ラルサ脱出
「閣下、ハマト兵はかなり数が少なくなっています」
オミードの報告にイスファーンの目がぎらりと光った。
「おそらく、友軍が捕捉されたのだろうな」
ラルサにイスファーンが隠れていることはハマト軍も察していよう。にも関わらず城内の兵を減らすとなれば、先に潰すべき獲物が現れたということだ。そしてそれは、ハカーマニシュ軍以外ではあり得なかった。
友軍の不幸はイスファーンには好機だった。動くならば、今しかない。これがただ単にイスファーンを誘き出すための罠である可能性も否定できない。だが、動くしかないのだ。動かなくとも、いずれ発見されることは目に見えている。座して敗北を待つ。それはイスファーンの望むところではなかった。
「警備の兵を切り殺して服を奪い、ハマト兵に成り済ますというのはどうでしょう?」
「俺もそれは考えた。だが、ハマト兵に成り済ましたところで容易く外に出られるものだろうか?将校ならともかく、一般兵が命令もなく門を出ようとすれば、見咎められるだろうな」
「おっしゃる通りです…」
オミードは力なく項垂れた。その瞬間、イスファーンの脳裏にある考えが閃いた。
「ここは一つ、騒ぎを起こしてやるとしよう」
ある牢番の男はその日、深夜の警備の任についていた。目を擦り、傍らの同僚と眠気覚ましの会話を続けている。
「なんでえ、おまえ、あんなののどこがいいんだよ?」
「へっ。後腐れしねえ酒場女だからな」
「にしちゃあ、ずいぶん入れ込んでるじゃねえか。え?」
所詮は牢番である。会話の内容は品のないものだった。
不意に同僚がうっと呻く。なんだ、と振り向こうとして、男もまた己の喉から血が噴き出すのを感じた。気泡混じりの血がゴボゴボと溢れ、息ができなくなり、地面に倒れ伏す。最後に見たのは、覆面とマントで全身を覆い、手に血濡れた短刀を持った男たちの姿だった。
囚人たちが脱走した。それも、大量に。ラルサ市内は大混乱に陥った。
人家に押し入り、これまでの鬱憤を晴らそうとする者がいる。武器を奪い、兵士に襲いかかる者がいる。戯れに火をつけるならず者もいる。
だが最も多いのは、市門に殺到し一刻も早くラルサを出ようとする一団であった。城兵は必死に押し止めようとするが、武装した囚人たちの数は門を守る兵の数を遥かに上回っている。加えて、明らかに何者かの指揮下で動いており、妙に統制が取れていた。遂に最後の兵が斬り殺され、市門が押し開けられる。囚人たちが殺到し、門からはどっと人の群れが溢れ出した。
「オミード!ついてこい!」
群衆の中から、20騎程が駆け出す。先頭を駆けるのはいかにも武人といった精悍な顔つきの男である。少し遅れて、隻眼の若者が続く。
「他の兵はよろしいのですか?」
「かわいそうだが、歩兵に合わせてやることはできん。士官や将校を何人か救い出せただけでも、よしとせねばな」
そう言ってイスファーンは馬を走らせた。
イスファーンの作戦は、緻密でも何でもないものだった。牢獄に忍び込んで巡回中の兵や牢番を殺し、鍵を奪って囚人たちを解放する。その中には戦闘で捕虜となったハカーマニシュ兵も数百人おり、彼らを中核とした部隊で市門を襲い強引に突破したのだ。自身とオミードの仲間たち、牢破りの際に発見した将校らの馬は、馬屋から盗んだものだ。混乱を広げるために、自分たちが乗る以外の馬も全て解き放っておいた。
「後は南部方面軍に合流するだけですな」
「ああ、そうだな」
やっとハカーマニシュの地を踏める。だがその思いは複雑だった。行きは18万、帰りは20騎。史上稀に見る惨敗である。当然権威は失われ、軍の再建にも多大な労力を要するだろう。ここ数年の努力が全て、水泡に帰したのだ。それを取り戻すのには、どれほどの時がかかるだろうか。
だが、とにもかくにもハカーマニシュ本土に近づいたのだ。まずはそれを喜ぶとしよう。自分に言い聞かせるように、イスファーンは心の中で言った。
だが状況はイスファーンが考えている以上に悪化していた。それを未だに知らぬイスファーンは幸福でもあり、また不幸でもあった。




