ギャルと探求者のコヘレト論争
高校生による熱い聖書談義第一話!
今回は旧約聖書の「コヘレトの言葉」を取り上げます。
知識を究めし者と、現場感覚を究めし者の出会い。
ここから、知的探求の壮大な旅が始まる・・・!
夕暮れ時の教室は、橙色の光に包まれていた。部活動に向かう運動部の掛け声や、遠くで響く吹奏楽部のトロンボーンの音が、窓ガラスを微かに震わせている。
高校二年生の吉岡郁夫は、誰もいなくなった二年の教室で、机の上に一冊の分厚い本を広げていた。黒い革装の文庫サイズ、革の端が少し擦り切れている。聖書だ。
郁夫はクリスチャンではない。家に神棚も仏壇もあるごく普通の家庭で育った。しかし、彼は根っからの「文献オタク」だった。特に聖書という書物は、数千年の時を超えて編纂され、西洋の文学、思想、歴史の骨格を作り上げた人智の結晶として、郁夫の知的好奇心を強烈に刺激してやまない。
最近彼が特に没頭しているのは、旧約聖書に含まれる『コヘレトの言葉』だ。古代イスラエルの知者が書き残したとされるそのテキストは、冒頭から強烈なメッセージを放っている。
「空の空、空の空、すべては空」
世の多くの哲学や宗教が「正しさ」や「希望」を語る中で、コヘレトは淡々と人間の営みの徒労さを突く。人生の空しさを直視した上で、では人間はどう生きるべきなのかを探求するその姿勢に、郁夫は青春の貴重な時間をすべて注ぎ込んでいた。
「ねえ、吉岡くん。何読んでんの?」
不意に頭上から降ってきた明るい声に、郁夫は肩を跳ねさせた。
振り返ると、そこにいたのはクラスの中心的存在、寺脇彩音だった。明るく染めた栗色の髪、短めに折ったスカート、爪には綺麗に施されたネイルアート。普段の郁夫の生活圏とはおよそ接点のない、いわゆる「ギャル」的な華やかさを纏った女の子だ。
「あ……寺脇さん。部活、じゃなくてバイト?」
「ううん、今日はシフト休み。スマホの充電切れちゃって、充電器探してたら吉岡くんが見えたからさ。それ、辞書? めっちゃ分厚いじゃん」
彩音はフランクに郁夫の隣の席の椅子を引いて座り、覗き込んできた。少しだけ甘い香水の匂いが鼻をくすぐる。郁夫は少し緊張しながら、本を指で示した。
「これはね、聖書だよ。新共同訳の」
「えっ、聖書!? 吉岡くんって教会とか通ってんの? 洗礼? とか受けた人?」
「いや、全然。僕はクリスチャンじゃないんだ。単に文学とか歴史の文献として面白くてさ。いわゆる『聖書オタク』ってやつかな」
彩音は目を丸くした。引くかと思ったが、彼女の瞳には純粋な好奇心が宿っていた。
「へえ! クリスチャンじゃなくても読むんだ! てか、何がそんなに面白いの? ぶっちゃけ難しそうだし、道徳の授業みたいな固いことばっか書いてあるんじゃないの?」
郁夫は少し考えた。自分の好きなものを、本をほとんど読まないと言っていた彩音にどう伝えれば伝わるだろうか。専門用語を噛み砕き、本質を渡す試みが試されていた。
「うーん、確かにそういう道徳的なページもあるんだけどね。今僕が読んでる『コヘレトの言葉』っていう章は、ちょっと異色なんだ。なんていうか……すごくリアリストなんだよ」
「リアリスト? リアルってこと?」
「そう。例えばね、この本は開口一番、こう言うんだ。『空の空、すべては空(虚しい)』って」
「まじで!?」彩音は声を上げて笑った。「聖書なのに『全部意味ねえ』から始まるの!? ウケるんだけど!」
「ふふ、まあ要約するとそうなるね。太陽は昇ってまた沈む、風は南に吹き東に回りまた巡る。人間がどんなに汗を流して新しいことを成し遂げたと思っていても、太陽の下には新しいものなんて何一つない。全部過去の繰り返して、死んでしまえば賢者も愚者も同じように忘れ去られる……って書いてあるんだ」
郁夫の説明を、彩音は顎に手を当ててじっと聞いていた。チャラチャラしているように見えて、彼女の目は驚くほど真剣だった。そして、しばらくの沈黙のあと、彩音はポンと手を打った。
「あー、なんか分かった気するかも」
「え、本当?」
「うん。それってさ、超バズったTikTokのダンスとか、みんながやってる流行りのメイクみたいなもんじゃない?」
郁夫は目を丸くした。「TikTokのダンス……?」
「そう! 誰かが新しいダンス流行らせて、みんなで『これ超ヤバい!』って盛り上がってマネするじゃん。でもさ、一ヶ月も経ったら誰もそれやってないし、また次の流行りに乗り換えてる。うち等、その瞬間は『これが全て!』みたいに命かけてるけど、引きで見たら『で?』って感じじゃん。結局、同じことの繰り返しっていうか。虚しいっちゃ虚しいよね」
郁夫は息をのんだ。
抽象的な古代の知恵を、彼女は現代の若者文化という「生の実感」に一瞬で翻訳してみせたのだ。しかも、その本質を何一つ外していない。
「すごいな、寺脇さん……まさにそういうことなんだ。コヘレトはね、その『虚しさ』を認めた上で、じゃあどう生きればいいかっていう問いに答えを出そうとしているんだよ」
「え、なんて言ってるの? 結局どうすればいいの?」
郁夫はページをめくり、お気に入りの箇所を指差した。
「『人は、食べて飲み、その苦労によって心を楽しませるより良いことはない』……つまりね、いつか終わる虚しい人生だからこそ、未来の大きな成功に執着しすぎるんじゃなくて、今ここにある日常の食事や、仕事(勉強)の苦労の中に小さな喜びを見出して、それを素直に楽しむことが神から与えられた幸せなんだ、って言ってるんだよ」
彩音はページをじっと見つめ、ゆっくりとうなずいた。
「なるほどね……。なんかさ、深いね。うち、テスト前とか『これ勉強して将来何の役に立つん?』とか思って病むことあるんだけどさ。将来のためだけに今があるんじゃなくて、今友達と放課後喋って、おいしいジュース飲んで『今日もしんどかったけど楽しかったー!』って思えることが、もうそれだけで大正解ってことでしょ?」
「……まさにその通りだよ。寺脇さん、君の解釈は本当に的を射ている」
郁夫は心からの感嘆を込めて言った。自分は知識としてテキストを掘り下げる「探求者」だが、彼女は提示された概念を即座に自分の現実と結びつけ、その手触りを感じ取る「観察者」だ。この二人が合わさることで、聖書の言葉がまるで生き物のように立体感を帯びていくのを感じた。
彩音は「えへへ」と照れくさそうに笑い、ネイルされた指先で机をトントンと叩いた。
「ねえ、吉岡くん。聖書ってさ、他にもこういう面白い話いっぱいあるの?」
「山ほどあるよ。愛についての議論もあれば、人間のドロドロした裏切り劇もあるし、理不尽な苦難にどう立ち向かうかみたいなハードな哲学もある」
「なにそれ、超気になるんだけど! 一人で読んでるの勿体なくない?」
彩音はパッと顔を輝かせ、胸を張った。
「決めた! 私たち、今日から『聖書研究会』結成ね!」
「えっ、研究会!?」
「そう! 吉岡くんが知識を掘り下げる『部長』で、私が現実的に解説する『副部長』。放課後、たまにこうやって聖書読むの付き合ってよ。マジで面白かったし」
郁夫は一瞬あっけに取られたが、すぐに心地よい温かさが胸に広がるのを感じた。
そこに甘い恋愛感情のようなものはなかった。しかし、未知なる真理の探求に向かって、異なる視点を持つ仲間と出会えたという、純粋で高潔な喜びがあった。
「いいよ、副部長。喜んで」
郁夫が微笑んで答えると、彩音も嬉しそうに「よろしくね、部長!」と応えた。
窓の外では、いつの間にか夕闇が深まり、一番星が静かに輝き始めていた。太陽の下にあるすべては空しいかもしれない。けれど、こうして誰かと言葉を交わし、真理の一端に触れる放課後のひとときは、間違いなく確かな輝きを放っていた。
二人の「聖書研究会」の探求の旅は、まだ始まったばかりだ。




