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てのひら無双 ~精霊に愛された人形師ときゃわわぬいぐるみ~  作者: 鮪野登呂介
王都アルヴェリア編

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誕生と静寂

段階的に怖くなる話が書きたかったです。一気に最強の敵が来るより「あ、これ……やばい」がじわじわ来るほうが怖い。今回はそういう回。リオネル殿下が倒れます。ごめんなさい。

老人は、笑っていた。


宝剣の光が中庭を照らす中、教祖はその刀身を一瞥し、それからカエデを見た。何かを確認するような目だった。


「精霊の娘か」


声は穏やかだった。老人の、普通の声。それがまだ、人間の声だった。


「……」


カエデは答えなかった。


しろが教祖とカエデの間に入った。低く、腹の底に響く唸り声。ぽぽが上空から教祖を見下ろしている。ホークが両翼を広げた。三体が、一人の老人を取り囲む形になった。


「精霊に好かれる娘は珍しい」老人は続けた。「だが今夜はその精霊たちに退いてもらわなければ」


「退かない」


カエデは、自分が喋っていることに少し驚いた。でも、声は出た。


「退きません」


老人が笑みを深めた。その目の奥の、侵食の色が——また、濃くなった。


---


ここで、変化が始まった。


最初は、ほんの小さな変化だった。老人の右手が、わずかに震えた。意志に反するような、細かい震え。老人自身も気づいているのか、静かに自分の右手を見下ろした。


「……もう少し待て」と老人は言った。


カエデには聞こえた。でも誰かに言ったのではなかった。内側の何かに、語りかけているような声だった。


リオネルが一歩踏み出した。剣を構えたまま。


「終わりだ」


「そうですね」老人は言った。「始まりです」


老人の右手が、ゆっくりと法衣の合わせに触れた。指がかかった。引いた。


法衣が、開いた。


---


中庭が静まった。


老人の体が露わになった。法衣の下の、薄い老いた体。それが問題ではなかった。


問題は——その体中に刻まれた、紋様だった。


首から腹、腕から指の先まで。皮膚の上に、血で刻まれた文字が這っていた。ただの入墨ではない。それぞれの線が複雑に絡み合い、精密な幾何学模様を形成していた。何十年もかけて描き続けたような、緻密さだった。


リオネルが息を止めた。


「魔術陣は……」


「ここにあります」老人は静かに答えた。まるで自分の体の話ではないように。「最初から、ここにありました」


しろの唸り声が、低くなった。


教祖自身が、触媒だった。


召喚の陣を神殿の床に刻むのではなく、自分の体に刻み込んだ。何十年も前から。この瞬間のために、準備を続けていた。


---


「ヴァルク殿下」


老人は、中庭の端を向いた。その先に——ヴァルクが立っていた。


柱の陰から出られずにいた。出るべきか、逃げるべきか、その判断が下せないまま立ち尽くしていた。


老人の目が、ヴァルクを捉えた。


「あなたに約束した通りになりますよ」老人は言った。「王位は、あなたのものになります」


ヴァルクは答えなかった。答えられなかった。


老人の体の紋様が、光り始めていたからだ。皮膚の上の血文字が、内側から熱を帯びて、じわりと赤く発光している。それは美しかった。美しくて、おぞましかった。


「俺は……」


ヴァルクの唇が動いた。震えていた。


「こんなものを……呼び込もうとしていたのか」


---


老人の体が、揺れた。


重心が崩れた、という動きではなかった。それは——体の内側で、何かが動いた、という揺れだった。老人の背筋が伸び、頭が仰け反り、喉から声にならない音が出た。


痛みの声ではなかった。


もっと奇妙な音だった。老人の体が何かに押し広げられているような、入り口が狭くて通りきれないような——歪んだ、音だった。


しろが跳んだ。


迷いなく、まっすぐに。老人の体に向かって疾走し、風の刃を解き放った。着弾した。確かに着弾した——のに、老人の体はびくともしなかった。紋様が光を増して、しろの攻撃を吸い込んだ。


しろが弾かれて、石畳に落ちた。


「しろ!」


カエデの声が出た。しろはすぐに立ち上がった。傷はない。でも、効いていなかった。紋様が吸収した。攻撃のエネルギーが全部、内側に取り込まれていた。


ぽぽが「ぽっ……!」と鳴いて横から突っ込んだ。炎が直撃した。紋様が揺らいだ——一瞬だけ揺らいで、また光を増した。ぽぽも弾かれた。


ホークが電光を走らせた。老人の体の周囲の空気が焼けた匂いがした。紋様が青白く明滅して——吸い込んだ。


三体、全員が通じなかった。


触媒の体に刻まれた紋様は、精霊の力そのものを喰らっていた。


---


老人の目が、変わった。


完全に、変わった。


虹彩の色が消え、白目が黒く塗りつぶされ、瞳孔だけが細く縦に光っていた。先ほどまで「人間の目ではなくなりつつある」だったものが——今、完全に人間の目ではなくなった。


でも、まだ老人の口は動いた。老人の、声で。


「もう、少しだけ……」


その声に、何かが混じり始めていた。老人の声の下に、別の声が重なり始めていた。周波数が違う、人間の声帯からは出せないはずの、低い共鳴音。


「もう——少し——」


リオネルが踏み込んだ。


剣が、光った。宝剣の刀身が白く輝き、教祖の紋様に向かって振り下ろされた。斬撃が当たった。紋様が揺らいだ。一瞬だけ——揺らいだ。


宝剣には、効く。効いている。


でも、それは一瞬だった。


紋様が揺らいだ次の瞬間、教祖の右腕が動いた。人間の速度ではなかった。老いた腕が、リオネルの胸板に叩きつけられた。


音がした。


リオネルが、飛んだ。


石柱に背中から激突して、石柱が大きくひび割れ、そのままずるりと石畳に落ちた。宝剣が、手から離れていた。


「——殿下!」


誰かが叫んだ。カエデだったかもしれない。ルーチェだったかもしれない。


宝剣が石畳を滑った。月明かりの中で、ゆっくりと、停まった。


---


老人が、宝剣を見た。


その目は、もう老人の目ではなかった。


手を、伸ばした。

リオネル殿下が倒れました。書きました。心が痛いです。でも必要な場面なので仕方ない。「最初は、まだ倒せると思っていた」という答えが最後に来る構成にしました。次がいよいよ本番です。

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