第10話 歌う花嫁候補
ダフネは王子様の椅子を、客席図のいちばん後ろへ描いた。
「後ろなんだ」
「前は子ども。それと、歌を聞くのに背伸びが要る人。殿下はその椅子に座れば見えるでしょ」
「見える。僕の足も地面につく」
竜舎の前庭で、殿下が椅子を持ち上げた。ダフネの四角い絵を地面へ写すように、後ろへ下がる。私が先に持とうとした時には、もう腰を下ろしていた。
絵の丸を、一つ埋めたらしい。
昼食のあとで集まった私たちの前には、まだ舞台も客席もない。ダフネが持ってきた木の匙と、小さな鐘と、三枚の台詞の紙が、ひっくり返した箱へ置いてある。
「これは、どういうお歌でしょうか」
「お腹の空いた旅人が、食いしん坊の山を越える歌劇。山が道を塞ぐの。ニカは山」
「山に台詞があるとは知りませんでした」
「ある。お菓子をよこせ、とか」
それなら私は、前に山と話したことがある。
お父様もよく、石切り場の奥へ置いた昼食を探して、同じことを叫ぶ。山が返事をしないので、さらにお腹が空いてしまうのだ。
台詞の紙を一枚受け取った。上に小さく「食いしん坊の山」と書いてある。
その下の台詞には、やっぱりお菓子があった。
同じ顔合わせに来た子のために、竜の役を引き受ける。
そう思って読み始めたら、ダフネは別の紙を箱へ置いた。
そこには今日の朝まで彼女の部屋に掛かっていた札が、紐ごと載っている。
花嫁候補、ダフネ。
「お部屋を、お引っ越しですか」
「うん。候補をやめたから。朝、陛下にお願いしてきた」
紙を持つ指を止めた。市場で客席図を広げるまで、そんな顔をしていなかった。
一緒に机を運んだ日の笑い声を思い出す。あの机を運ぶ時、私がこっちへ来る前から歌のことを考えていたのだろうか。
「あたし、殿下より百人に振り向いてほしいの」
「僕は、その百人に数えてもらえる?」
「来てくれるなら。立ってるだけじゃ数えない。あたしが歌うところ、ちゃんと聞いて」
「それなら、一人目を取っておこうかな」
殿下は箱の鐘を鳴らした。チン、と一度。
その音を聞くと、彼女は腰へ手を当てる。
「開演の合図はまだ。いま鳴らすと、山が出勤してない」
「山にも勤めの時間が」
「十三時十二分から。十分で戻せ」
皮の袋を持っていたキリさんが、時計を出した。
話しているうちに、私は山になれることまで引き受けていた。
前庭の広い方へ、キリさんと皮を運ぶ。
モロは竜舎の日陰で寝ていた。私の肩へ掛ける皮よりも先に、尾の端だけがぴくりと動く。食いしん坊の名前には、聞き覚えがあるらしい。
頭を通し、胸の前で銀かんを合わせた。
顔が高くなり、箱も鐘も小さくなる。ダフネは近づいてこなかった。自分の立つ位置へ匙を置いて、私へ向かって腕を広げる。
「あたしはここから向こうへ行きたい旅人。山は、ここへ来るのを止める」
前足を一歩出した。
ダフネが匙を拾い、私の鼻先へ掲げる。
「どいておくれ、山の旦那。夕飯に間に合わない」
「お菓子をよこせ」
声が低すぎた。
台詞の最後の音が、竜舎の壁へ当たって帰ってくる。眠っていたモロが頭を上げ、私ではなくダフネの匙を見た。
もう一頭、食いしん坊の山が起きてしまった。
「今の山なら、夕飯も要求しそうだね」
「声はいい。でも、もっと不満そうに。食べてない山なの」
不満。
思い出せるものはたくさんある。
朝、私の靴の片方だけが遠くへ蹴り出されていたこと。市場の杏子を選んでいる間に、よい色の三つがほかのお客へ売れたこと。殿下が緑の頬の絵を、一枚しか買わなかったこと。
最後はなぜ不満なのか、自分でもよく分からない。
私は口を開いた。
「お菓子を、よこせえ」
今度はダフネが笑わなかった。
顎を上げ、匙を振りながら、私の声の最後へ歌を重ねる。
山へあげるお菓子はないが、お祭りの夕飯なら大きな鍋にあるという歌だ。匙を掲げるたび、私の前足のすぐ向こうを、彼女の靴が跳ねる。
竜の私には小さな踊りなのに、匙の先まで目を引っ張られた。
鍋に何を入れるか、野菜が先か、山の口は幾つあるか。
問いかける声が上がり、下がる。
歌っている間のダフネは、誰の顔も確かめなかった。私も殿下も、彼女が決めた場所へ向かされている。
最後に匙を高く持ち上げた時、前庭の向こうで拍手がした。
庭師が二人、木の支えを運ぶ途中で止まっていた。
「もう一度、鍋のところ!」
「そこだけじゃ山がどかないでしょ」
そう言い返す顔は、机を運ぶ時と同じだった。
私は前足を持ち上げる。
旅人のために道を開けるはずが、つい、その匙をもっと近くで見たくなった。
ダフネが首を振った。
「山は下がる。あたしを隠さない」
大きな鼻を引っこめ、足を一歩戻す。
見上げるほどの体で、彼女のために小さくなる。
椅子に座った殿下が、片手を上げた。
「歌が聞こえる時は、旅人を見たい。山の返事で、また山を見る。交互だと、お腹が二つ空くね」
「一つは殿下のお腹でしょ」
「そう。今の歌で、昼食が急に遠くなった」
同じ場面を二度繰り返し、その終わりに、ダフネは鐘を鳴らした。
今度は開演ではなく、幕を下ろす合図。幕はまだないので、彼女が両腕を大きく下ろす。
私も翼を畳む。
前庭の土へ顎を近づけると、木の匙がちょうど見える。山に食べ物をあげる歌だと思ったけれど、旅人の方もまだ夕飯へ着いていない。
「旅人は、山とご飯を食べるのでしょうか」
「そこから先は、まだ書いてない」
「ぜひ、一緒に食べてほしいです」
「どうして?」
お菓子を要求する山を、一人で置いて行きたくなかった。
けれど、それを言うと山の役へ私のことを混ぜすぎる気がした。台詞の紙に書いていない理由を、私は探す。
「山が歩いてついてきたら、帰り道も塞がります」
ダフネが声を上げて笑った。
「じゃあ、山はついてくる。お祭りまで。あたし、歩く山を書く」
十三時二十二分に、キリさんが時計を上げた。
私は銀かんを外し、下へ戻った。皮を広げると、喉へ指を当てる。低い声を出したあとでも、いつもの声になっていた。
ダフネはさっそく、三枚目の紙へ鉛筆を走らせる。
候補の札が、その紙を風から押さえている。
殿下の椅子を片づけようとしたら、本人がその椅子を私の横へ運んだ。
「続きを相談する間、ここでも一人目にしてもらおう」
「いまは相談に混ざる人。ニカ、山の嫌いな食べ物は?」
「酸っぱい杏子です」
日陰から、モロの鼻が伸びてきた。
ダフネは紙へ「酸っぱい杏子」と書き、隣に小さな竜を描く。モロは紙を食べたがらず、私の持つ袋を嗅いだ。
今日は甘い方しか入っていない。
殿下がモロの鼻を見た。
「同じ顔なのに、よく分かるんだね」
「私には、まだ難しいです」
ダフネが、箱から候補の札を取った。新しい紙には、彼女の名前の上へ「旅人」と書いてある。
「お家の方は、お歌を聞きに来られますか」
「お父様は、候補をやめたら帰ってこいって言うと思う。だから先に、陛下に竜祭まで置いてくださいってお願いした」
「陛下のお返事は」
「歌を聞いてから祭の出番を決める、だって。竜祭まで泊まるのはいいって。いまので、お客が二人増えたでしょ。陛下にも聞いてもらわなきゃ」
彼女は鐘を箱へしまう。残してきた家に声が届く前に、こちらで歌う場所を作るつもりなのだ。
手紙の封を切るお父様の顔を思い、私は匙を握った。私のお父様にも、こんな山になったことを知らせよう。
けれど歌の旅人は、私を呼ぶ時にはニカと言った。
モロの顔へなる前から、そう言っていた。
午後の風が涼しくなった。皮の縁を直しているキリさんの向こうで、空の青いところが細くなっている。
明日は雨になる、と庭師が教えてくれた。
ダフネが紙を畳み、木の匙を私へ持たせる。
「明日は続きを書く。山、風邪引かないでよ」
「皮は、濡れたらどうなるのでしょう」
キリさんが振り返った。
「着られる。飛べない。雨の日の山は、地面で待て」
殿下が、自分の椅子の座面を叩いた。
山のぶんも空いている、と言うには、ずいぶん小さな場所だった。




