける感じになっちゃうもんね! かといって頭の骨だと、上から見下ろす感じになっちゃうし……横だから『あばら骨』なのかな?」
「その通りだよ、彩音さん!」
郁夫は嬉しさのあまり乗り出し、大きく頷いた。
「昔の偉い学者たちも、君と同じように考えたんだ。『神は女性を、男性の頭から作らなかった。支配するためではない。足から作らなかった。踏みにじるためではない。横腹から作った。等しい存在として、腕で守られ、心臓の近くで愛されるために』……ってね」
「うわぁぁ! マジで!? ウチの『心臓の近く』って考え、合ってたじゃん!」
彩音は嬉しそうに目を輝かせた。
「そうなんだよ。それにね」郁夫は言葉を重ねる。「アダムが言った『助け手』という言葉。日本語だと一見『アシスタント』とか『下請け』みたいに聞こえるけれど、ヘブライ語の原文では『エゼル』という言葉が使われている。この『エゼル』は、聖書の中では『苦難の時に救い出してくれる神の助け』に対して使われる、すごく力強い言葉なんだ。だから単なる従属者じゃなくて、対等で、お互いを補い合う最高のパートナーという意味なんだよ」
「へえぇ……エゼル……なんか響きもかっこいいね」
彩音はゆっくりとうなずき、サマーオレンジのネイルで、聖書の「二人は一体となる」という言葉をそっとなぞった。
「ねえ、部長。『二人は一体となる』って、どういうことだと思う?」
「彩音さんはどう思う?」
彩音は少し考え込み、自分の両手を握りしめたり開いたりしながら言葉を探した。
「なんかさ……付き合うとか結婚するって、相手に自分の全部を合わせたり、自分がなくなっちゃうことじゃないと思うんだよね。アダムも、あばら骨を一個取られて、ちょっとスカスカになっちゃったじゃん? でもだからこそ『自分にはここが足りないから、あんたが必要なんだ』って素直に認め合えるっていうか……自分一人で完璧になろうとしないで、お互いの凹凸をカチッとはめ合わせること。それが『結ばれる』ってことなんじゃないかな」
郁夫は深く深く息を吐き出した。
試行錯誤しながら彼女が手繰り寄せたその解釈は、あまりにも完璧で、あたたかく、真理に満ちていた。
現代社会では、恋愛や結婚が時に「条件の品定め」や「損得勘定」、あるいは「どちらが主導権を握るか」という権力闘争のようになってしまうことがある。しかし、創世記が描く結びつきはそうではない。自分の欠けを認め、相手の欠けを包み込み、等しい高さで横に並んで歩むこと。
「彩音さん、君の言う通りだ」郁夫は心からの敬意を込めて言った。
「人は一人では完成しない。誰かと出会い、互いの弱さを補い合い、尊び合うことで、初めて人は『一体』という深い孤独からの解放を得るんだね。男と女という性別の話を超えて、人間が誰かと心を通わせるすべての関係の理想が、ここに描かれているんだと思う」
「ね! 孤独からの解放かぁ……なんか、すごく納得できる」
彩音は満足そうに微笑み、自分のマイ聖書を愛おしそうに撫でた。手探りでページをめくり、自分なりの感覚で触れた古代の言葉。それは彼女にとって、一生の宝物になるような視点だった。
放課後の教室に、心地よい夏の夕風が吹き抜けていく。
窓の外では、グラウンドから聞こえる運動部の声や、セミの誇らしげな鳴き声が遠く響いていた。
二人の間には、甘い恋愛感情のようなベタついた空気はない。
けれど、互いの知識と感性を心から尊重し合い、同じテキストを挟んで横に並び、真理という果てしない空を見上げる「対等な同志」としての絆が、確かにそこに存在していた。
まさに、あばら骨の距離感で。
「いやー、今日も超深かった! マイ聖書デビュー日にこんな良い話読めて最高だわ!」
彩音はパタンと自分の聖書を閉じると、嬉しそうに鞄へと収めた。
「これでウチも、立派な『せいけん』の副部長として胸張れるね!」
「ふふ、最初から文句なしの素晴らしい副部長だったよ。自分用の聖書を手に入れて、これからの探求がますます楽しみになったね」
「うん! バシバシ付箋貼っていくから、覚悟しててよね、部長!」
彩音は軽やかに立ち上がり、いつものように手を振った。
「じゃあね、吉岡部長! また明日!」
「ああ、気をつけてね、寺脇副部長」
夕陽が差し込む誰もいない教室で、郁夫は一人、静かに自分の聖書を閉じた。
他者と出会い、共に歩むことの祝福。
創世記の古代の言葉が、目の前の少女の言葉を通して、生き生きとした光となって郁夫の心を満たしていた。
二人の放課後の探求は、より深く、より広やかに、明日へと続いていく。




