(5)
「千の涙と百の嘆きが零れたとき、かの神が穢れ切った魂を喰らいに来る。『死』と『裁き』と『浄化』を司るその神を、あなどることなかれ」
オシリスは一人呟くように、けれど静かすぎるこの部屋にその声はよく通る。
有名なお伽話のワンフレーズ。
どんな悪人でもその神の名は知っているくらいに、世界に浸透している話。
けれどこの話がお伽話ではないということを知っている人間は、ほとんどいない。
『死』と『裁き』と『浄化』を司る、オシリス神。
その力は数いる神々の中でも、トップクラスの高い能力を誇っていた。
伊達に『死』を司る神ではない、ということだ。
人はもちろん、同族の神すら殺せるほどの力があった。
その初代オシリス神が倒れたのは、今から5千年以上前のこと。
生があれば死があるこの世の理は、神とて逃れられぬ運命だった。
けれどその強大な力と使命は今もなお引き継がれ、この世を徘徊している。
現在オシリス神の力を継ぐ者は、初代から数えて7代目。
受け継いで優に300年。
相変わらず自分が選ばれてしまった理由は分からない。
そうしてその間、数え切れぬほどの魂を喰らった。
こうやって情けなくすすり泣く人間を何度も見て、その魂を食い漁った。
この目の前の魂は一体何個目になるのだろうか。
獲物を見定めるかのように目を細め、オシリスはゲールに歩み寄っていく。
高揚に近い感覚に、その瞳の緑が一層強く妖しく輝きを増す。
ゲールの魂から香る、鼻持ちならないほどの腐敗臭。
堪らない匂いに、これ以上なくそそられる。
これは嫌悪ではない。
不快でもない。
オシリスは思わずぺろりと舌舐めずり。
――――――正しくこれは、食欲だ。
「あんたも知ってるでしょ?この話。あれはお伽話なんかじゃない」
「く…、くるなっ」
「あんまりにも昔から伝わる話だから、今はもうほとんどの人間が忘れてしまった事実だけど」
「化け物めっ…!」
何度そう吐かれたか、分からないくらいの言葉。
いわれなくたって、分かっている。
人の魂を喰うだなんて、普通じゃない。常軌を逸している。
化け物。まがい物。悪魔。
そしてこんな歪な存在を、人は神とも呼ぶ。
「そうだよ、僕は化け物だ」
怖いくらいにっこり笑ってやる。
脅したような顔を作るより、こっちのほうがよっぽど恐怖を与えてやれると知っている。
この状況で笑えるなんて、気が狂っているとしか相手は思えないだろう。
実際もう、自分は気が狂っていると思う。
だって神の力を手に入れたのに、人あらざる力を手に入れたのに、いつだってこんなにも苦しい。
石の心臓に選ばれることは光栄なことだといわれてるのに、受け継いだことをこんなにも後悔している。
完璧な存在として、神としての生を受け直したというのに、迷い苦しむことなど本来ありえない。
普通ではないそれを、狂っているという。
「だから、お前を喰いに来たよ」
ようやくゲールのもとに辿り着いて、オシリスはその歩みを止める。
ぼたぼたと涙をこぼし、震え上がっているゲールはなんと滑稽か。
余計に笑みが濃くなるのを自覚せざるを得ない。
「い…いやだっ……、私はまだ…!」
「『まだ』何?」
「ま、まだ…っ」
―――生きていたい。そう言いたいのだろう。
本当に哀れだと、オシリスは思う。
どこまでも生に縛れて、とてつもなく醜く哀れな男だ。
「今まで何人も騙し殺し、数えきれないくらいの罪を犯したっていうのに、なんの処罰もなくこれからも生きていけると思ったの?」
「そ、んなの……、騙される奴が悪いんだ!」
そして自分勝手ときたもんだ。
「じゃあ今から僕に喰われるあんたも、喰われるあんたが悪いって思ったらいいよ」
「いやだいやだ…! 助けてくれ!死にたくない!」
「そうやって命乞いをしてきた人間を、あんたは助けたことあった?」
その言葉にゲールは一瞬動きを止める。
ない、といっているような反応に、オシリスは喉を鳴らすように笑った。
「これはあんたの勝手過ぎたツケだよ」
持っていた杖をぐっと力を込めると、先端の黒曜石の内に揺らぐ炎が大きくなる。
それに呼応するかのように、ゲールの足元にはあの円形の陣。
屈強な傭兵たちの魂を体から引きはがしいとも簡単に殺害した、淡く緑に発光している陣だ。
まもなくカッと陣が光り、ゲールの体から真っ黒な炎のような揺らめきが上り始めた。
さっきの傭兵たちの身を焼いた墨色の魂の炎とは違い、真っ黒な炎。
堪らない腐敗臭を撒き散らし、あまりの激痛にのたうち回るゲールをじわりじわりと焼いていくようだ。
オシリスの足元から聞こえるものは言葉になっていない呻き声と、呼吸器が故障してるんじゃないかって思えるほど異常な呼吸音。
体から無理やり魂を引き剥がしているのだ、生半端な苦痛ではないのだろう。
重ねた罪が重いほど、その痛みは強く全身を引き裂くような痛みを与えるという。
「人に与えた痛みを、しっかり味わえ。自分の罪に悟り嘆き、その頭を垂れろ」
とはいっても、一回だけの苦しみで終わるんだからマシだよ。
なんてオシリスの呟きは、もはや彼には聞こえてはいないだろう。
ゆらゆらとゲールから湧きあがる炎は、まるでそれ自体に意思があるかのようにオシリスに吸い寄せられていく。
もはや悲鳴を出す気力などないゲールは、ただその耐えがたい苦しみに出血するほどに喉を掻きむしっている。
もはや呼吸器などまともに機能していないのだろう、いっそう呼吸音が粗く乱れるばかり。
やがてそのすべてを取りだされ、まさに鬼の形相といえよう顔つきでゲールは息を引き取った。
吸収されたゲールの魂はオシリスの内をめぐる血となり、彼が大地に戻るそのときまで少しずつ時間を浄化されていく。
そうしてまたいずれ、人としての生を受けることになるだろう。
ようやく事態は収束したと、オシリスは静かに部屋を見回す。
地主ゲールの亡骸と、数十人の傭兵のそれらと、あとは……。
そうだ、セイレーン。
首をぐるりと回せば、彼女はすぐに見つかった。
うずくまる様に倒れて動かなかったが、細い呼吸だけは繰り返している。良かった、生きている。
気を失っている彼女を背負い、そのままオシリスは静かに屋敷を後にした。
空はすでに日が昇りかけていて、朝日がやたらと眩しく感じた。




