結婚!?
セレナさんの話をするのが好きです。静かな人を書くのって、実は会話の行間で勝負なんですよね。今回、セレナさんが「心強いので」と言う場面が書きたくて書きたくて、その一行のためにこの話があります。それから侯爵閣下も少し出てきます。相変わらずです。
ルーチェの一件から三日が経って、王都はまた普通の顔をして朝を迎えた。
石畳に朝の光が落ちて、馬車の音が遠くから届いて、どこかの屋台から焼きたてのパンの匂いがそっと漂ってくる。世界というのは不思議なもので、どれだけ物騒なことが起きていても、翌朝には何事もなかったように明るい顔をする。エルミナも王都も、その点では案外似ていた。
カエデは朝のお茶を飲みながら、今日の依頼をどの順番でこなすかを考えていた。
「カエデさん、今日も針を持ちながらお茶を飲んでおられますが」
ホークが窓際から言った。
「持ってない」
「さっきまで持っておられましたわ」
「今は持ってない」
「それはそうですわ。カップを持っておられるので」
正論だった。実は昨日うっかり針を指にぶっすりと突き刺してしまい、それをホークにとがめられたのだ。
ぽぽが肩の上で「ぽっ?」と首を傾けた。
「なんか気になることあるのか?」
「……三日前のことをまだ考えてる」
「ルーチェのこと?」
「ルーチェのことと、それから全体的に」
「全体的に、ってどういう意味だ」
「うまく言えたらいいんだけどねー」
懐の中でしろが、静かに「……状況が動いている」と言った。それ以上は言わなかった。でも、その一言がなんとなく全てを言っているような気がして、カエデはまたお茶を飲んだ。
状況が動いている。王城に教団の影が及んでいて、第二王子が揺れていて、ルーチェが路地で脅された。それらは全部、繋がっている。繋がっているのに、カエデには何もできることがない。仕事はある。針もある。でも、何かが宙に浮いたまま、着地していない感覚だった。
「ぽぽっ!」
ぽぽが急に元気よく鳴いた。
「なに」
「ルーチェが来た!」
廊下から足音がして、扉が開いた。ルーチェが花束を抱えて入ってきた。今日も上機嫌で、前のことをまるで引きずっていない顔をしていた。それがルーチェだ、とカエデは毎回思う。
「おはよ。あ、お茶いい?」
「どうぞ」
「ぽぽちゃん、この前はありがとね」とルーチェはぽぽに向かって言いながら、自分のカップにお茶を注いだ。
「いいんだぞ!」
「また頼むかもしれないけど、よろしく」
「ぽっ! 任せとけ!」
二人のやり取りを聞きながら、カエデは少し肩の力が抜けた。宙に浮いていた何かが、少しだけ着地した気がした。大したことじゃないのかもしれない。ルーチェがお茶を飲みに来て、ぽぽが胸を張って、しろが懐の中で静かにしている。それが、今ここにある。
それで今日は十分かもしれない、とカエデは思った。たぶん。
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セレナが来たのは、昼を過ぎた頃だった。
いつも通り静かな登場だったが、今日は侍女を伴わずにクロードだけを連れてきただった。珍しいことで、カエデは思わず玄関で「いつもの人たちは」と聞いてしまった。
「少し用を頼んでいます」とセレナは答えた。「二人で話したいことがあって」
応接室に案内して、お茶を出した。ルーチェが気を利かせて、さりげなく部屋から出ていった。こういうときのルーチェの読みは、いつも早い。
ホークは窓際で羽の配置を整えていた。ぽぽは作業台の端に移動した。しろは懐にいる。三体とも、空気を読んでいた。精霊というのは、つくづく空気が読める。
「リオネル殿下から、話を聞いていますか」とセレナが切り出した。
「はい。王位継承の儀のこと、それから教団のこと」
「そうですね」セレナはカップを両手で包むように持って、少し間を置いた。その間が、どこか大切なものを丁寧に扱っているような、そういう間だった。「一つ、追加でお伝えしたいことがあります」
「なんですか」
「継承の儀に合わせて、わたしとリオネル殿下の婚約が正式に発表される予定です」
春の陽だまりのような、静かな声だった。
カエデは少しの間、その言葉の意味を飲み込んでいた。
「……おめでとう、ございます」
「ありがとうございます」セレナが、ほんのわずかに口元をやわらげた。本人が思っているより、その笑みは温かい。「公爵家からの縁談は、これで自然な形で」
「なくなる」
「はい」
「セレナさんが、自分で処理した」
「処理、という言葉はあまり好きではありませんが」セレナが少し首を傾けた。「……まあ、そういうことになりますね」
「すごい」とカエデは言った。思ったことをそのまま言った。「その、ちゃんとすごいと思います」
セレナがまた少し笑った。今度は先ほどより、もう少し柔らかい笑みだった。
「カエデさんがそう言ってくれると、なんだか気が楽になりますね」
「私が言うからですか」
「あなたが言うからです」
懐の中のしろが、ほんのわずかに動いた。ぽぽが「ぽっ」と小さく鳴いた。ホークが窓の外を見たまま「素敵な話ですわ」と言った。この三体は、こういうときに存在がほどよい。
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「それで」とセレナは続けた。「継承の儀に、カエデさんにも来ていただきたいのです」
カエデは思わずカップを持つ手を止めた。
「……なんで私が」
「心強いので」
セレナが、珍しく即答した。いつもは言葉を選ぶ人なのに、今日はまっすぐだった。
「……心強い」
「はい」
「私が」
「あなたが」
カエデは少し考えた。いや、あまり考えなかった。セレナが「心強い」と言うとき、それは嘘じゃない。この人はそういう嘘をつかない。だから余計に、断り方が見つからなかった。
「……これは巻き込まれるやつですね」
「巻き込む、という表現は」
「あ、すみません」
「いえ」セレナが少し考えた。「……まあ、そういうことになりますね」
先ほどカエデが言ったのと同じ返し方だった。気づいて二人で少し笑った。こういうことが起きると、この人とは案外気が合うのかもしれない、とカエデは思う。気が合う、というより、お互いに妙なところで正直なのかもしれない。
「ルーチェも連れていっていいですか」
「もちろんです」
「それなら、行きます」
「ありがとうございます」
セレナが、またあの静かな笑みを浮かべた。王都一の美女だというのに、笑うとどこか、近所のお姉さんみたいな顔になる。クロードが見たらどう思うだろう、とカエデはふと思ったが、口には出さなかった。
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セレナが帰ってしばらくして、廊下から重たい足音がした。
ノックが二回。開く前に、カエデには誰かわかった。このノックには覚えがある。
「……入ってください」
侯爵が入ってきた。いつも通りの複雑な顔をしていた。セレナの婚約が正式に決まった、ということを、もう知っているのだろう。知っていて、それでもその複雑な顔をしている。
「……セレナから、聞いたか」
「はい。さっき」
「そうか」
侯爵はしばらく部屋の中を見渡した。作業台の上の依頼書。針と糸。窓際のホーク。肩の上のぽぽ。懐から少し顔を出したしろ。部屋の隅に置かれたルーチェの花。
「……賑やかだな」
「賑やかです」
「セレナがここで楽しそうにしていたのも、まぁ…わかる気はする」
カエデは何も言わなかった。
「……儀式に、お前も来るか」
「来てほしいと言われましたので是非行かせていただこうかなと」
「そうか」侯爵が、一つ頷いた。「ならよかった」
それだけ言って、出ていこうとした。扉に手をかけたところで、振り返らずに言った。
「……頼む」
「何を、ですか」
侯爵が少し止まった。それから、やっぱり振り返らずに答えた。
「セレナを」
扉が閉まった。
カエデは少しの間、閉まった扉を見ていた。
ぽぽが「ぽっ……」と小さく鳴いた。しろが懐の中で、短く「……彼も大変なのだろう」と言った。ホークが羽を一枚、そっと整えた。
「……わかりました」
誰もいない部屋に、カエデはそう言った。
聞こえていなくても、伝わればいいと思った。こういうことは、たぶん伝わる。根拠はない。でも、そう思った。
侯爵閣下が「頼む」と言えるようになりました。成長してますね。セレナさんの「心強いので」という一言、書けて満足しています。カエデさんが断れないの、わかります。私も断れないと思います。次の話からいよいよ佳境です。




