第12話 教官の片方の靴
「教官の靴は、勝手に直らない」
キリさんは片方だけ靴を履き、もう片方を机へ載せていた。
雨の道から帰ったあと、私は泥を落とした靴を彼女へ返した。無事に拾えたことには、お礼を言ってもらった。
けれど、切れた紐は切れたままだ。
昼食のあとに竜舎を訪ねると、教官は修理の針と睨み合っていた。机には太い革紐と、細い針。針の穴へ革を通そうとしたのだろうか。革の先が少しつぶれている。
「それは、そのまま通す方の紐ではありませんか」
「分かっている。縫い目も外れた」
靴の踵を裏返して見せてくれる。
内側の布が、端から一筋ほど裂けていた。そこへ針を当てると、硬い革の方まで引っ張ることになる。
私が椅子を引くと、キリさんは針を机へ置いた。
「できるか」
「お父様の靴でよければ、よく直しました」
「それは今ここにない。私のを頼む」
そう言って靴を差し出される。
足を教える方にも、靴は要る。
いつもは靴の向きを正してもらう私が、今日だけ教官の片方を持った。
革の穴には泥が残っていた。
新しい紐を通す前に、竹の先でそれを落とす。靴を斜めにすると、少しずつ粒が机へ出てきた。
石切り場の靴には、もっと白い粉が入る。それを取らないで紐を引いた時には、穴の縁を一つ裂いてしまった。
今日は、指を止める時を覚えている。
キリさんが隣から見ていた。
「その竹も、家の道具か」
「こちらの箸を削っていただきました。元は食事をする方です」
「食事の方へ戻すなよ」
削った先を布へ拭き、革の縫い目から外れた糸を拾う。
そこだけは針の仕事。新しい糸を、古い糸が通っていた穴へ戻していくと、内側の布が踵へ寄ってきた。
キリさんの足より先に、靴の中身が元へ戻った。
机の反対側では、殿下が赤い紐を伸ばしている。
朝、私たちが持ち帰った鍋を、ダフネの箱へ結ぶはずだったものだ。まだ切っていなかったので、足の修理へ一部を貸してもらった。
「新しい革紐の方が、少し短いね」
「古い方が、伸びていたのかもしれません」
「前の冬から同じだ」
「じゃあ、その紐の方がニカより長く副長を知ってる」
雨音に混ざって、キリさんが鼻で笑った。
彼女の頭には、いつもぴったりと髪がまとめてある。机に向かう今は、こめかみの一本だけが外れ、針の先へ下がっていた。
直してあげたくなるが、髪へは触らない。
靴と一緒に頼まれたわけではないからだ。
糸を結び、鋏で切る。
仮の赤い紐を、足首の手前だけへ通した。
新しい革の方は帰りの道まで持たせ、あとで長さの合うものへ替えられるように、強く締めない。
キリさんは靴を履いて、つま先を一度机の下で押した。
「戻った」
「その赤なら、号令より先に足が見えるね」
「足が先に見えるのは当然だ。号令は聞くものだからな」
殿下が、自分の靴の先を持ち上げた。
こちらには赤い紐がない。
その分だけ、キリさんの靴は今日の雨を覚えている。
靴を試しに外へ出ると、西庭の隅の石が濡れていた。
軒の端から落ちた水で、キリさんが歩くところだけ小さな池になっている。彼女はそこを跳んで越えようとした。
靴の赤い紐が揺れる。
私は、思わず彼女の袖へ手を伸ばした。
「その石、丸い方を上へ向けています」
「見れば分かる」
「お父様もそうおっしゃって、よく靴を濡らしました」
雨の中へ放り出した平たい石が、すぐ隣にある。
片側に古い割れ目があるので、私は反対側へ足を載せた。低い場所なら、靴の底が全部つくところを選べる。
そこへ手をつけば、濡れた池の向こうの紐を引き直すこともできた。
キリさんは私の置いた靴を見て、丸い石から足を戻す。
真似をし、少しだけ膝を曲げた。
そこで紐を締め直すと、片手を離しても踵が浮かない。
「なるほど。私なら、跳べると思って先に跳ぶ」
「キリさんなら、跳べるのでしょうか」
「今日は靴の方が信用できない」
「昨日までなら、靴も教官だったのに」
殿下は軒下で、空の桶をひっくり返した。
赤い紐の教官が池を渡り、私の方へ戻る。私の靴はまだ丸い石を避けていた。違う道を歩いてきた人と並ぶと、同じ庭にも選び方が二つある。
今度はキリさんが、桶を一つ庭へ出した。
「尾を見る。今朝、体を戻す時にも、最後まで尾だけが車の方へ向いていた」
「お手伝いが終わったと思うと、足から帰ってしまうので」
「尾は、遅れてついてくるものだと思うな」
十時二十分に軒下へ干した皮は、もう二時間を過ぎていた。
私は庭の空いたところへ広げ、十二時四十二分に着た。雨は続いているので、翼は体へ寄せる。今日は、乾かした直後でも空へ出ない。
キリさんは私の横へ立ち、尾の先へ桶を一つ置く。
体を右へ向けると、尾が左の桶に当たった。
ころり。
水を入れていないので、桶は静かに転がっていく。
「今のは、桶だから困らない」
殿下が桶を拾った。
「僕だったら、ころりとは行かないね。たぶんもっと喋る」
「桶が、喋ってくれたら」
「毎日水をいっぱい入れるなって言いそうだ」
キリさんが、桶を元へ戻す。
私の足の向きを直すのではなく、尾が行く方へ、自分の赤い紐の靴を置いた。
「向きを変える前に、こっちへ一度重さを預ける」
桶を倒さないことだけ考えて、尾を持ち上げようとする。
その時、前足が左へずれた。長い体は、後ろを動かした分だけ前も動きたがる。
人間の私なら足を戻せる。
竜の私には、戻す足がもう二本ある。
私は肩の力を抜き、右の後ろ足で土を押さえた。
尾の先が、桶の縁を越える。
曲がり終えたところで、キリさんが桶を蹴り直した。
「もう一回。空で曲がる時にも、後ろを忘れるな」
さっき直した靴が、私の大きな足と同じ泥を踏む。
前へ前へと見ていた顔が、今日は後ろへ向く。尾の置き場所が見えると、次の桶を自分から目で探した。
三つ目の桶を殿下が持ってきた時には、自分から尾を遠くへ置けた。
十二時四十九分に戻す。
銀かんを開いたあと、私は靴の紐を見た。
尾は消えたが、後ろを確かめる癖まで消さなくてよい。
皮を軒下へ広げると、キリさんが椅子を持ってきた。
片方の赤い紐は、まだ同じところに結ばれている。
「教官にも、苦手なものがあるのですね」
「針の穴は、近づかないと見えない」
「竜の爪ならよく見えるのに」
「それを針の代わりにしたら、靴の方がなくなる」
殿下が椅子を引き、私へ座るよう手を向けた。
キリさんも隣で靴を脱ぐ。今日こそ泥の粒を全部出すつもりらしい。
針の穴の向こうに見えていた彼女の眉が、今はいつもの位置へ戻っていた。
「私は、隊長になりたい。だから足のことも聞いておく」
靴の踵へ指を入れたまま、彼女が言う。
お礼のように聞こえたので、私は竹の道具を机へ置いた。持っていてもらえれば、次は自分で泥を落とせる。
彼女は竹の先を指で確かめ、それから針も手元へ寄せた。
「糸を、もう一度通してくれ。私が見る」
穴を日に向け、細い糸を二つ折りにする。キリさんは顔を近づけると、前へ出てくる髪を、初めて自分で耳へ掛けた。
二度目の糸は、自分で通した。
赤い紐の向こうに、白い細いものが通っている。
「もう靴の教官もできるね」
「その言い方だと、靴を教えることになる。靴が返事をすれば便利だが」
「私は教えられる方でした。今日は、片方だけ貸せたようです」
キリさんの手が針を箱へ戻す。
教わる方にもこんなに手が動くなら、次に分からないことがあっても、先に足を止めて聞けそうだった。
殿下が門の方へ目を向けた。
雨の中を、見覚えのある黄色い幌が進んでくる。
ルドの家の馬車だった。
父が私を迎えに来たのかと思って立つと、御者が箱から手紙を出す。
帰ってこいとは書いていない。
明日の朝、この馬車を使って、一度うちへ顔を見せてほしい。
末尾には、こうあった。
竜になった話は、なるべく食卓ではしないこと。母さんが鍋を大きくしようとしている。




