第9話 登れない看板
「今度は、目だけこちらに置いてもらえるかな」
絵師のおじさんが、筆の柄で私の椅子を指した。
目だけ置く。
そんなことができるなら、足は別の用事へ出しておきたい。市場の朝はたいへん忙しそうで、隣では籠が積まれ、向こうでは日除けの端を結び直している。
私の座る椅子にも、曲がった脚が一つあった。
そこを確かめている間に、描いてもらっていた顔が別の方を向いたらしい。
木の板には、人間の私の頭が半分できている。
眉毛は一本。
ほっぺは四角。
何もしていない時の私は、こんな顔だっただろうか。
「すみません。あちらの籠が倒れそうに見えて」
「あれはいつもあの積み方。顔まで雇いなおすわけにはいかないから、もうしばらく座ってて」
絵師は布で私の顔の輪郭を消した。
半分なくなった私を見るのは、なかなか落ち着かないものだった。
背後のキリさんが、椅子の曲がった脚の下へ薄い板を差す。
「これで、足の用事は減ったか」
「かなり減りました」
「なら目の用事をしろ」
今日は、皮を使わない。
部屋で干し終えたものを持ってはいるが、描くのは人間の私の顔だ。昨日の下絵の空白を埋めるために、朝から城南門の杏子市場へ来た。
通りは店の角に合わせて曲がる。
干し杏子の浅い籠が、店先へ並ぶ。甘い匂いの隣には酸っぱい漬け物の桶。白い石段の下に赤い日除け。街は上から見た絵より、はるかにおしゃべりだった。
私の顔も、その中へ混じる予定。
絵師が口を少し開けてと言った。
開ける。
歯を全部見せるほどではない、とも言われる。
口を閉じ、また少し開けた。
竜の時なら、おじさんの指示はもっと難しかっただろう。牙を一本しか見せないように、と言われたら、今度は唇が足りない。
そう想像したら、口の端が勝手に上がった。
「あ、それ。その顔のまま」
今のは、何かに失敗した顔なのだが。
筆が板の上をすべる。
私の四角い頬が少し丸くなった。
筆が目の端へ戻り、細い皺を足した。笑っただけで、私の顔はそんなに変わるのだろうか。元の顔と比べたくなって、また筆先を見てしまう。
店先の看板は、もう一枚別にあった。
大きな墨竜の背中へ、小さな人が何人も並んでいる絵。よく見ると、竜の尾も屋根も、人が座れるように平たく描かれていた。
キリさんへ顔を向けた。
「そんなに乗れましたか」
「飛ぶ時は一人。人間の君なら、載せる重さが分かる前に怖いだろう」
絵の竜の顔を見た。
こちらの方も、少し四角い。
絵の中では、みんな座れるらしい。
実際の看板には、裏へ横木が二本ついていた。板を立てるための脚へ繋がっている。一人の子どもが、そこへ靴を乗せる。
私は椅子から立ちかけた。
絵師の筆が止まる。
「顔、逃げないで」
「すぐ戻ります。看板の顔は逃げませんので」
子どもは下の横木へ登り、上の横木へ両手をかけていた。
高いところへ行きたいのか、向こうの絵を見たいのか。
足が先に行き、次の足を乗せる場所がなくなった。
つま先だけが、看板の脚の角を探る。
危ない高さに行く前に、私はその子の横へ立った。
子どもは私を見る。
「これ、竜の背中じゃないの」
「背中の絵です。ここにいる私は、人間の方」
「小さいね」
「今は、小さいです」
大きくなる方の顔を期待していたらしい。
子どもは私の持っていた黒い布を指さした。その指が緑だった。どこかで絵の具を触ったのだろう。
見上げる私の頬にも、緑の指がちょんとつく。
視線をその子の足へ下げる。
右は下の横木。左は宙。今からもっと上へ置かせるより、さっき乗った右の場所へ両方を戻した方がよい。
「手を貸すので、一度こっちへ下りませんか。下からなら、竜の顔がちゃんと見えます」
子どもは顔を下へ向けた。
手を出し、私の肩へつかまる。
下から来た母親が、その腰を抱えた。私は足が横木から離れるまで待ち、それから手を放す。大きな体の方を呼ぶほどでもなかった。
子どもの靴が土へついた。
私も、頬についた緑を袖で拭こうとする。
キリさんの手が、布を渡してきた。
「袖まで緑にするな。絵師が泣く」
看板の向こうで、筆の先が上を向いている。
顔だけ置いていくのは、やはり無理だった。
母親が絵師へ、看板の脚を指す。
「これ、登れるように見えるからだよ。竜の背中に座るって絵なら、子が乗りたがる」
絵師は筆を水へ入れ、後ろの横木を見た。
目立つ場所へ高くしたかったのだという。隣の日除けより上へ出れば、通りの向こうからも見える。
下げれば、見えるところが減る。
私の顔を宣伝してもらうためなのだから、簡単に低くしてくれとは言いにくい。
でも竜の絵に登る子が出るなら、描かれる顔より先に、その脚を変えたい。
キリさんと絵師が片方ずつ持ち、看板を土の台へ乗せる。
私も裏の横木を持つ。
子どもはまた近づき、今度は下から絵の竜の牙を数えた。母親の袖へ、緑の指がもう一つ増える。
彼女はその指を見て、自分で布を出した。
描く方にも見る方にも、用事がある。
看板を持ち直す私の指も、少し緑になっていた。
椅子へ戻ると、私の顔のほっぺにも緑の丸がついている。
絵師は拭き取りかけ、こちらを見た。
「これ、残していい? 見た人が、ちゃんと人の子だったと分かると思う」
「竜の方も、顔は私の方です」
「じゃあ、竜の頬にもつけとこうか」
二つの絵が、同じ緑の丸を持つ。
私は鏡の小さな欠片を借り、自分の頬を見る。そこは拭いたばかりで、元の肌の色へ戻っている。でも笑うと、絵と同じところが丸くなった。
キリさんがその横で、皮の袋を持ち替えた。
「子を下ろす時、足を見ていたな。家でもああやって登ったのか」
「石切り場の、もう使っていない低い壁で。競争もしました。上へ行く前に、下りる道を見なさいと、よく言われました」
「聞いた方か」
「二度、泣いて下ろされてからです」
キリさんは私の椅子の脚を指す。
「体が変わっても、下ろす方は同じだったわけだ」
子どもが看板の牙を数え終えた。
次は爪を数え、途中で分からなくなって、私の指と比べに来る。十本を見せると、そちらも両手を広げた。
ほら。ここにも人間の手は十本ある。
私はその手の方へ、笑った。
しばらくすると、青い上着が市場へ入ってきた。
殿下は午前の王城の用事があったので、今来たらしい。店先で看板の置き方を見たあと、私を見つける前に、絵の顔を見つけた。
「それ、口を閉じてない方のニカだね」
「そう。座っている間に、ずいぶんよく動くお嬢さんで」
「この顔の方が、僕は知ってるな」
彼が絵の緑の丸を指す。
私は鏡の欠片を返し、椅子から立った。
「殿下には、こちらの顔も見ていただいています」
「うん。向こうの大きい顔もね。今日は緑の印がないんだ」
絵の私と、人間の私。
どちらにも同じ声を出したくなって、私は少し困った。どんな顔を描いてほしかったのか、朝には決めていなかった。花嫁候補の絵なら、たぶん閉じている口を求められただろう。
殿下は絵師へ一つ尋ねた。
「小さい札にも、その顔を描ける?」
上着へ入れられる、手に持てる札。
絵師は頷き、すぐ代金の話を始めた。
殿下が何枚と答える前に、私はまた椅子の方を見る。小さくても、顔なら私が座っていなければ描けないのだろうか。
絵師は筆を振った。
「もう動いていいよ。顔、覚えたから」
十時半が近づく頃には、看板が店の前に立った。
低いところへ置いた分、絵師は通り側へ向きを変え、竜の尾を日除けの色より明るく塗る。近づいた子が後ろへ回らなくても、正面から見られる場所だった。
竜の下に、私の名前がある。
ニカ。
モロの名前ではない。
その文字を見ていると、反対の通りからダフネが紙を振って走ってきた。紙には大きな四角と、いくつも小さな丸。看板の顔よりさらに簡単な絵だった。
「ニカ。顔の用事、もう終わった? 今度は客席の用事」
「客席を持つ方でしょうか」
「座る方を作りたいの。あたしが歌う時、誰がどこから見えるか。王子様も来る?」
殿下が手に持った小さな札を、上着の内側へ入れた。
「行く。地面にある席なら、だいたい得意だから」




