神様の休日、あるいは何もしない贅沢
今回の「せいけん」は、創世記2章1節から3節、「神の休息」について扱います。
お楽しみください!
梅雨が明け、本格的な夏の気配が校庭の緑を濃く彩る午後のひととき。放課後の教室には、眩しいほどの西日が差し込んでいた。
「よし、本日の『せいけん』を始めるよ。副部長、準備はいいかい?」 「はーい、部長! 今日もよろしくお願いしまーす!」
寺脇彩音は自分の席から丸椅子を引き寄せ、慣れた手つきで吉岡郁夫の机の前に座った。今日の彼女のネイルは、太陽の光を浴びたサマーオレンジ。鮮やかな爪先を輝かせながら、楽しそうに郁夫の手元を覗き込んでいる。
「ねえねえ部長、前回の天地創造の『光あれ』、超よかったよね! 世界の始まりがウチらの肯定から始まってるって話、あれからめっちゃお気に入りなんだー。で、今日はどこ読むの?」
郁夫は柔らかく微笑み、机の上の革装の聖書を開いた。
「喜んでもらえて何よりだよ。今日はね、前回の天地創造のすぐ続き……創世記第2章の1節から3節までの、たった『3つの文章』を取り上げたいと思う」
「えっ、たった3節!?」 彩音は目を丸くした。「短っ! 今まではカインとアベルとかダビデとか、物語がドラマチックだったじゃん? たった3行で何について話すの?」
「ふふ、短いからこそ、そこに凝縮された意味が深く響いてくるんだよ。まずは読んでみるね」
郁夫は聖書の文字に静かに指を添えた。
『こうして天と地とその万象とが完成した。神は第7日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終えて第7日に休まれた。神はその第7日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造の業を終えて休まれたからである』
静寂が教室を包み込む。窓の外で響く蝉の声が、どこか遠くで聞こえるようだった。
「以上だ」
「……えっ、本当にそれだけ!?」 彩音は驚いて眉を上げた。「神様が世界を作って……7日目に休んだ、ってことだよね? え、神様って休むの!?」
「そうなんだ。『神様が休まれた』。これが今日僕たちが探求するテーマだよ」
郁夫は背筋を伸ばし、彩音に向き直った。
「前回の復習になるけれど、神様は6日間かけて、光、空、陸地、太陽、生き物、そして人間を作り上げた。どれも完璧で、素晴らしい仕事だった。そして7日目、神様は何をしたと思う?」
「え……何もしなかった、んでしょ?『休まれた』って書いてあるし」
「まさにその通り。『何もしなかった』んだ。創造のプロジェクトをこれ以上広げず、新しいものを何も生み出さず、ただ立ち止まった。そして聖書は、この『何もしなかった日』を『神は祝福して、これを聖別された』と書いている。特別で聖なる日として認めたんだ」
彩音は顎に手を当て、サマーオレンジのネイルを凝視しながら考え込んだ。
「うーん……神様が休むって、なんか親近感湧くけど……でもなんでわざわざ『休んだ日』をそんなに特別扱いするんだろ? 普通、頑張って何かを作った『結果』の方がすごくて特別じゃん? 頑張った6日間じゃなくて、サボった(?)7日目を聖なる日にするって、なんか不思議」
郁夫は「サボった」という彩音独特のフランクな表現にクスッと笑いつつ、深くうなずいた。
「素晴らしい観察だよ、彩音さん。僕たちはどうしても『何かを生産すること』や『成果を上げること』に価値を置きがちだよね。頑張って働いた6日間こそが立派で、休むことは単なる充電期間か、あるいは妥協のように思えてしまう」
「そうそう! ウチらだってさ、テスト勉強とかバイトとか、何かに追われてないと『今日一日無駄にしちゃったな……』って罪悪感抱くことあるじゃん。休日もSNS見てたらあっという間に夕方になって、『ウチ、今日何やってたん?』って凹むみたいな」
「すごくよく分かるよ。現代社会は特に『生産性』を求めるからね。でもね、聖書が教えてくれる『安息日(休み)』の概念は、ただ体力を回復させるための休憩とは根本的に違うんだ」
「どう違うの?」
「神様は疲れ果ててスタミナ切れで休んだわけじゃない。全能の神様だからね。神様が休まれたのは、『もうこれで十分、満ち足りている』ということを宣言するためだったんだ」
郁夫は言葉を一つひとつ確かめるように紡いでいく。
「もし神様が7日目も、8日目も、永遠に創造を続けていたらどうなっていただろう? 世界はどこまでも拡張し続け、人間も『もっと次へ、もっと上へ』と永遠に走らされ続けることになったかもしれない。でも神様は7日目に自ら『ストップ』をかけた。『完成した。これで良い』とブレーキを踏んで、作られた世界を静かに味わい、祝福したんだ」
彩音の瞳が、ハッとしたように見開かれた。
「ストップを……かけた……」
「そう。つまり『休み』とは、何かを生み出すのをやめて、今ここにある存在そのものを愛でる時間なんだよ。僕たちが『もっと頑張らなきゃ』『もっと成果を出さなきゃ』という焦りから解放されて、『私は今、ここにいるだけで満たされている』と感じるための聖域なんだ」
彩音はゆっくりと息を吐き出し、窓の外の空を見つめた。夏の陽光が校庭を黄金色に染めている。
「……なんかさ、めちゃくちゃジーンときちゃった」
「え?」
「神様ってさ、人間に『お前らも休みな』って言ってくれたのかなって」
彩音の声は柔らかく、どこか愛おしそうだった。
「『もっと頑張れ』『休むな』って言う神様だったら、人間って絶対潰れてるじゃん。でも万物を作った一番えらい神様が、真っ先に『よし、今日は何もしない! 完璧!』って休んで見せてくれたんでしょ? 『休み』って、サボりでも手抜きでもなくて、神様公認の『聖なる時間』なんだ……」
「……その通りだよ、彩音さん」 郁夫は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「古代の世界では、奴隷や身分の低い人々は死ぬまで休むことを許されなかった。けれど聖書の神は、王様も、奴隷も、家畜すらも、7日に一度は手を止めて休まなければならないという絶対的なルールを作ったんだ。権力者すら踏み込めない『何もしなくていい時間』を、すべての人間に与えたんだよ。これは人間に対する、最大の尊厳の保障なんだ」
「やば……神様、優しすぎない?」
彩音は自分の胸に手を当てて、微笑んだ。
「ウチ、たまに休日にベッドから出ないで一日中動画見て終わる日があってさ、『あー、今日も何も産み出さなかった無駄な一日だったな』って自分を責めてたのね。でもさ、それって間違いだったんだ。『何もしないで、今、生きてることを味わう日』だったんだね」
「そうだよ。何もしないことの中にこそ、最大の価値がある。僕たちが生きているのは、何かを生産し続けるためだけじゃない。神様が作ってくれたこの世界を喜び、自分自身の存在を愛おしむためなんだから」
「『何もしない贅沢』ってやつだね!」 彩音はニッと笑って、サマーオレンジの爪を誇らしげに立てた。
「ウチ、次のオフの日は堂々と『今、神聖な安息日を過ごしてまーす!』って胸張ってぐうたらするわ!」
「あはは! それは素晴らしい安息日の過ごし方だね」
郁夫も思わず声を上げて笑った。
わずか3節の、一見すると地味な記述。けれどそこには、果てしない競争と忙しない日常に追われる現代人が一番必要としている、「生の肯定」と「休息の神聖さ」が鮮やかに描かれていた。
知識としての聖書を追ってきた郁夫自身も、彩音の素直で温かな感性に触れることで、テキストの行間から溢れ出す神の深い愛を、肌で感じることができたのだった。
「今日のお話もすごく良かったよ、部長。たった3行でこんなに心が軽くなるなんて思わなかった」
「こちらこそ、ありがとう副部長。彩音さんの解釈を聞くたびに、僕も聖書の言葉が新しく生まれ変わるのを感じるよ」
郁夫が丁寧に聖書を閉じると、パタンという心地よい音が静かな教室に響いた。
「じゃあ、本日の『せいけん』はここまで!」 彩音は元気よく立ち上がり、カバンを肩にかけた。
「ウチ、今日はバイトもないし、帰ったらアイス食べて全力で『安息日』堪能するね!」
「ふふ、いいね。最高の安息日を過ごしてね」
「うん! じゃあね部長、また明日!」
夕暮れの光の中を、軽やかな足取りで去っていく彩音の背中を見送りながら、郁夫は窓の外の景色をゆったりと眺めた。
風が葉を揺らす音、雲のゆったりとした流れ、そして自分自身の静かな呼吸。ただそこに存在しているということの愛おしさを噛み締めながら、郁夫は深く優しい満足感に満たされていた。




