戦の足音
トゥーラーン軍、動く。その数12万。実にイスファーン軍の3倍の規模である。彼らは3つの部隊に分かれ、イスファーンが拠点とするラガシュを目指していた。
3つの部隊のうち最も兵力が多く、精鋭が集められているのは第一軍だ。6万の兵から成り、エリマイスの猛将バムシャードが率いるこの部隊は、その高い戦闘力を期待されラガシュを攻める主力部隊であると目されていた。バムシャードの幕僚の一人としてアフシンが加わっていたことも、特筆に値するであろう。
第二軍は全てアルカディア兵で構成され、指揮を執るのもアルカディア将ペルディッカスである。3万を数えるこの軍勢は、第一軍より東側を進軍していた。
第三軍を構成するのはエリマイスのアーブティン将軍率いる3万の軍勢である。エリマイス兵と傭兵、ハカーマニシュの降伏兵から成る混成軍だ。第三軍は第一軍より西側を進軍し、カリアやパルティアからのイスファーンへの援軍を警戒する任務も課せられていた。
分散して進撃してくるトゥーラーン軍に対し、イスファーンは各個撃破の誘惑に駆られた。しかし現実を見れば、イスファーンの手元にあるのはそのほとんどが歩兵だった。自ら育成した「狼部隊」をはじめとする精鋭の騎兵はその大半がハマトの砂漠で失われていた。機動力が必要とされる電撃的な各個撃破作戦は現実的ではなかった。
イスファーンはラガシュの要塞化に力を注いだ。4万の兵を総動員して壕を深くし、土塁を高くし、要所要所に櫓を増設した。落とし穴には先を尖らせた杭を打ち込み、柵を張り巡らせ、騎馬隊の突撃を止めるための綱や逆茂木を設置し、至るところに投射兵器を据え付けた。トゥーラーン軍の到着を3週間後と予測し、将兵は必死に突貫工事に励んだ。
さらに割けるだけの斥候を派遣して情報収集あるいは偽の情報を流すことによる撹乱にも余念がなかった。
「さて、後はどんな仕掛けをしてやろうか」
イスファーンの悪戯めいた発言に、平素は謹厳なオミードが思わず吹き出した。
「楽しそうですね、閣下」
「ああ。状況は少しも愉快ではないはずなのだがな。不謹慎なことだ」
イスファーンは他人事のように答えた。
事実、イスファーンは一種の高揚感を味わっていた。たしかに狼部隊をはじめとする主力軍の壊滅は痛手だ。キールスやオーランといった有能な将軍たちの死は取り返しのつかない損失だ。アフシンやミラードの裏切りには腸が煮えくり返るような怒りが湧いてくる。だがそれでもなお、イスファーンはこの戦いを楽しんでいた。
何故か。それは、この戦いが今までとは大きく違うものだからだ。
(俺は今まで、格下の相手としか戦ってこなかった)
近くはハマト、レモラ人、ケメス。数年前に遡ればオイラートの小部隊やヒュルカニア。いずれも圧倒的な兵力を以て臨んだ戦いであり、勝って当たり前の戦いだった。ハマトに敗れた方が異常なのだ。トゥーラーン戦役の勝敗を分かったパライタケネの戦いも他の敵に比べれば兵力差は小さかったとはいえ、やはりイスファーン軍が上回っていた。カユーマルス軍の半数は寄せ集めだったことを考えれば、戦力的には大きな差があったと言ってもいい。
比べて、今回数的劣勢を強いられているのはイスファーンの方である。敵は実に4倍、主力のバムシャード隊だけでもイスファーン軍を凌駕している。今までは勝って当たり前の戦いで勝利を収め、稀代の名将と讃えられてきた。だが今回は負けて当たり前の戦いで勝たねばならない。それが、イスファーンの覇者としての血、いや単純な武人としての血を燃え上がらせるのである。
(存外、俺も度しがたい男だな)
イスファーンは苦笑した。
だが、3週間を過ぎてもトゥーラーン軍は姿を現さなかった。イスファーンは時を無駄にせず要塞化をさらに進め、より多くの情報収集に努めた。その結果、トゥーラーン軍の足並みが様々な要因により乱れていることがわかった。
第一軍についてはその軍自体に特に支障はないのだが、第二軍及び第三軍と足並みを揃えようとして遅れているという。
アルカディア兵で構成されている第二軍の動きは奇妙に鈍重だった。補給の難航が遅れの原因だとしているが、どうもただの口実のようだ、という報告だった。
アーブティン率いる第三軍の進撃を妨げているのは、現地の領主や未だイスファーンに忠誠を誓う守備隊だという。個々の兵力は多くはないが、城塞や都市に立て籠って頑強に抵抗し、あるいは弱点を見つけては少数の部隊で奇襲をかけ、アーブティン軍を悩ませているということだった。これはイスファーンにとって意外だった。守備隊の隊長はともかく、現地の領主と言えばイスファーンがその利権を奪い、また重用もしてこなかった者たちである。それが何故、イスファーンのために戦うのか。
「一つには、あえて言葉を飾らずに申し上げればやはりエリマイスよりはパルティアの方がましだからでしょう」
情報将校は言う。ハカーマニシュ貴族にとって、属国は格下の存在である。だがトゥーラーンのことはさらに格下、野蛮な国家として蔑視している。それになんといっても属国は味方ーあるいはハカーマニシュ貴族の感覚からすれば臣下かもしれないがーであり、トゥーラーン三国は伝統的な敵である。エリマイスよりパルティアに好感を抱くのも当然と言える。
「また、彼らの中にはハカーマニシュ、あるいはパルティアと言うよりも、閣下を慕っている者も少なからずいるとのことです」
「俺を?」
「はっ。なんでも話は先年のトゥーラーン軍侵攻に遡るそうにございます。領主たちがトゥーラーンの大軍との戦いに絶望しかけていたまさにその時、精兵を率いて現れたのが閣下でした。領主たちは心から感謝し、また感激したようです。今、閣下が苦境にあると聞き、当時の御恩を返さんと奮闘しているとのことでした」
「なんと…」
先に述べた通り、今アーブティン軍に捨て身の抵抗を試みているのはイスファーンが冷遇してきた者たちである。イスファーンの驚きは並大抵のものではなかった。
「ふふ…。重用してきた者どもが裏切り、冷遇してきた者たちが忠誠を尽くす、か。世の中とはわからんものだな」
俺もまだまだ世を知らぬ。イスファーンは僅かに自嘲を込め、小さな笑いを漏らした。
この時、イスファーン30歳。パライタケネの戦いから7年の月日が流れていた。パルティアとエリマイス、すなわちイスファーンとカユーマルスの再戦は刻一刻と迫っている。




