第8話 三回目は取っておく
「三回目は、取っておきたいです」
私の声が、演習場の柵を越えた。
向こうには、城の外から来た人たちがいる。籠を抱えたおじさん、子どもを肩へ乗せた女性、日除けを斜めにかぶった若い人。私を見ている顔が、人間のままの私では足りないというように、空へ向いた。
その空には、まだ何もない。
十三時の鐘が鳴ったばかり。
午前の二回目は十時四十五分から五十三分まで、立ち方と翼の点検に使った。皮は十二時五十三分に干し終え、正式な棚でキリさんに確かめてもらった。
あと、一回。
それを留めてしまえば、今日は夜まで人間の体しかない。
使いたい。見てもらいたい。
でも私が使う用事は、距離を測ることだけだろうか。
皮を抱えた腕が、どちらにも動かなかった。
隊長が、柵の向こうへ手を上げる。
「見せなければ、試演にはならない。飛行の枠を用意してある」
「地上では、見ていただけませんか」
「竜祭の空へ出すための試演だ。足で歩くところを見に、皆が集まったわけではない」
向こうから、確かめるような声が上がる。
「今日は飛ばないのかい」
声の方を見ると、朝の菜園のおばあさんだった。
籠は空だ。私へ尋ねるために来たというより、人の間から自分の降りる場所がどう使われるか見ている。
おばあさんには、答えられる。
「記録の飛行は、今日はしません。ほかに使うことがあったら、残した一回で変わりたいです」
「そうか。じゃあ、先に昼飯の分を届けてこよう」
彼女はそのまま、柵の横から庭師の方へ歩いていった。
帰ってしまったわけでも、喜んでくれたわけでもない。
籠の遠ざかる音を聞いて、肩の力が抜ける。
おばあさんは庭師へ籠を預け、また柵の横に戻った。
殿下は白い傘を閉じていた。
飛ばないなら、開く必要はない。
隣へ来て皮に目を落とすと、声を低くした。
「僕は地上の方の枠にも入れるけど。君はどう?」
「私も、戻ってからの方なら」
「戻る前も地上にいることができるよ。大きくてもね」
キリさんが、隊長へ話しかけた。
翼の点検は朝に済んだ。距離の記録とは別に、戻る操作と地上の扱いを見るべきだという。隊長は何度か空を指したが、キリさんの指は私の皮と柵と、見物人が歩くところへ戻る。
話が続く間、自分の手を見た。
指は十本ある。
八メートルになるために、先にこの二本の手で、銀かんを留めなければならない。
その小さな仕事まで、人に決めてもらいたくない。
皮の端を、胸の前へ寄せておく。
今日は取っておく。
そう決めた時、演習場の旗が鳴った。
金の鈴が三つついた、大きな竿。
城の紋をつけた幕が、竿の先から柵まで伸びている。風で端が引かれ、鈴がまとめて鳴る。昼前に張り直したところが緩んでいたのだろうか。
根元が、土の穴の中で動いた。
見物人は鈴の方を見て、少し笑った。
根元の金具が、石にぶつかった。
竿が斜めになる。
幕の端が人の頭へ向かう。
キリさんが、柵を開けた。
「こっちへ。幕の下へ入るな」
人が移る。
しかし肩へ乗せた子を下ろしている女性が、一歩遅れた。背中を屈め、片腕で子を囲い、もう片方で幕を押そうとしている。
私の二本の腕で、その幕を持てるだろうか。
風の入った布は、温室の梁より向きが変わる。
ただ上へ引けば、竿の先が人へ落ちる。
今、残っているのは一回。
私は銀かんを留めた。
十三時四分。
前足を空き地へ置き、頭を下げる。
翼は全部広げない。人の頭の上で風を起こしたくなかった。片方だけを、布の下へ差し入れる。
薄い膜の上に、幕が乗った。
縁の金の縫い取りが翼の先へ引っかかる。そこで引いては布が裂け、支えている先だけを人の方へ落としてしまう。肩はそのまま、翼の先の細い骨を少し曲げ、布の角を膜の広いところへ滑らせた。温室の枠を掌で包んだ時と同じで、尖った方より平たい方を当てる。
模様がすべって、右の肩の上へ来る。旗に描かれた竜は、私の体に比べるとずいぶん小さかった。これなら、もう少し傾けても布の端を人から離しておける。
鈴のついた竿の先は、そのさらに向こう。
腕で持つように翼を上げると、肩が引かれる。左翼の白い鱗の方は動かさず、右だけを幕の腹へ当てる。風が入って、まだ重い。
引き止めるより、風の逃げる方を作る。
私は頭を少し下げ、右翼の先も下げた。
幕が傾く。
人の頭から外れて、空き地の方へすべった。
女性が子を抱え、キリさんの開けた柵から出る。その隣で、殿下が白い傘を地面へ置いた。
「傘は閉じる。こっちは空けるよ。みんな、青い上着の方へ」
彼の後ろに人が流れていく。
私の爪の前から、細い靴が一つずつ消えた。
屋根を持った朝には、足の場所を全部探した。
今日は、誰かが足の場所を空けてくれる。
隊長が、竿の根元を掴んだ。
竜隊の二人がそこへ来て、向こうへ倒す方向を決める。私はそれに合わせ、幕を載せた翼を低くした。
竿を無理に起こしてはいけないらしい。
倒す場所を決めれば、人から離せる。
隊長の合図で、金の鈴が土へついた。
布が右翼から離れ、まだ風の袋を作ろうとする。庭師が端を押さえ、菜園のおばあさんが空の籠を重しにした。
最後に、翼の先を柵の手前へ戻す。
柵には触らなかった。
キリさんがこちらを見上げる。
「足を残せ。幕を追うな」
足は三つ、土についている。
残り一つを、ちょうどよい場所へ戻す。
子どもが柵の向こうで、母親の袖を引っ張った。
「あの竜、降りてきたんじゃないよ。ここにいたんだよ」
その声は、私にも聞こえた。
飛ばなかったのを、見ている人もいた。
十三時十一分、皮を脱いだ。
キリさんがすぐに裏を見て、右の翼の付け根を確かめる。傷はない。左の古い鱗にも、幕は触れていなかった。
息を吐くと、人間の胸が自分の大きさで動く。
殿下が、水の入った杯を渡してくれた。
杯の水を飲んで、柵に乗っていた子どもの手を見た。さっき肩へ乗せられていた子だ。今度は両足が地面にあり、母親の隣で、私を見ようと顔を上げている。
人間の私。
目が合うと、子どもは自分の肩へ手を当て、翼を小さく動かす真似をした。
私も片腕だけ上げてみる。
殿下は笑いかけたが、隊長が来ると口を閉じた。
隊長の袖には土。腰の真鍮鍵にも、布の糸が一筋かかっている。
「飛行の記録は、今日は取れない」
「はい。三回目を使いましたので」
彼は私の皮を見てから、キリさんへ振り向く。
それ以上、飛べとは言わなかった。
夕方まで、演習場には人が残った。
旗竿を立て直す人。柵の出口を広げる人。飛ぶところを見たかったともう一度言い、明日の予定を聞いてくる人。
皮を広げて干し、十五時十一分に乾いたのを確かめても、また着ることはしなかった。
回数は、乾いたから戻るものではない。
人間の手で杯を洗い、庭師へ返す。
キリさんが、腰に手を当てて近づいてきた。
「次から、地上も試演に入れる。私が段取りを決めるよう隊長へ話した」
「ありがとうございます。今日の飛行の枠は、使わなくて」
「立ち方と翼は朝見た。距離の枠は明日もある。次の試演は、私が場所から組む」
彼女は土に落ちた鈴を一つ拾い、竜隊の若い人へ投げずに手渡す。
私の方には空いた手だけ残した。
「いつか隊長になったら、最初から両方を見る。そういう隊を持ちたい」
それは私を褒める話というより、彼女のしたい仕事の話だった。
私は彼女の腕を見る。
一人で板を運べる腕。
柵を開けて人を通す腕。
頼める人に、また一つ頼むことが増えた。
十六時半になる前に、城南門の人が紙を届けてきた。
市場で私の姿を描いた看板を作り、竜祭の客を呼びたいという。温室を支えた竜、飛ばずに幕を支えた竜。二つを描く場所が必要らしい。
見せてもらった下絵には、大きな墨竜と、小さな椅子があった。
椅子に座る人の顔は、空白。
私はそこへ指を置いた。
「この人のところへは、何を描くのでしょう」
「借り手の子だよ。顔が分からなくてね」
殿下が私を見て、机から白墨の欠片を拾う。
「それなら、明日来る人に会ってもらおう。僕は、もう両方の君を知ってるから」




