空へ伸びる爪先と、崩れた言葉
せいけん、今回は創世記第11章「バベルの塔」の物語を取り上げます。
今回もお楽しみください!
放課後の教室に、心地よい風が吹き抜けていた。カーテンがふんわりと揺れ、机の上に開かれた聖書のページをカサリと撫でる。
「よし、本日の『せいけん』を始めるよ。副部長、準備はいいかい?」 「はーい、部長! 待ってました!」
寺脇彩音は、自分の席の椅子をクルリと回して吉岡郁夫の机に寄せ、身を乗り出した。今日の彼女のネイルは、涼しげなミントグリーンに小さなラインストーンが飾られている。
「前回予告してくれたやつだよね? 『バベルの塔』! ウチさ、気になってネットで画像検索しちゃったよ。なんかグルグル巻いたでっかい塔の絵がいっぱい出てきた!」
「予習をしてきてくれたんだね、素晴らしいよ彩音さん」
郁夫は嬉しそうに目を細めた。彼女がこの研究会を単なる暇つぶしではなく、真摯な知的好奇心をもって楽しんでいることが伝わってきて、胸が温かくなる。
「それじゃあ、テキストに入ろう。創世記第11章だね。物語はこんな言葉から始まるんだ。『全地は同じ発音、同じ言葉であった』」
「へえ! 昔の人って、みんな同じ言葉喋ってたんだ?」
「そう表現されているね。で、東から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけてそこに住みついた。そして彼らはこう話し合ったんだ。『さあ、れんがを作り、それをよく焼こう』『さあ、天に届く塔のある街を作り、有名になろう。不吉にも私たちが全地に散らされることがないように』ってね」
彩音は「ふむふむ」とうなずきながら、郁夫の指差す聖書の一文を覗き込んだ。
「れんがを作ったってことは、建築技術がめちゃくちゃ進化したってこと?」
「まさにその通りだ。それまでの石と粘土に代わって、焼いたれんがとアスファルトを使うことで、人間はそれまで作れなかったような巨大な建造物を建てられるようになったんだよ。テクノロジーのイノベーションだね。彼らはその力を使って、天——つまり神の領域に届くほどの塔を建てようとしたんだ」
「なんか、すごいノリノリじゃん。『ウチら最強! なんでも作れるし!』みたいな感じ?」
「そうだね。けれど、それを見た神様は降ってきて、こう言ったんだ。『彼らは一つの民で、みな一つの言葉を話している。これが彼らの事業の始まりなら、今や彼らが企てることで、不可能なことはないだろう。さあ、降って行って、彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が通じないようにしよう』ってね」
彩音は目を見開いた。
「えっ、混乱させちゃったの!?」
「うん。言葉が通じなくなった人間たちは、お互いに意思疎通ができなくなって、塔の建設をやめざるを得なくなった。そして神様は彼らをそこから全地に散らされたんだ。だからその街は『バベル(“混乱”の意)』と呼ばれるようになった……これがバベルの塔の顛末だよ」
郁夫が説明を終えると、彩音は椅子の背もたれに深く体重を預け、腕を組んで天を仰いだ。夕暮れ時の赤紫色の空が、窓の外に広がっている。
「うーん……」 彩音はしばらく真剣な顔で考え込んでいた。やがて、彼女は自分のネイルを見つめながら、静かに口を開いた。
「ねえ、吉岡くん。神様ってさ、なんでそんなに焦ったのかな?」
「焦った?」 予想もしなかった切り口に、郁夫はまばたきをした。
「だってさ、『不可能なことはないだろう』って言ったんでしょ? それって、人間が凄すぎて神様が嫉妬したか、ビビったみたいに聞こえるじゃん。でも神様って絶対的な存在なんでしょ? なのに、なんでわざわざ人間の邪魔しに降ってきたの?」
郁夫はハッとした。 (神の全能性と、人間への介在の理由……。彩音さんはまたしても、物語の最も深い核心に一足飛びで辿り着いている)
「すごく鋭い考察だよ、彩音さん。確かに、単に神が人間に嫉妬したと読むこともできる。でも、なぜ神は『言葉を散らした』と思う? 天罰として雷を落として塔を壊すこともできたはずなのに」
彩音は指先で机をトントンと叩き、自分の日常の経験をたぐり寄せるように思考を巡らせた。
「……あ。もしかしてさ、神様は塔そのものじゃなくて、人間の『イキり方』がヤバいって思ったのかな」
「イキり方?」
「うん。だって『有名になろう』とか『散らされないようにしよう』って、要するに『ウチらのグループだけで世界を牛耳っちゃおうぜ』ってノリでしょ? みんなが同じ言葉で、同じ考え方で、技術もついてきちゃって……それって一見すごそうだけど、誰一人『これっておかしくない?』って言えない状態じゃん。同調圧力っていうか、暴走っていうか」
郁夫は息をのんだ。 「同調圧力……言葉の統一がもたらす『暴走』か!」
「そう! なんかさ、SNSとかでもたまにあるじゃん。同じノリのやつらだけが集まって、みんなで同じ言葉使って、一つのターゲットを叩いて熱狂してる状態。それって『無敵!』って思ってるかもしれないけど、外から見たらめちゃくちゃ怖いし、危険じゃん。もし神様がそれを止めたんだとしたら……言葉をバラバラにしたのって、罰っていうか『冷や水』だったんじゃない?」
郁夫の胸に、激しい感動が押し寄せた。 文献学者たちの多くも、バベルの塔の物語を「人間の慢心への戒め」と同時に「単一な価値観への過剰な依存に対する警告」として読み解く。彩音は、現代のSNS空間やグループダイナミクスという生の実感を通して、古代の知者がテキストに込めた警告の本質を完璧に見抜いていた。
「素晴らしすぎるよ、彩音さん……!」 郁夫は思わず身を乗り出した。
「君の言う通りだ。人間が同じ言葉を持ち、一つの目的に向かって暴走する時、そこには異論を挟む余地がなくなる。神が与えた『多様な言語』は、一見すると不便で紛争の種に見えるけれど、実は『人類が一つの誤った価値観で全滅しないための安全装置』だったのかもしれないんだ」
「安全装置かぁ……」彩音は柔らかく微笑んだ。
「『お前ら、ちょっと頭冷やして、色んな視点持ちなさい』ってことね」
「そうなんだ。それにね、僕がこの話で一番好きで、かつ面白いと思うのは、人間が『天に届こうとした』という点なんだよ」
「どういうこと?」
「僕たちは今、宇宙にロケットを飛ばし、超高層ビルを建て、インターネットで世界中とつながっている。これって、現代版の『バベルの塔』だよね。人間はいつの時代も、自分の足元を飛び出して、未知の領域へ手を伸ばそうとする本能を持っているんだ」
郁夫は自分の擦り切れた革装の聖書を優しく撫でた。
「神様は言葉を混乱させたけれど、人間の『知りたい』『高みへ行きたい』という情熱そのものを否定して全滅させたわけじゃない。バラバラになった言葉を解読し合って、お互いを理解しようとするプロセスそのものが、今の僕たちの学問や文学、そして対話なんだと思う」
彩音は郁夫の言葉を噛み締め、深くうなずいた。
「……なんか、わかる気がする。言葉が通じないからこそ『この人は何考えてるんだろう?』って知ろうとするもんね。ウチと吉岡くんもさ、最初は全然使う言葉が違ったじゃん? ウチはギャル語だし、吉岡くんはムズい本用語だし」
「ふふ、確かにそうだね。最初の頃は、僕も君の『バズる』とか『イキる』のニュアンスを理解するのに一瞬考えたよ」
「でもさ!」彩音は嬉しそうに目を輝かせた。
「言葉が違うからこそ、こうやって放課後に話すのがめちゃくちゃ面白いんじゃん! 『そっちからはそう見えるんだ!』って発見があるし。もし二人が全く同じ人間だったら、こんな研究会やってないよ」
郁夫は胸が熱くなるのを感じた。 目の前にいる少女は、ただ現実的なだけではない。自分とは異なる存在への圧倒的な敬意と、未知の価値観を受け入れるしなやかな強さを持っている。
「そうだね。僕たちがここで交わしている対話こそが、崩れたバベルの塔の跡地で紡がれる、新しい『理解』の形なのかもしれない」
「うわ、部長、なんか上手いこと言った!」
彩音は楽しそうに笑い、鞄からスマートフォンを取り出した。画面はオフのままだ。
「ねえ部長、来週はどこのページ読む? ウチ、もう完全に『せいけん』にハマっちゃったんだけど」
「ふふ、副部長がやる気満々で頼もしいよ。次回はね……巨人に挑んだ少年『ダビデとゴリアテ』の話にしようか。あるいは、理不尽な苦難に立ち向かった『ヨブ記』も捨てがたいな」
「わっ、どっちも面白そう! どっちにするか、来週までに決めといてよ!」
彩音は立ち上がり、軽やかな足取りで教室のドアへと向かった。ドアを開ける手前で振り向き、ミントグリーンの爪を飾った手をひらひらと振る。
「じゃあね、吉岡部長! また明日!」
「ああ、気をつけてね、寺脇副部長」
彼女が去ったあとの教室には、夕闇の静けさと、互いへの温かな敬意の余韻が残されていた。
言葉が分かたれた世界で、人は他者を求める。 探求者と観察者。二人の高校生が紡ぐ放課後の探求は、まだ始まったばかりだ。




