嫉妬のスパナと最古の兄弟
聖書オタク君とギャルちゃんによる聖書研究会、第二回!
今回は、人類史上最古の殺人事件、カインとアベルの兄弟の物語を取り上げます。
放課後、夕陽が赤々と教室を染める時間帯。二年の教室には、本日も吉岡郁夫と寺脇彩音の姿があった。
「よし、本日の『聖書研究会』を開始します。副部長、準備はいいかい?」
「はいはい、部長! 今日のテーマは何? 前回のコヘレトってやつ、マジでウチの刺さりまくってさ、あれからTikTok見るたびに『これも太陽の下の空か……』ってちょっと思っちゃったじゃん」
彩音は笑いながら、郁夫の向かいの席に腰掛けた。爪に塗られた淡いピンクのネイルが、夕光を浴びてキラキラと輝いている。郁夫は彼女の素直で柔軟な感性に感心しつつ、机の上に置いた聖書に手を置いた。
「コヘレトを楽しんでもらえて良かったよ。さて、第二回の今日は、旧約聖書の『創世記』第四章に登場する、超有名で、そして恐らく人類史上最も切ない兄弟の話——『カインとアベル』を扱おうと思う」
「カインとアベル……聞いたことある! なんかゲームのキャラクターとかで名前見たことあるかも。兄弟なんだ?」
「そう、アダムとエバの息子たちだね。兄がカインで、弟がアベル。兄のカインは農耕を行い、弟のアベルは羊を飼う牧畜を行っていたんだ」
郁夫は丁寧に聖書の該当ページを開き、指で追うように説明を始めた。彩音は身を乗り出し、郁夫の指先とテキストを真剣な目で見つめている。
「ある日、二人はそれぞれの収穫物を神様に捧げ物として差し出したんだ。カインは地の恵みである作物を、アベルは羊の群れの中から肥えた初子をね。ところが、ここで予期せぬ事件が起きる」
「事件? 神様がキレたとか?」
「キレたというより……選んだんだ。神様は弟アベルとその捧げ物には目を留められたけれど、兄カインとその捧げ物には目を留められなかった。理由はテキストにはっきりと書かれていないんだよ」
「えっ」彩音の目がまん丸になった。「理由書いてないの!? 一生懸命育てたやつ持ってったのに、神様スルーしたってこと!?」
「そうなんだ。カインは激しく怒って、顔を伏せた。すると神様はカインに『なぜ怒るのか。正しく行っているのなら、受け入れられるはずだ。罪が入り口で待ち伏せているが、お前はそれを治めなければならない』と警告する。でも結局、カインは弟のアベルを野原に連れ出して、殺してしまうんだ。これが、聖書における『人類初の殺人』なんだよ」
教室に、静かな沈黙が降りた。窓の外で部活のランニングをする生徒たちの足音が、遠くからかすかに聞こえる。
彩音は頬杖をつき、じっと考え込んでいた。彼女の表情は決してふざけておらず、カインの心情を自分の胸の中に手繰り寄せようとしているのが分かった。
「……ねえ、吉岡くん」
「うん?」
「これさ、カインが超性格悪いヤツだから弟殺した、みたいな単純な話じゃないよね?」
郁夫はハッとして息をのんだ。
ただのあらすじを聞いただけで、彼女は物語の深層にある問題意識に辿り着こうとしている。
「どうしてそう思ったの?」
「だってさ、理由も分からずに自分だけ否定されたら、誰だってメンタル死ぬじゃん。例えばさ、ウチと友達が同じくらい頑張ってバイトの面接行ったとするじゃん? で、店長が理由は言わないけど『お前はダメ、あっちの子は採用!』ってなったら、マジで『え、ウチの何がいけなかったの!?』ってなるよ。しかもそれが親とか神様みたいな、絶対的な存在だったらなおさらじゃん」
「まさにその通りだよ、寺脇さん」
郁夫は嬉しさを隠せずに深く頷いた。
「専門的な解釈でもね、カインの怒りは単なる性格の悪さではなく、『不条理』に対する戸惑いと嫉妬なんだと言われている。世の中には、努力したからといって必ずしも報われない理不尽さがある。同じように神を敬ったのに、なぜか自分は選ばれず、あいつが選ばれる。カインが直面したのは、世界の本質的な不公平さだったんだ」
「うわぁ……それ、現代でもめっちゃあるやつじゃん」
彩音は溜息をつき、自分の爪を見つめた。
「SNSとか見ててもさ、自分と同じような服着て同じような生活してるっぽい子が、なんでか分かんないけどバズって何万いいねもついてて、自分は十数いいね、みたいなことあるわけ。努力とかセンスの差じゃなくて『なんであの子ばっかり?』っていう、言葉にできないモヤモヤ。それが爆発したのがカインなんでしょ?」
「……すごいよ、寺脇さん。まさに『嫉妬』という感情の根源を捉えている」
郁夫は心からの敬意を込めて言った。文献の知識を蓄えてきた自分だが、それを「人間の生の痛み」としてこれほど鮮やかに言語化することはできない。彩音は現実を鋭く感得する、類稀な「観察者」だった。
「でもね、物語はここで終わらないんだ」郁夫は話を続けた。「アベルを殺したあと、神様はカインに『お前の弟アベルはどこにいるのか』と問う。するとカインはこう答えるんだ。『知りません。私は弟の番人(見張り役)でしょうか』ってね」
「わっ、開き直った!」
「うん。でも神様は『お前の弟の血の声が、土の中から私に向かって叫んでいる』と言って、カインを農耕の地から追放する。土はもう彼に作物を与えなくなり、カインは地上をさまよう者となるんだ。だけど、ここからが一番不思議なところなんだよ」
「なに? まだ続きがあるの?」
「カインは神様に訴えるんだ。『私の罪は重すぎて負いきれません。出会う人みんなに殺されてしまいます』って。すると神様はどうしたと思う? カインをその場で罰して殺すのではなく、彼に『刻印』をつけて、『カインを殺す者は七倍の復讐を受ける』と言って、彼が他人に殺されないように守ったんだ」
「えぇ!?」彩音は椅子から立ち上がりそうになった。「弟殺した犯人だよ!? なんで神様、カインを守るの!? 意味分かんないんだけど!」
郁夫は微笑み、静かに彩音に着席を促した。
「そこなんだよ。ここが創世記の中で最も議論されるポイントなんだ。普通なら死刑か、即刻天罰だよね。でも神様は、過ちを犯し、孤独な流浪者となったカインに『生存の保障』を与えた。なぜだと思う?」
彩音は再び椅子に座り直し、腕を組んでうーんと唸った。教室の影がどんどん伸びていく。彼女は真剣に、数千年前の神と兄のやり取りに心を巡らせていた。
やがて、彩音はゆっくりと顔を上げた。
「……ねえ、吉岡くん。もしかして神様って、カインの味方でもあったのかな」
「味方?」
「うん。アベルが殺されたのは超かわいそうだし、カインがやったことは絶対アカンことだけどさ。でも、不条理に苦しんで、嫉妬に狂って、取り返しのつかない失敗をしちゃったカインの苦しみも、神様は分かってたんじゃない? 『お前は取り返しのつかない罪を犯した。その苦しみを抱えて生きていけ。でも、だからといって世界がお前を絶滅させることは許さない』みたいな……」
彩音の言葉は、まるで夕闇を切り開く光のように郁夫の胸に届いた。
「罪を犯した人間すらも、神の管理下にあって、その命は守られる……。寺脇さん、君の言う通りかもしれない。神はカインを許したわけではない。罪の重荷を背負わせて追放した。けれど、罪人となったカインの存在そのものを抹消することはしなかったんだ。人間がどれほど不条理に負け、醜い嫉妬から犯罪に手を染めたとしても、神はその命を投げ捨てないという……ある種の希望の物語なのかもしれないね」
「うん……なんかさ、身につまされるよ。ウチらだって、嫉妬して誰かを攻撃したくなったり、嫌なヤツになっちゃう時ってあるじゃん。でも、そういうダメな自分も含めて『生きてていいんだよ』って言われてる気がする」
彩音はふうっと息を吐き出し、郁夫を見てニカッと笑った。
「やばいね聖書! めっちゃドロドロしてんのに、最後なんか泣きそうになるんだけど!」
「ふふ、だから面白いんだよ。人間の弱さも醜さも、全部包み隠さず書いてあるからね」
郁夫は満足そうに聖書を閉じた。革の表紙の手触りが心地よい。知識を与える側の自分と、それを人間味あふれる感情で受け止め、新たな解釈の命を吹き込む彩音。二人の会話は、単なる勉強会を超えて、人間という存在への理解を深める高潔な対話となっていた。
「よし、本日の『聖書研究会』はここまで。副部長、今日も素晴らしい観察眼だったよ」
「へへ、部長に褒められると調子狂うなー! でもマジで楽しかった! 次は何やるの? アダムとエバ? それともノアの方舟?」
「そうだね……次回は、人間の慢心が引き起こしたとされる『バベルの塔』の話にしようか。言葉が通じなくなるあの物語だ」
「いいね! 超楽しみ!」
彩音はカバンを肩に掛け、郁夫にひらひらと手を振った。
「じゃあね部長! 明日もよろしく!」
「ああ、気をつけて帰ってね、副部長」
教室を出ていく彼女の背中を見送りながら、郁夫は胸の奥が温かくなるのを感じていた。
恋愛感情とは違う、けれどお互いを深く尊重し合い、共に未知の知的世界へと足を踏み入れる「同志」という関係。
誰もいなくなった教室で、郁夫はもう一度聖書を撫でた。千年の時を超えた言葉たちが、二人の放課後の中で、今確かに息づいている。




