(4)
廊下で凄惨な有様を見せつけられていたゲールは、驚愕に目を見開いたまま座り込んでいた。
一見ただの少年が、人あらざる力で屈強な傭兵たちの息の根を簡単に止めてしまったからだ。
あまりにも現実離れしている現実を、認めようにも頭がうまく働かない。
これは怖いという感情か?
否、そんな生易しいものではない。
恐ろしい。とてもつなく恐ろしい。
全身で恐怖を感じているらしいゲールを、オシリスは悠然と眺める。
まるでヘビに睨まれたカエルのようだ。
先ほどの威勢はどこへやら、全身から脂汗を噴き出している姿はなんとも滑稽ではないか。
堪らず残酷に口元を歪めれば、ゲールはさらに震え上がった。
この状況で残忍な笑顔を向けられれば、「次はお前だ」と嫌でも感じたのだろう。
もはや声も出ないのか、ただ首を振って人形のようだ。
そんなゲールに、オシリスは静かに足を向ける。
1歩、2歩と歩みを進める。
その次の3歩目にオシリスは躓くと、あっさりと倒れた。
とっさに受け身を取ろうとしたが間に合わず、ただ仰向けに転がっただけだった。
まったく体が動かない。
違う、力が抜けていくのだと感じた。
転んだ拍子に手放した、杖についた黒曜石の揺らぎが止み、オシリスの肌に浮かんだ文字も消えてなくなった。
「うーん……、やっぱ真っ黒じゃない魂喰うと、ペナルティーがくるなあ」
視界が歪む。
平衡感覚が欠如してしまったようだ。倒れているのにひどい船酔いをしているように、地面が揺れているように感じる。
頭が痛い。
吐き気がする。
動かなくなったオシリスを見て、ようやくゲールは正気を取り戻したらしい。
弱々しく立ち上がり、傍に落ちていた傭兵の剣を掴み取った。
けれどいまだにオシリスの恐怖がゲールを縛っているようで、その剣の切っ先が小刻みに震えている。
それでも今こそが唯一の勝機だと、ゲールは感じたのだろう。
脅えながらも勝ち誇ったように顔を歪め、ゆっくりと近づいてきた。
「……ふんっ、もう手品は、終わりか…!」
笑いが含んでいる言い回しの割には、その声が震えている。
オシリスの額に刃を掲げ、ゲールは壊れたように笑った。
その脅えが混じった卑下た笑いを貼り付けたまま、ゲールは大きく剣を振り上げる。
どこにその衝撃が襲ってくるのだろうか。
やっぱり額辺りだろうか。
なんて悠長なことを考えていたオシリスだったが、なかなかその剣がこの体に突き立てられない。
どうにか顔を動かし様子を窺えば、ゲールの腕にはセイレーンがしがみついていた。
「ばっ……、何やってんだ、逃げろ!!」
けれどセイレーンは、その言葉には首を振るばかり。
震え上がるほど、彼女はこの状況に脅えていたではないか。
だからずっと隅にいればよかったのだ、こんな無茶な行動にでるだなんて思いもよらず。
「離せ!」
けれど所詮女の、しかもまだ幼い子供の力では到底大の大人の動きは封じることはできず、逆にゲールに腕をねじり上げられ、腹を蹴り飛ばされ床に転がった。
細い悲鳴が響く。
それでもまだ両腕に力を入れてなんとか立とうとするセイレーンにゲールはもう一撃、彼女の腹につま先をめり込ませるように蹴り上げた。
一瞬小さく息を詰めるような、彼女の小さな声。
蹴られた衝撃で壁に叩きつけられたセイレーンは、いよいよ動かなくなった。
「そんなに死にたいなら、このガキを殺したらお前も殺してやる!」
叫ぶように吐き捨てたゲールは、視線をセイレーンから倒れたままのオシリスへと移動させる。
若干焦点の合わないゲールの目が見定めたのは、鼓動するために必要な臓器。
狙いはそう、心臓だ。
勝ち誇ったような甲高い笑いとともに、ゲールは迷うことなく剣を振り上げる。
ぎゅっと剣の柄を握り締める音は、静かすぎる部屋ではやたらと大きく聞こえた。
すっと目を細め、勢い任せに振り下ろす。
――――――――ガッ…キィィ――…ンッ
けれどその場に響くは、人を刺した音ではなく。
鋼に剣を突き立てたような、無機質で鋭い音。
一体自分は何を刺したのか。
驚愕に顔を歪めたゲールの持つ剣が、オシリスを突き刺した衝撃に耐え兼ねて刀身が半分に折れている。
それでも確かに剣は刺さったようで、オシリスの衣服が切り裂かれた跡はあった。ただ、流れるべき血は流れてはいない。
「……っの、化け物が!!」
ゲールは折れた剣をかまわず握り直し、今度はオシリスの額めがけて振り下ろした。
確かに骨を貫通するほどの一撃を加えた手ごたえがあり、ゲールは思わず笑い声を上げた。
けれど、オシリスの頭部から流れ出たものを見て、すぐに静寂が訪れる。
オシリスの頭部から噴き出したものは、人間の赤い血ではなかった。
薄汚れたような煤色の液体だった。
ゲールの握った折れた剣から滴るものも、その薄汚れた液体だ。それはやがて空気に溶け込むように消えてなくなってしまう。
「おー……、さっき喰った不良の魂が抜けたみたい」
痛みを感じた様子もなく、オシリスは突かれた額をさすりながら起き上がった。
彼の顔全体に流れていた煤色の液体も、何もなかったかのように消え失せる。
ゲールによって突かれた傷も、もう見当たらない。
ガラン…と乾いた音がした。
視線を向ければ剣を落としたゲールが、今度こそ腰を抜かして尻もちをついたところだった。
オシリスに向けられているらしい目は、すでに焦点が合っていないようだ。
大きく揺れる一方で、一向に定まる様子がない。
「ば…、化け、物…っ」
「まあね」
オシリスはくすりと笑った。
「そのセリフ、あんたらみたいな輩から何度も聞いたよ。あんたが言うように、俺は人間じゃない。化け物だよ」
転がっていた杖を拾い上げ、静かに握り直す。
先端に付いている大きな黒曜石の内に、また炎のような揺らめきが起こる。
と同時にオシリスの肌の至るところに、同じく呪のような文字が浮かび上がった。
「でも、あんたのような残忍な人間も同じようなもんだろう? 腐りきった性根しか持ち合わせていない人間なんざ、畜生以下だ」
人間は平気で、同族を殺す。
他蔑み、簡単に騙して、苦しむ同族を笑う輩もいる。
吐き気がするほど身勝手に、残酷にもなれる種族。
目の前で脅えて無意識に涙をこぼしているゲールは、間違いなくそんな人間の一人だ。
懺悔するにはもう遅過ぎだ。
この杖に選ばれた人間に、慈悲をかけることなどもうないのだから。




