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てのひら無双 ~精霊に愛された人形師ときゃわわぬいぐるみ~  作者: 鮪野登呂介
王都アルヴェリア編

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激動

さてっさて!今回ついに激動の王国編も佳境に向かってスタートです!

 最初に動いたのは、しろだった。

 声もなく、前置きもなく。カエデの腕の中から石畳へ飛び降りたその瞬間、白い毛並みが夜の闇に溶けるように伸びた——いや、広がった。

 ぬいぐるみのサイズではなくなっていた。

 カエデの腰あたりまで届く大きな白い狼が、今、大聖堂の前庭に立っていた。首の毛が逆立ち、蒼の瞳に光が満ちている。低く、腹の底に響く唸り声は言葉ではなかったけれど、意味は明確だった。


「——ここを通りたかったら私を超えることだな」

「……っ」

 カエデは息を止めた。

 素体強化。前日に縫い込んだしろの縫い目に、精霊石の粉末を一粒ずつ縫い込んだ、あの作業。

 効いている。こんなにも、効いている。


「カエデ」


 低い声がした。振り返る前に、マントの気配が背後を覆った。第一王子・リオネルだ。その手には——長い鞘に収まった、一振りの剣があった。


「下がっていろ」


 命令ではなかった。確認だった。


「……はい」


 カエデは一歩、後ろへ引いた。それが今、自分にできる一番誠実な選択だと知っていたから。


 大聖堂の門扉は、内側から術式で封じられていた。

 石に刻まれた紋章が赤く光り、近づく者の足を見えない壁のように押し返す。騎士たちが二度試みて、二度とも弾き飛ばされた。魔法使いが解除を試みたが、術式は複数の層で重ねられており——外側からでは糸口すら摑めなかった。


 そこへ、ぽぽが飛んだ。


 赤色に包まれた炎のドラゴン。小さな体が空に弧を描いて、門扉の中心へまっすぐ突っ込んでいった。衝突の瞬間、術式の紋章が逆流した。外に向かって放たれるはずだった反発の力が、ぽぽの炎に絡め取られ、そのまま内側へ押し戻される。


 紋章が、爆ぜた。

 轟音。石の破片が夜気を切り裂いた。門扉が内側に倒れ、もうもうと煙を上げる中、ぽぽは平然と舞い降りてきた。羽をぱたぱたさせて、さも当然というように。


「ぽぽ……!」


 カエデが思わず声を上げると、ドラゴンのぬいぐるみは振り返って、鳴いた。


 のんびりスローライフ、予定は未定。カエデは遠い目をしながら、でも、足を踏み出した。


 中庭には、六人の黒フードが待ち構えていた。

 術式の陣が地面に描かれている。精霊を縛る結界。人の動きを阻む呪縛の網。積み重ねた準備の、それが全てだったのだろう。


 しかし。


 しろは一陣の風になった。

 地を蹴る音がした。次の瞬間にはもうそこにいない——神官の一人が杖を構えるより早く、白い影が足をすり抜け、陣の核心を爪で引き裂いた。


 術式が悲鳴を上げるように揺らいだ。歪んだ。

 崩れる前に、もう一撃。今度は反対側から。しろは陣の外周を走りながら、繋ぎ目を正確に、次々と断ち切っていった。まるで縫い目を解くように——そう、縫い目を解くように。


(あ、と、カエデは思った。しろは知ってる。縫い目がどこにあるか。どこを解けば全体がほどけるか)

 ぽぽが上空から火を落とした。小さな炎だったが、狙いは正確だった。残った陣の補強紋章、四箇所。一つ、二つ、三つ——


 四つ目が砕けた瞬間、神官たちの足元の術式が完全に消滅した。

 重圧が消え、空気が戻ってくる。

 リオネルが剣を抜いた。


 宝剣の刀身は、白かった。

 魔力を帯びた刀身が月光を返し、中庭を静かに照らした。装飾はない。余分な意匠もない。ただ真っ直ぐで、古く、重い——それだけで十分だと言うような剣だった。


「退け」


 リオネルの声は低く、静かだった。騒がしくない。脅しでもない。ただ、事実を告げるような声だった。「王命だ。その陣も、その信仰も、今この場では通じない」


 神官たちが後退した。恐怖ではなく——宝剣の光に、何かを感じ取ったように。

 一人が、震える声で叫んだ。


「……教祖さまを! 教祖さまをお呼びしろ!」


 沈黙があった。

 それから、扉が開いた。

 大聖堂の奥の扉。石造りの重い扉が、音もなく、内側から押し開けられた。



 現れた人物は——老人だった。

 白い法衣。薄い白髪。皺の刻まれた、小さな体。初めて見た者ならば、穏やかな聖職者だと思っただろう。



 カエデは、見た瞬間に、息が止まった。

 顔ではない。体でもない。

 目だった。

 老人の目が——人間の目ではなかった。


 虹彩の色が、変わっていた。本来の色の奥に、何か別のものが滲んでいた。墨を水に垂らしたときのような、ゆっくりとした、でも確実な——侵食の色。瞳孔の形が、ほんの少しだけ、歪んでいた。縦に、細く。

 人の目ではなかった。

 でも、まだ完全に人ではないものの目でもなかった。

 その中間にある、何か。その境界線の上に今まさに立っているような——そんな目だった。


「……ああ」


 老人は、宝剣を見た。その口元が、ゆっくりと弧を描いた。


「来てくれたか。第一王子殿下」


 声は穏やかだった。普通の、老人の声だった。それが余計に、カエデの肌を粟立たせた。


「宝剣さえあれば……もう少しだ」


 老人は呟いた。独り言のように。誰かに向けた言葉ではなかった。まるで長い計算の、最後の一手を確かめるように。


「もう、少しだけ」


 リオネルが、剣を構えた。

 微動だにしない。表情も変わらない。ただ、その瞳が老人の目を捉えて——離れなかった。


「渡さない」

 静かな声だった。


「この剣は、お前たちのためにあるのではない」

 しろが低く唸った。ぽぽが翼を広げた。



 老人は、まだ笑っていた。

 その目の奥で、何かが、ゆっくりと——動いた。


 カエデは戦わなかった。

 その場に、ただ、いた。

 しろとぽぽの背を見ながら、リオネルの横顔を見ながら、老人の目の色を見ながら——針も持っていない、糸も持っていない、武器は何もない手を、静かに胸の前で握った。

 怖かった。

 でも、逃げなかった。

 ここにいることが、今の自分にできる唯一のことだと——なぜかそう、思えたから。

皆様お愉しみただ桁でしょうか!教祖とは何者?リオネルはどうなっちゃうの?こうご期待!

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