第11話 雨の日の翼は重い
青い雨樋の口から、水が一本の紐になって垂れていた。
それを見上げる私の鼻へも、水が落ちる。
傘は殿下が持っている。私へ寄せてくれるたびに、彼の反対側の肩が濡れるので、自分の方へ戻してくださいと三度目のお願いをしたところだ。
「二人とも入れようとしてるんだよ。ニカが端へ行くと、傘が忙しい」
「殿下の肩を拭く方も、忙しくなります」
「それなら、半分ずつ濡れよう。あとで拭くのも半分ずつ」
市場の入り口で足を止める。
雨の日には、軒下の杏子がいつもより深い色をしていた。果物を見たかったのと、ダフネの歌の山へ、本物の夕飯の鍋を見せたかったのとで、私たちは城から十五分歩いてきた。
山にもお出かけの日がある。
竜の皮は袋の中だが、雨が口から染みてしまった。キリさんが見せてくれた端は、手へぴたりと貼りつく。
今日、空は使えない。
それでも市場まで来れば、買い物くらいはできると思っていた。
鍋を売る店の前には、鍋がなかった。
いくつも重ねた荷車が、裏手の泥で止まっている。銅の大きな鍋が、車輪の横で水を受けていた。店の人が車を押すたび、輪の半分が泥へ入り、その水が店の人へ跳ねる。
「そっちの石へ、あと一つぶんなんだがね」
車輪の先に、平たい石が並んでいる。あそこへ出れば人も通れるのに、裏手は全部、泥になっていた。
車の屋根の下だけが乾いている。
濡れた靴を石へ置き、店の人へ手を貸した。
殿下も柄を握る。二人の腕が加わっても、車は斜めに沈んだだけだった。
銅の鍋が、ごん、と鳴る。
店の人は、荷を軽くする方を考え始めた。一個ずつ下ろすのならできるが、雨の中で積み直すまで通りを塞ぐことになるらしい。
私の手には、人間の大きさの泥。
後ろで、袋を置いたキリさんが車輪を見ている。
「竜なら、押す方をお手伝いできますか」
「後ろの空き地なら。飛ばずに戻す。車の上へ乗るな」
「それは、屋根の方から乗客を断ると思う」
銅鍋を一つ、殿下へ預ける。荷車の後ろの空き地へ皮を運んだ。
店の人たちが傘を持って離れると、キリさんの時計は八時三十五分を指していた。
肩へ掛ける皮は、いつもより重い。
首の後ろに冷たい水が当たり、前の銀かんを合わせる時には、袖まで水を吸っていた。
大きくなれば、冷たいところも大きくなる。
背中を伝う雨を、私は初めて尾まで知った。
翼を開こうとすると、途中で肩が引かれる。薄いところへ水が広がり、そこだけが下へ落ちたがる。
羽ばたけるなら飛べる、というわけにはいかなかった。
一度持ち上げた翼を、すぐ体へ寄せた。
「雨が、肩へ座っています」
「お客さんを下ろせるといいんだけどね。次のお客さんが、上からどんどん来る」
殿下が傘を高く掲げた。
私の鼻先に、丸い屋根。
その屋根は鼻の半分しか隠さないうえ、私が息をしただけでひっくり返った。
傘の骨が、青い空の代わりに灰色の雲へ向いている。
「申し訳ありません」
「うん。君が謝ると、傘が裏返ったまま遠くへ行く」
口を閉じた。
殿下は傘を下ろし、骨を一本ずつ元へ戻す。私は息をする時、反対へ顔を向けることにした。
雨を避けるのが、とても難しい。
「傘の方を、大きくすればよいのでは」
「君の頭だけでも、僕の王冠より予算がかかるね」
「屋根より先に車輪」
キリさんの指が、荷車の後ろへ向いた。
私は鼻を下げて足元を見る。
車輪の前にある平石と、その手前の泥。石切り場で台車を動かす時には、お父様が木の棒を噛ませていた。けれど、竜の私が棒を押せば、棒の方が割れてしまいそうだ。
荷車の下へ爪を入れたくなる。
それも、底を割りそうだった。
だから店の人へ、どこなら押してもよいか尋ねた。
「後ろの横木。お嬢さんのその手なら、両端に当ててくれると助かる」
前足を開く。
指で小さな鍋をつまむより、横木の両端を一緒に押さえる方が、今の体には合っている。
キリさんが車の前へ回り、石までの間へ短い板を敷いた。
店の人たちは、横から車を支える。
押し始めると、足の下の泥が先に滑った。
車だけを押したいのに、私の方が後ろへ行く。
爪を土へ深く当て、もう一度。
横木が指の間で鳴る。私は力を少し戻した。人間の時と同じつもりで、えいと押してしまえば、車の板が先に店へ着いてしまう。
鼻の前でキリさんが拳を握った。
止める合図。
板の端に車輪が載り、荷車の前だけが石へ上がっている。そこで待った。店の人たちが後ろの板を入れ直す間、尾の先へ雨がたまっている。
荷車の屋根から落ちた水が、私の前足へ筋を描いた。
竜になっても、濡れるところは濡れるらしい。
それなら、と膝を少し曲げ、次の合図で横木を押した。
二つの車輪が石へ出た。
店の人の手から、柄の重さが離れる。
鍋が、ごんごんと嬉しそうな音を立てた。隣の軒先で待っていたお客が、並んで道を通り始める。
「鍋も山も、歩いてきたぞ」
昨日の歌を見た人がいる。
返事をしようとして、私は口を止めた。
殿下が、ちょうど傘を元に戻し終えていたからだ。
荷車は店の軒へ入り、店の人が最後の板を外した。
八時四十三分。
体の周りを空けてもらって、私は銀かんを開く。人間へ戻った靴には、さっき踏んだ泥がついていた。泥の量も人間へ戻るなら、床を拭く人は助かるのに。
店の人は荷車から、銅鍋のいちばん小さいものを取り出した。
「これ、舞台へ使うんだって? 蓋も一緒にどうぞ」
代金を出そうとすると、車の運び賃と鍋の値段を比べ始めた。違いが分からず困っていると、殿下が鍋へ匙を当てる。
昨日ダフネから預かった木の匙。
銅の縁は、箱の鐘よりも低く鳴った。
「これなら、山の声と喧嘩しないね」
「旅人がお夕飯へ着く時の音になりそうです」
店の人が、山にも夕飯をやってくれと言った。
私は鍋を受け取り、蓋を被せる。
雨の日に選んだので、蓋のある方に惹かれてしまったらしい。旅人も山も、今夜は濡れずに食べられる。
皮をきつく畳まないよう、キリさんが店の軒下で水を払ってくれた。
城へ戻ったら軒下へ干す。二時間を数えるのは、それからだ。
鍋の中へ、店の人が布を一枚入れてくれた。蓋に当たって音がしないようにするためだ。
殿下がその鍋を受け取ろうとしたので、私は両手を引いた。
「傘も鍋も持ったら、殿下の手が足りません」
「肩に掛ける紐を借りれば、足りるよ」
「鍋を下げた王子様は、歌劇の旅人よりお腹が空いて見えます」
「じゃあ、二人で持とうか。僕と君なら、手は四本ある」
鍋の取っ手を、右と左で一本ずつ持った。
傘の柄と同じ速さで進まなければ、鍋を傾けてしまう。私は一歩目を小さくする。殿下も同じだけ進み、蓋の下の布は静かなままだ。
手を空けて助けることばかり考えていたけれど、彼の手と一緒に、何かを持って帰るのもよかった。
私たちは店の人から、雨の時に通れる石の道を教わった。市場の裏へぐるりと回れば、水を吐く樋の真下を通らずに南門へ戻れる。
殿下の傘へ入る。
今度は足を端へ置かない。彼が持つ柄の下へ、少しずつ肩を寄せてみた。
「ああ。それだと、僕の右肩は助かる」
「左肩は?」
「そっちは、朝の僕が濡らしたぶん。帰ったら僕が拭こう」
雨の音が傘を叩く。
二人の顔の間にも、傘の骨が一本見えた。昨日の小さな絵は、この上着の中にあるのだろうか。
見えないものを気にしていると、靴が同じ速さで進んでいく。
キリさんが少し先を歩いていた。
南門まであと少し、というところで、彼女の片足が止まる。泥の上へ踵を出し、靴だけがその場に残った。
靴の口から、革紐の切れた端が垂れていた。いつもの足なら、つま先を一振りして歩き直すはずなのに、キリさんは裸足を石へ載せている。
拾う方の手を空けようとすると、殿下が鍋の両方の取っ手を持った。私たちは鍋を下ろし、傘ごと彼女のところへ戻る。
短い沈黙。
キリさんは振り返らず、私たちへ手を出した。
「笑うなら、拾ってからだ」




