光あれ、と真っ暗なキャンバス
今回のせいけんは、創世記一章、最初の最初「天地創造」を扱います。
お楽しみください!
放課後の教室は、梅雨の晴れ間の柔らかな光に満ちていた。窓から吹き込む風が、かすかに濡れた土と青葉の香りを運んでくる。
「よし、本日の『せいけん』を始めるよ。副部長、準備はいいかい?」 「はーい、部長! 今日もよろしくお願いしまーす!」
寺脇彩音は自分の席から丸椅子を引き寄せ、吉岡郁夫の机の前にちょこんと座った。今日の彼女のネイルは、あじさいの花びらのようなグラデーションのパープル。指先を軽やかに動かしながら、楽しそうに郁夫の手元を覗き込んでいる。
「ねえねえ部長、今日のテーマは何? カインとアベル、バベルの塔、ダビデとゴリアテってきて、次は何のドラマが待ってるの?」
郁夫は温かな笑みを浮かべ、机の上に鎮座する革装の聖書を撫でた。
「ふふ、今日はね、すべてのドラマが始まる“一番最初のページ”に戻ろうと思う。旧約聖書、そして聖書全体の冒頭を飾る『創世記』第1章——『天地創造』の物語だ」
「えっ! 天地創造!?」 彩音は目を丸くした。「それって一番有名なやつじゃん! 神様が『光あれ』って言って世界作ったっていう……あれって一番最初にやるやつなんじゃないの?」
「あはは、普通はそうだよね」 郁夫は嬉しそうに目を細めた。
「でも、物語の始まりって、他の色んな人間ドラマを知った後で読み返すと、より一層そのスケール感と深みが味わえるんだよ。原点にして最高峰のテキストなんだ」
郁夫は聖書の第一ページを静かにめくった。使い込まれた紙の擦れる音が、誰もいない教室に心地よく響く。
「冒頭の文章はこうだ。『はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしかった。やみが大水のおもてにあり、神の霊が水のおもてを覆っていた』。そして神様は言われる。『光あれ』。すると光があった」
「うわ、出た! 『光あれ』!」 彩音は小さく拍手をした。「超有名フレーズ! でもさ、神様って6日間で世界作ったんだよね? どういう順番で作ったんだっけ?」
「よく知っているね。順番はこうだ。
1日目: 光と闇を分け、昼と夜を作った。
2日目: 空(大空)を作り、上の水と下の水に分けた。
3日目: 陸地と海を分け、植物を生え揃わせた。
4日目: 太陽と月と星という『光体』を作った。
5日目: 魚や鳥などの生き物を作った。
6日目: 陸の動物、そして最後に自分に模して『人間』を作った。 そして7日目に、神様はすべての仕事を終えて休まれた。これが『安息日』の起源だね」
「へえぇ……」 彩音は郁夫の指差す文字をじっと見つめ、何かを確かめるように指折り数えた。そして、ふと眉をひそめた。
「ねえ、吉岡くん。ウチ、ちょっと変だなって思うところがあるんだけど」
郁夫の瞳が好奇心で輝いた。 「お、どこかな? どんな些細なことでも教えてほしいな」
彩音は爪先で1日目と4日目の記述を交互に指さした。
「これさ、1日目に『光あれ』って言って光と闇を分けたじゃん? でも、太陽と月ができるのって4日目だよね? 太陽がないのに、どうやって1日目に『光』があったの? 昼と夜って、太陽が出たり沈んだりするから昼と夜になるんじゃないの?」
郁夫は思わず感嘆の吐息をもらした。
「……素晴らしい視点だ、彩音さん。まさにそこは、天文学や古代思想の研究者たちも深く議論してきたポイントなんだよ」
「えっ、マジで!? ウチ、変なツッコミ入れたわけじゃない?」
「全然! むしろ大正解の問いだよ」 郁夫は背筋を伸ばし、深く解説を始めた。
「古代の近東の世界観では、太陽や月そのものが『神』として崇拝されていたんだ。エジプトの太陽神ラーとかね。けれど、創世記の著者はあえて太陽や月を4日目まで登場させず、単なる『神が作った照明器具(光体)』として描いた。つまり、太陽という物質が存在する前に、まず『光』という概念そのものが神によって生み出されたんだ、と宣言しているんだよ」
「光という概念……?」
「そう。光というのは単なる物理的な明かりだけじゃない。古代ヘブライの人々にとって、暗闇やカオス(混沌)状態にあった世界に、秩序と意味をもたらした最初の刺激なんだ。『存在する』ということの始まりの合図だね」
彩音はあごに手を当て、じっと窓の外の空を見つめた。薄い雲の間から、放課後を照らす柔らかな陽光が注いでいる。
「……真っ暗なキャンバス、みたいな感じかな」
「真っ暗なキャンバス?」郁夫は言葉を反芻した。
「うん。絵を描くときさ、何も描かれてない真っ暗な画面があったとして、そこにポンって一つ白とか黄色を置くと、急にそこに『空間』ができるじゃん。今まで『何もなかった空間』に、光が入った瞬間に『ここが世界だ』って認識できる感じ」
「……!」郁夫は息をのんだ。
「神様ってさ、『よし、これから超壮大な絵を描くぞ!』って思って、最初に『光』っていう筆を入れたんじゃないのかな。太陽とか生き物とかは、そのキャンバスの上に後から描いていくパーツでさ。まず『描くための場』を作ったのが1日目なんじゃない?」
郁夫は胸の奥が高鳴るのを感じた。 「描くための場……! なんという美しい表現だろう」
「それにさ、神様って何かを作るたびに『良しとされた』って書いてあるでしょ?」
「そうなんだ。『神はそれを見て、良しとされた』。各ステップの終わりには必ずこの言葉が入る。そして人間を作った最後の6日目には『極めて良しとされた』とあるんだ」
彩音はクスクスと嬉しそうに笑った。
「それ、超かわいくない? 神様ってさ、もっと冷酷で威厳があって『我は神なり!』みたいな感じかと思ってたらさ。光作って『うん、いい感じ!』、陸作って『オッケー、最高!』、人間作って『うわっ、めっちゃ良くできたじゃんウチ!』って言ってるようなもんでしょ? 自分の作品作って自分でテンション上がってるクリエイターみたいじゃん」
「あはは! 確かにそうだね!」
郁夫も声を上げて笑った。厳かな天地創造の神が、創作に熱中するアーティストのように見えてくる。しかし、その彩音の「観察」は、実はキリスト教神学における「創造の善性(世界は根本的に素晴らしいものとして作られた)」という核を完璧に言い当てていた。
「君の言う通りだよ、彩音さん。この『良しとされた』というリフレインはね、この世界が存在していること、そしてそこに生きる生き物や人間が、根本的に『祝福された良い存在』として始まったんだという、強烈な肯定のメッセージなんだよ」
「肯定……」
「うん。僕たちが生きていると、理不尽なことや苦しいこと、自分の存在を否定したくなるような暗闇にぶつかることがあるよね。でも、創世記の冒頭は教えてくれるんだ。どんな暗闇から始まったとしても、神様はそこに光を投げかけ、世界を『素晴らしい』と喜んでくれた。僕たちの命の根底には、最初からその『肯定』が敷き詰められているんだって」
彩音は静かにその言葉を受け止めた。ソーダブルーのネイルが施された指先で、聖書の「神はそれを見て、良しとされた」という一行を優しく撫でる。
「……なんか、救われるね」
「え?」
「ウチらってさ、たまに『ウチなんて生きてる意味あんのかな』とか『何も残せてないな』って落ち込むことあるじゃん。テストの点が悪いとか、友達とうまくいかないとかさ。でも、この世界が作られた時に、神様が『人間作った! 最高!』って喜んでくれたんだとしたら……生きているだけで、もう合格点もらってるようなもんだよね」
「……まさに、その通りだよ」
郁夫の胸に、温かいものがこみ上げてきた。 知識として「天地創造」の構造や神学的な意味を追っていた自分に対し、彩音はそれを「今を生きる自分たちの自己肯定感」へとダイレクトに繋ぎ合わせた。
世界は、最初から僕たちを歓迎していたのだと。
「それにね、もう一つ興味深いことがあるんだ」と郁夫は言葉を継いだ。 「神様は最後に人間を作った時、こう言われたんだ。『私どものかたちに、私どもに模して人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、地にあるすべての生き物を治めさせよう』と」
「支配しろってこと?」
「当時の言葉で『治める』というのは、荒らし回るという意味じゃない。神様が心を込めて作ったこの素晴らしい世界(庭園)を、神様に代わって大切に管理し、慈しむパートナーとして人間を任命した……という意味なんだよ」
彩音はぱっと顔を輝かせた。
「えっ、じゃあウチらって、この世界の『共同管理者』ってこと!?」
「ふふ、そういうことになるね」
「やば! スケールでか! ウチら、ただの高校生だと思ってたら、地球のケア担当だったんだ!」
彩音はおかしくってたまらないというように笑い、郁夫も一緒に笑った。放課後の静かな教室に、二人の明るい笑い声が溶けていく。
「いいね、地球のケア担当。日々の生活の中で、目の前の人を大切にしたり、綺麗な景色を楽しんだりすること自体が、その仕事を果たしていることになるのかもしれないね」
「絶対そうだよ! 今日バイトで接客優しくするのも、地球のケアの一環ってことにするわ!」
彩音は満足そうに胸を張り、カバンを肩に掛けた。
「今日も超深い話だったなー! 最初は『天地創造なんてスケールでかすぎて関係ないし』って思ってたけど、一番身近な話だったわ。自分自身を大事にしようって思えたし!」
「そう言ってもらえて嬉しいよ、副部長。創世記の第1章は、人間に対する最大のラブレターみたいなものだからね」
「ラブレターかぁ、いいねぇ! 部長、今日も素敵な講義をありがとね!」
彩音はひらひらと手を振り、軽やかなステップで教室の扉を開けた。
「じゃあね、部長! また明日!」
「ああ、気をつけてね、副部長」
引き戸が閉まり、再び静けさが戻ってきた教室で、郁夫はゆっくりと息を吐き出した。 窓から差し込む夕陽が、机の上の聖書を黄金色に染めている。
「光あれ」
神が放ったその最初の言葉は、数千年の時を超えて、今もこうして放課後の教室を照らしている。 探求者と観察者。二人の高校生は、世界の始まりに思いを馳せながら、自分たちの足元にある「今日」という日を、確かに愛おしく感じていた。




