少年と巨人、あるいは石ころの角度
せいけん・第四話!
今回はサムエル記上17章、「ダビデとゴリアテ」の物語を取り上げます。
お楽しみください!
放課後の教室は、夏に向かう季節の濃い青空と、西日に照らされた朱色が混ざり合う独特のグラデーションに包まれていた。
「よし、本日の『せいけん』を始めるよ。副部長、準備はいいかい?」
「はーい、部長! 今日もよろしくお願いしまーす!」
寺脇彩音は、自分の机から丸椅子を引いて吉岡郁夫の机の前に座った。今日の彼女のネイルは、涼しげなソーダブルーに小さな銀の星が散りばめられている。爪先をすり合わせながら、ワクワクとした表情で郁夫の手元を覗き込んだ。
「ねえねえ部長、今日のテーマは何? バベルの塔のあとに『巨人』とか言ってたよね? ウチ、アニメの巨人くらいしか知らないんだけど!」
郁夫は楽しそうに目を細め、机の上の分厚い聖書——旧約聖書の『サムエル記上』第17章を開いた。
「よく覚えていたね。今日のテーマは、聖書の中でも屈指のドラマチックな一戦、少年ダビデと巨人ゴリアテの物語だ。『巨人に立ち向かう弱者』の代名詞として、今でもビジネスやスポーツの世界で語り継がれる有名なエピソードだよ」
「へえ! 弱そうな男の子が超でかいヤツを倒すやつ? 超胸アツな展開じゃん!」
「そうだね。舞台は古代イスラエル。イスラエル軍と、宿敵ペリシテ軍が谷を挟んで向かい合って陣を張っていた。ペリシテ軍からは、身長が六キュビト半——現代の単位で約三メートル近くある巨漢の兵士が現れた。それがゴリアテだ」
彩音は目を見開いた。「三メートル!? デカすぎでしょ! 天井届くじゃん!」
「うん。彼は青銅の兜をかぶり、身につけた鎧の重さだけでも五十キロ以上あったと言われている。手に持つ槍の穂先だけで七キロ超えだ。ゴリアテは前に躍り出て、イスラエル軍に向かって『お前たちの代表を出せ! 一対一で勝負し、負けた方が服従するのだ!』と大声で挑発したんだよ」
「うわぁ、怖……。で、イスラエル側はどうしたの?」
「全員、恐怖で震え上がって誰も進み出さなかった。そこにやってきたのが、兵士でもない、ただの羊飼いの少年ダビデだった。彼は兄たちに弁当を届けるために陣地に来ただけだったんだけど、ゴリアテがイスラエルの神を侮辱しているのを聞いて立ち上がったんだ。『あんな大男、僕が倒してきます!』ってね」
彩音はくすっと笑った。「ダビデくん、メンタル強すぎ! 少年なのに無鉄砲すぎない!?」
「あはは、確かに周りもみんな止めたんだよ。王様も『お前には無理だ、鎧を着ていけ』って自分の重い兜や武具を着せようとした。でもダビデは『重くて歩けません』と言って脱ぎ捨てちゃった。代わりに持っていったのは、使い慣れた手斧と、石投げの道具、そして羊飼いの袋に入れた五つのなめらかな小石だけだったんだ」
「えっ……それだけ!? 武器、石ころ!?」
「そう、石ころ。ゴリアテは武器を持たない少年を見て『お前は私を犬だと思って、杖を持って向かって来るのか』と馬鹿にして嘲笑った。ダビデは怯まずに言ったんだ。『お前は剣と槍と投げ槍を持って向かってくるが、私はお前が侮辱した神の名によって向かっていく』とね。そして速やかに対決に走った」
郁夫は一息ついて、少し身を乗り出した。
「ダビデは袋から石を取り出すと、スリングにセットしてぐるぐると振り回し、勢いよく放った。石は真っ直ぐに飛んで……ゴリアテの額にめり込んだ。巨人はそのままうつ伏せに倒れ、ダビデは駆け寄ってゴリアテ自身の剣を抜いて彼を倒したんだ。剣も持たない少年が、圧倒的な巨人を打ち破った瞬間さ」
物語を聞き終えた彩音は、背もたれに寄りかかり、「ほあー……」と感心したようにため息をついた。
「やっぱり名作だね。少年漫画のバトルシーンみたいで超カッコいい!」
「ふふ、そうだね。一般的には『信仰心と勇気が勝利をもたらした』とか『弱者が強者を倒す奇跡』として語られることが多い話だよ」
「んー……」彩音は少し首をかしげ、爪の星をじっと見つめた。「ねえ、吉岡くん。ウチ、ちょっと違う風に見えたんだけど、言っていい?」
郁夫の目が輝いた。これこそが、彼が「せいけん」で最も楽しみにしている瞬間だった。
「もちろん! 彩音さんがどう感じたか、すごく知りたいな」
彩音は指を一本立てて、解説するように口を開いた。
「これさ、周りから見たら『無謀な少年が奇跡を起こした』みたいに見えるけど……実はダビデくん、めちゃくちゃ冷静で“勝てる勝負”しかしてなくない?」
「……ほう? 勝てる勝負、とは?」
「だってさ! 重い鎧着て、慣れない剣持って近寄ったら、リーチもパワーも違うんだから秒で殺されるじゃん。でも、ダビデくんは自分の得意分野……つまり『遠距離攻撃』に勝負を絞ったわけでしょ? 羊飼いとして猛獣追い払うのに、石投げの練習を毎日毎日やってたわけじゃん」
「……!」郁夫はハッとして、彩音の顔を見た。
「ゴリアテってさ、近接戦では無敵だけど、重い鎧着てるから動きが絶対重いよね。額のところだけ防具がなくて丸出しだったんでしょ? ダビデくんにしてみたら『あんなデカくて動きが遅くて、急所が開いてる標的、余裕で当たるじゃん』って感じだったんじゃないかな。つまり、相手の『土俵』に乗らないで、自分の『得意な角度』からしか攻撃してないんだよ!」
郁夫は思わず膝を叩いた。
「すごい……! すごいよ彩音さん! まさにそれだ!」
郁夫は熱を帯びた声で言葉を続けた。
「実は軍事史や戦術論の観点からも、まったく同じことが言われているんだ。重装歩兵のゴリアテに対して、ダビデは実質的な『投擲兵(遠距離攻撃手)』だった。ジャンケンで言えば、ゴリアテのグーに対して、ダビデは最初からパーを出していたんだよ。無謀な挑戦ではなく、完璧な『非対称戦術』だったんだ」
「へええ! やっぱり! ウチらの生活でもさ、そういうのあるじゃん」
彩音はフッと笑って、自分の髪を指でくるくると弄った。
「例えばさ、成績優秀でスポーツ万能な人気者の子と同じ土俵で張り合おうとしたら、ウチなんて勝てるわけないのね。でもさ、ウチにはウチの『メイクの技術』とか『人の気持ちの変化にすぐ気づける観察力』とか、ウチだけの石ころがあるわけじゃん。相手のルールで戦わないで、自分の得意な角度から自分らしくいればいいんだなって、ダビデくん見てて思ったよ」
「『自分の得意な角度から自分らしく』か……」
郁夫は反芻するようにその言葉を口にし、深い感銘を受けた。
自分はテキストの歴史的背景や戦術的意味を知識として理解していた。しかし彩音は、それを即座に「人間がいかに自分の強みを活かして生きていくか」という人生の知恵に昇華させたのだ。
「王様が着せようとした『重い鎧』を脱ぎ捨てたことも、まさにそこにつながるね。他人のルールや世間の『こうあるべき』という価値観を脱ぎ捨てて、自分にとって最も扱いやすい道具で勝負する。ダビデが持っていたのは、信仰心だけじゃなく、自分自身を正しく知る『自己客観視』の力だったんだ」
「そうそう! 鎧脱ぐの超大事! サイズ合わない服着てても可愛くならないしね!」
彩音は満足そうに微笑み、窓の外に目をやった。夕陽が二人を優しく包み込み、教室の影を長く伸ばしている。
「今日も楽しかったなぁ、部長。聖書に出てくる人たちってさ、何千年も前の人なのに、悩んでることがウチらとあんまり変わらないのが親近感湧くよね」
「そうだね。時代や文化は違っても、人間の心の本質は変わらない。だからこそ、こうして数千年を超えて僕たちの心に届くんだと思う」
郁夫は丁寧に聖書を閉じた。革の表紙に刻まれた使い込みの傷が、夕光の中で誇らしく見えた。
彩音はカバンを肩にかけ、椅子を元の位置に戻した。
「じゃ、ウチはこれからバイトだから行くね! 部長も気をつけて帰ってよ?」
「うん、ありがとう。バイト頑張ってね、副部長」
「はーい! またね!」
軽やかな足音とともに、彩音は手を振りながら教室をあとにした。
引き戸が閉まる静かな音のあと、郁夫は一人、静まり返った教室で机の上の聖書を見つめた。
誰かが決めた「正しさ」や「強さ」の基準に縛られず、自分だけの石ころを見つけて生きていくこと。
彩音との対話を通して、また一つ、聖書の言葉が色鮮やかな意味を持って胸に刻まれた。
郁夫は深く息を吸い込み、カバンに聖書を大切に収めると、静かな満足感とともに夕暮れの街へと歩き出した。




