第13話 八メートルでは帰れません
八メートルでは、うちの玄関へ帰れない。
馬車の前でそう言うと、御者は黄色い幌をめくり、いつもの席を指した。
「今日はいつもの大きさでお願いします。馬が驚きますので」
「馬車が驚く方を、先に考えていました」
皮の袋を足元へ置く。昨日の午後から干していたものは乾いていたが、今日は着ない。
朝六時。昨日の雨が残した小さな水たまりを、馬の蹄が踏んでいく。
キリさんが反対側へ座った。
遠出をする間も皮を見る人が必要で、陛下に同行を頼まれたのだという。赤い仮紐は新しい革紐へ替わり、彼女の靴は、もう教わる前と同じに見えた。
最後に青い上着が入ってくる。
殿下は自分の袋を、膝の上へ大切に載せた。
「お父上とお母上にもおやつを、と思ったんだけど、杏子の話ばかりする人になりそうだね」
「あの。殿下は、もともと杏子の話がお好きです」
「うん。君の家の玄関でも、それは同じだといいな」
昨日、父の手紙を読んだ時に、殿下が家を見たいと言った。
お招きしてよいかと尋ねる前に、私の方から、よければお昼を食べてくださいと答えてしまった。
父と母には、御者が帰り着いてから伝えるはずのことなのに。
その御者は今、私たちの前で手綱を握っている。
来客の知らせは、来客が届けることになった。
王都を出てから四時間ほどで、道の端の石が白くなった。
よその町の石と混ざらない、私がよく靴へ入れていた色だ。
馬車が家の前へ回ると、母が籠を下げたまま止まった。
ニカ、と呼ぶ口が、殿下を見て開いたままになる。
私は馬車から下り、父が出てくるより先に、母へ駆け寄った。
「お昼を、お一人増やしていただけますか」
母の目が私へ戻った。
「お一人? 靴が三足あるわよ」
「キリさんは、私を見てくださる方です」
「私は庭でも構いません」
「そんなことを言わないで。お客を庭へ並べたら、近所が鉢を届けに来るわ」
母は籠を私へ渡し、手を空けて殿下へ頭を下げた。
彼が自分の名を言うより前に、父が台所から顔を出す。
顔には白い粉がついていた。
朝から仕事をしていたらしい。私たちを見たあと、一度姿を消し、拭いた顔でもう一度出てきた。
けれど、耳の前に一筋残っている。
殿下が少し頭を下げた。
「突然伺ってすみません。トビアです。ただ、お昼に混ぜてください」
父は、上着の青い色と私の顔を交互に見た。
先に頷く。
婚約を申し込みに来た方ではない。
それを口へ出そうとしたら、なんだか自分の方がその言葉を気にしているようで、出せなくなった。
母が父の耳を布で拭いた。
「鍋を下ろしてから。粉の方で顔を覚えていただくことになるわ」
台所の窓は、胸の高さにある。
窓の外の石積みを、私は昔、足を掛けるために眺めていた。
今は机を置いた場所から、向こうの山が見える。竜の顔なら、ここを覗いただけで屋根に鼻を当ててしまうだろう。
母が出した鍋は、大きくなっていなかった。
ちゃんと五人へ取り分けられる昼食があり、父が自分の皿の方から、もう一つ椅子を引いている。
「で。城では、昼に何を食ってる」
「竜の時は、干し杏子を三枚ほど」
「竜の大きさじゃなく、お前の昼飯を聞いてる」
膝へ両手を置いた。
朝から、借りた皮の話をどうしようかばかり考えていた。竜が人へ貸してくれるのは珍しいから、父にも、その理由をうまく説明しなければと。
理由はまだ知らない。
何を食べたかなら、すぐに答えられる。
「昨日は、豆と、白いパンです。夜には焼いたお魚も」
「食えるだけ食ったか」
「はい。お魚は、二つ」
母が自分の皿へ野菜を分ける。
「なら、今日は三つにはしない方がいいかしら」
机の真ん中には、焼いた魚が並んでいた。
殿下がすぐ、自分の皿を前へ出した。
「僕には三つでも。ここへ来る道で、ずいぶんお腹が空きました」
王子様の皿へ、うちの魚が載る。
初めて見るはずの取り合わせなのに、彼の指がパンの端を割ると、いつものおやつの時の手と同じだった。
殿下は、竜舎にいてもここにいても、お腹の空いた殿下だった。
食べながら、父は私の足元を見た。
新しくない靴。昨日の泥は、もう落としてある。
「城の靴は履かないのか」
「そちらは歩く時に、少し踵が浮くので」
「最初の日、椅子の方も合わなかったんです。いまは、低い方の部屋で」
「こいつは昔から、椅子より窓の縁が好きでな」
父が窓の方へ顎を向ける。
パンの切れ端を持ったまま、首を振る。
「低いところだけです」
「下りられなくなった壁も、低い方だった」
殿下の目が、私へ向いた。
知られてしまう。
立派に竜へなった私の話より、泣いて下ろされた私の方が先に届いてしまう。
「二度、だそうです」
キリさんは、魚の骨を皿の端へよけた。
父が別の話も始めようとしたので、私は自分の皿を急いで出した。
「こちら、もう食べ終わりました」
「僕は、その続きも聞いてから食べ終わろうかな」
彼の皿にはまだ魚がある。
とても意地の悪い皿だ。
父は、その皿が空になるまで私の昔の話を続けた。使わなくなった石切り場の低い壁で競争したこと。大人の道具箱へ、拾った石を混ぜたこと。靴の中の欠片を見せに行くたび、父の手が止まったこと。
殿下は一度も、今なら飛べるからよかったと言わなかった。
下ろされたあと、私が父の袖を泥で染めた話で、ただ笑った。
笑ったあとで、今も見られる壁かと私へ尋ねる。
私は窓の向こうを指した。
「あちらの、下の方です。上ではまだ石を切っているので、入れません」
彼は、私の指が示した低い石だけを見る。
出発まで、少し時間があった。
父に断って、使っていない低い壁まで歩く。キリさんも一緒で、石の粉が少ないところを選んだ。
子どもの頃に大きかった段が、今は膝より下にある。
私は靴の裏を置き、手を掛けて、その段へ腰を下ろした。
殿下は一段下へ座る。
「ここなら、僕も景色が見られる」
「上へ行けば、家の屋根も見えます」
「いまは下のままでも。君が見せたかったところ、ここなんでしょ」
そうだった。
竜になるところを見せるのなら、もっと広い空き地を選んだはずだ。ここは、私がまだ上を見たかった頃に座っていた場所。
今も上を見たい。
けれど八メートルの体なら、石の段へ腰を下ろすことはできない。
私は殿下の座る段を見て、それから空へ目を上げた。
「いつか、うちの屋根を空から見たいです。こちらへ来たら、小さい池がどんな形なのかも」
「飛ぶのは次だ。今日は皮を出す場所も確かめてない」
「はい。ちゃんと、次に来たいです」
「それなら、僕もまた来てもいいかな」
お昼を増やす話から先に始めれば、今度は母も驚かないだろう。
私は頷いた。
殿下が腕を伸ばし、隣の白い欠片を取る。靴へ入れず、石の上へ戻した。
それだけのことが、私の昔の遊びへ彼が加わったようで、私はなかなか腰を上げられなかった。
十一時の馬車へ、母が包みを載せた。
父は皮の袋へ触らず、私の靴の先を一度見る。
「また昼飯を食いに帰れ。八メートルの方を連れてくる日は、庭を空ける」
「同じ私ですので、一人ぶんで」
「同じでも、椅子は違うだろ。あの赤いのを壊されたら、母さんが困る」
黄色い馬車が動くと、家の窓が小さくなった。
行きの四時間と帰りの四時間。空へ上がれるようになっても、その距離は椅子に座って進む。隣では殿下が、母の包みを膝に載せていた。
私にも膝があって、同じ高さの窓から景色が見える。
十五時に城へ戻り、母の包みを食卓へ置いた。
皮の袋は、まだ今日、一度も開いていない。
先にモロの鼻が、食卓へ届いた。
口が包みの紐を引っ張り、中の小さな実を一つ奪う。
私と同じ顔が、その実を食べて、目を細くした。
母は酸っぱい杏子を入れてくれたらしい。
私は思わず、殿下の方を見た。
次に竜へなったら、私の方もあんな顔で食べられるのだろうか。




