世界を包む大雨と、ひとつの箱舟
せいけん・第十話は、創世記第6章から8章にかけて描かれる「ノアの箱舟」の箇所を扱います。
非常に有名なエピソードなのでご存じの方も多いのではないでしょうか。
ぜひお楽しみください!
夏休みの補習期間も終わりを告げ、いよいよ夏本番の暑さが校庭を包み込む午後のひととき。夕陽が斜めに差し込む二年の教室には、三つの机が心地よい三角形を描いて並べられていた。
「よし! 改めて……日向くん、『せいけん』への正式入部、本当におめでとう!」
「おめでとー! 日向くん! これでウチら、名実ともに『三つよりの糸』結成だね!」
吉岡郁夫と寺脇彩音が、満面の笑みで拍手を送る。彩音の鮮やかなサマーオレンジのネイルが、夏の光を受けてキラキラと輝いた。
日向敦希は照れくさそうに太い首を掻きながら、白い歯を見せて爽やかに笑った。
「おう、サンキュー! 吉岡、彩音! 部活のあいまを縫っての参加になるが、この二人が作ってきた最高の空間に、俺も全力で食らいついていくからさ。よろしく頼むぜ!」
「ふふ、歓迎の言葉はこれくらいにして、早速本日の探求に入ろうか」
郁夫は柔らかく微笑み、机の上の革装聖書を愛おしそうに撫でた。彩音も自分のピカピカなマイ聖書を開き、敦希も郁夫から借りた聖書をその大きな手で丁寧に扱っている。
「今日のテーマは、創世記第6章から8章にかけて描かれる『ノアの箱舟』の物語だ。超有名なエピソードだけれど、非常にスケールが大きく、描かれているテーマも重い。だから今回も前編と後編の二回に分けて、じっくり探求していこうと思う」
「出た! ノアの箱舟!」
彩音の瞳がキラリと光る。「アニメとか映画でもよく見るやつだよね! 動物たちが二匹ずつ船に乗っていくやつ! 楽しそうな冒険ものってイメージあるけど……重いの?」
「そうなんだ。実はこの物語、スタート地点がすごく重たいんだよ」
郁夫は聖書に目線を落とし、静かに読み始めた。
『主は、地上に人の悪が増し、常に悪に傾くのをご覧になった。主は地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた』
朗読を聞いていた敦希が、太い眉をグッと寄せて腕を組んだ。
「……なぁ、吉岡。いきなり引っかかるんだが、質問していいか?」
「もちろん! どんな素朴な疑問でも大歓迎だよ、日向くん」
敦希は自分のたくましい手を見つめながら、探るように言葉を紡いだ。
「神様って、全知全能で完璧な存在なんだろ? なのに『人を造ったことを悔やんだ』って……それって神様自身が『失敗した』って認めて後悔してるってことなのか? 完璧なはずの神様が『後悔する』なんて、なんか変じゃないか?」
「鋭い疑問だね、日向くん!」
郁夫は胸を躍らせて大きく頷いた。
「全知全能の神がなぜ後悔するのか。そこは昔から多くの人が抱く素朴で、かつ本質的な疑問なんだ。ここで使われている『悔やむ』という言葉は、冷酷に『失敗作だから廃棄しよう』と切り捨てる意味じゃない。ヘブライ語のニュアンスでは、愛する者に裏切られて『心が引き裂かれるほど悲しむ』という感情を表しているんだよ」
「心が引き裂かれるほど……悲しむ?」彩音が呟く。
「そう。神様はロボットを作ったんじゃない。人間に自由な心を与えた。だからこそ、人間が互いを傷つけ合い、悪に染まっていく姿を見て、まるで親が我が子の落ちぶれた姿を見て胸を痛めるように、深く悲しまれたんだ。怒りというより、悲痛な愛の叫びなんだよ」
彩音はあごに手を当て、そっと息を吐いた。
「そっか……神様って上から目線で怒ってるんじゃなくて、傷ついてたんだ。なんか一気に身近に感じる……」
「そして神様は、地上を洪水によってリセットすることを決断される。でもね」郁夫はページをめくった。「その悪に満ちた世界の中で、ただ一人、神様の目に適う人物がいた。それが『ノア』だ」
「ノアさん登場!」彩音が指を立てる。
「ノアは正しく、誠実な人だった。神様はノアにこう命じられた。『ゴフェルの木で箱舟を造りなさい。内部も外部もタールで塗りなさい』と。そして巨大な船のサイズや構造まで細かく指示されたんだ」
ここで、これまでじっと話を聞いていた敦希が、ラグビー部ならではの身体感覚を研ぎ澄ませて身を乗り出した。
「なぁ吉岡、その『箱舟』って、どんな形をしてるんだ? 『船』っていうくらいだから、舵とか帆とかスクリューみたいなのがあるのか?」
「いい質問だね!」郁夫は嬉しそうに目を輝かせた。
「実はね、聖書に書かれている箱舟のスペックは、長さ約135メートル、幅約22.5メートル、高さ約13.5メートル。ものすごく巨大な長方形の『箱』なんだ。そして驚くべきことに……この箱舟には『舵』も『帆』も『櫂』もついていないんだよ」
「ええっ!?」
彩音と敦希の声がハモった。
敦希は目を丸くして手を広げた。「舵も帆もない!? それじゃあ自分で行き先をコントロールできないじゃねえか! ただ波間に漂うだけの巨大な木箱ってことか!?」
「その通りなんだ、日向くん」
「ヤバ……それ怖すぎでしょ!」彩音は鳥肌が立ったように自分の腕をさすった。「どこに流されるかも分かんないんだよ? 暴風雨の中で舵がない船に乗るなんて、絶望的じゃん!」
郁夫は二人の素朴な驚きを優しく受け止め、深く頷いた。
「二人の言う通り、人間の感覚からすれば恐怖でしかないよね。でもね、これこそがノアの箱舟の最大のメッセージなんだ」
「メッセージ……?」
「舵も帆もないということは、『自分の力で船を動かすことを完全に手放す』ということなんだよ。行き先を決めるのはノアじゃない。風の吹くまま、波の進むまま、すべてを神様の手に委ねるしかない構造になっているんだ」
その言葉を聞いた瞬間、敦希の表情がガラリと変わった。グランドで何度も風や雨と闘ってきたアスリートの目が、鋭く輝く。
「……なるほどな。自分の力でコントロールしようとするのをやめる、か」
敦希は自分の大きな拳をそっと解いた。
「俺たちラグビーでもさ、試合中に悪天候で泥まみれになって、作戦も戦術も通用しなくなる瞬間があるんだ。そういう時、無理に自分たちの力で試合を支配しようと焦ると、逆にミスを連発して自滅する。最後は『自然の状況を受け入れて、流される中で今できることに集中する』しかないんだよな。ノアの箱舟って、究極の『委ねるトレーニング』なんだな」
「日向くん……すごすぎるよ」郁夫は心からの感嘆の息を漏らした。
「探求者」の郁夫が提示した古代のスペック情報から、「実践者」である敦希が見事に『人間の自己執着の手放し』という真理を汲み出したのだ。
「日向くんの言う通りだよ。人間は自分の人生の『舵』を必死に握りしめて、自分の思い通りにコントロールしようとする。でも、大洪水のような人生の大暴風雨の中では、自分の舵なんて何の役にも立たない。ノアは、ただ神様を信頼して、箱舟という『約束の場所』の中に身を置くことだけを選んだんだ」
彩音はマイ聖書の『箱舟に入った』という記述をじっと見つめ、サマーオレンジの爪でそっとなぞった。
「ねえ、吉岡くん。箱舟ってさ……ただの木でできた箱だけど、そこに人間と動物たちが一緒に入って守られたんでしょ? これって、神様が作ってくれた『安全な避難所』なんだね」
「そうだね、彩音さん。『観察者』である君の言う通りだ。箱舟は、裁きの嵐の中で与えられた唯一の『恵みの部屋』なんだ。そしてノアが家族と動物たちを乗せて箱舟に入ったとき、聖書にはすごく印象的な一文が書かれている」
郁夫は聖書のテキストを指さした。
『主は、彼の後ろの戸を閉ざされた』
「……神様が、自分で戸を閉めたの?」彩音が低く尋ねる。
「そうなんだ。ノアが自分で鍵をかけたうんぬんじゃなく、神様ご自身が外から戸をピタッと閉めて、彼らを嵐から守り、包み込まれたんだよ」
「優し……」彩音は胸に手を当てて微笑んだ。「『もう大丈夫だよ、ここは絶対安全だからね』って、神様が守ってくれたんだね」
「そうなんだ。そして、いよいよ天の窓が開かれ、地上に四十日四十夜の大雨が降り注ぐことになる……」
郁夫がテキストを閉じると、教室には静かな夕風が吹き抜けていった。
悪に満ちた世界への深い悲しみ。
自分の舵を手放し、神に委ねる箱舟。
そして、神様ご自身の手で閉じられた安全な戸。
三人がそれぞれの視点から紡ぎ出した気づきは、大洪水のプレリュードをただの恐怖の物語ではなく、深い愛と信頼の物語へと鮮やかに塗り替えていた。
「いやぁ……前編だけでめちゃくちゃ深かったぜ」敦希は満足そうに息を吐き出し、背もたれに体重をかけた。
「俺、ノアの箱舟ってただの生き残りゲームだと思ってたけど、自分の『力み』を捨てて信頼することを教えられた気分だわ」
「ふふ、日向くんがいてくれて本当に良かった。僕一人じゃ、そんな体育会的な『委ねるリアル』には辿り着けなかったよ」郁夫は感謝を込めて言った。
「ウチも! 神様が戸を閉めてくれた話、マジでジーンときたなぁ」彩音も嬉しそうにマイ聖書を鞄にしまった。
「さて」郁夫は二人を見回した。
「降り続く大雨の中、漂う箱舟。そして水が引いたあと、世界には一体どんな希望が待っているのか……。後編は、次回じっくり探求しよう!」
「おう! 次も楽しみにしてるぜ、部長!」敦希が力強く拳を突き出した。
「楽しみー! 待ってろよ後編!」彩音も弾ける笑顔で答えた。
夕闇が迫る教室で、しっかりと組み合わされた「三つよりの糸」。
ノアの箱舟が運ぶ深い真理を胸に、三人の探求はどこまでも豊かに続いていくのだった。




