第5話 飛ぶ前に降りる場所
「こっちへ降りたら、昼飯が減るからね」
西庭の向こうの屋根から、おばあさんが籠を振った。
籠の中には葉菜が並んでいる。屋根に干した葉を、朝の風で裏返しているらしい。その隣には水色の洗濯紐。端に布が二枚、竜の翼より先に風をつかんでいた。
降りる場所を決めに来た私たちは、その屋根を飛ぶ道から外した。
私の大きな体で葉を散らしたら、拾う方がずっと大変になるだろう。人間の指ならすぐつまめる一枚も、前爪の先では串に刺したみたいになりそうだ。
キリさんは皮を広げ、左翼の根を裏から透かす。
白い鱗の下の細い筋へ触れ、ほかの縁とも比べていた。やがて私を呼び、傷ではないが古いところなので、枝や紐へ触れさせないようもう一度言う。
私たちが降りるのは、西庭の真ん中。
昨日、庭師が足跡を埋めた空き地だ。下に石はない。人の通り道は白墨の線の向こうへ避け、屋根へ飛び移る練習はしない。
空が広い。
地面には、もう幾つも避ける場所があった。
八時一分、私は銀かんを留めた。
地面が遠くなる。
それでも今日は、背の高さばかりに気を取られない。前足の置き場所を見て、後ろの二つを離れた土に置く。尾の先が、水色の紐へ近づいていないことも確かめた。
モロは西庭の端で頭を上げている。
こちらが翼を動かそうとすると、向こうも片方を広げた。教えてくれるのかと思ってよく見れば、背中に乗った小鳥を追い払っていただけ。
真似をしてはいけないこともあるらしい。
キリさんの声が、前足の間から上がった。
「最初は広げるだけだ。鼻先から尾まで八メートル。翼は左右で十二。人をその幅から出す」
大きさを聞いて、私は到着した日の控室の椅子を思い出した。
あの椅子を十二メートルへ並べたら、何人の花嫁候補が座れるだろう。全員が一度に移動したら、さぞ賑やかだ。
私はそれを背中につけている。
そっと、翼の根を動かす。
薄い膜が背中から離れていった。最初は肩の後ろへ手がもう二本生えたみたいにぎこちなく、広がる途中で左だけ引っかかる。
引っかかっていたのは、私の力だった。
胸を詰めていると、背中も固くなる。
鼻から息を出し、前足を少し開く。翼の先が遠くへ伸びた。
庭番たちがいっせいに線の向こうへ下がる。
白い傘も、その向こうへ動いた。
殿下は傘を開いていた。
声は聞こえるが、今は言葉より青い上着の位置が分かりやすい。白墨の線のすぐ向こう。彼が立っているから、空き地がきれいな四角ではないことも見える。
土の端が斜めになるところ。柵が途中で近づくところ。
私の足は、そこへ置かない。
キリさんが腕を上げる。
試しに翼を下へ押したら、自分の足の下の土が消えた。
消えた、と思った。
実際には庭の土が、私の体から離れたのだ。
足をつけなおそうとすると、どこにも届かない。
前足が二つ、宙を掴む。
飛んでいる。
尾は足場にならず、背中の重みだったものが、今は体を吊っている。慌てて翼を戻すと少し下がる。もう一度下へ押すと、また上がった。
その二度目で、温室の屋根が目の高さへ来た。
白い骨組みの中に、温室の木の支えが見える。
あそこを口にくわえていたのか。
ずいぶん変なところから、初めてのお城を見ていたのだな。
今はもっと変なところにいる。
庭の端を回り、城壁へ鼻を向ける。
壁の向こうが、少しだけ見えた。
白い屋根。杏子の色をした日除け。通りを曲がる荷車の上で、何かの布が四角く揺れている。いつもは馬車の窓から順番に見るものが、一枚の大きな絵になっている。
あの先に、自分の家がある。
馬車で半日。
飛べば、どれくらいだろう。
鼻先が城壁の方へ少し進んだ。
すると左の翼へ、横から風が入る。私の体が、行きたい方ではない方へ傾く。
足は土を押せない。
さっきまで三点を残してから動かしていた私は、残せるものがなくなって、翼を二つとも強く動かしかけた。
羽音で、キリさんの声が消える。
白い傘が閉じた。
私は鼻先を戻した。
進むな。
今、自分がどこへ向かっているかより、あの傘の意味の方が分かる。
体を西庭の上へ寄せると、白い傘はもう一度開いた。
青い袖が、空き地の横を指す。
城壁の先を見るのをやめ、そこへ戻る道を見る。
最初に出かけるのは、降りられるところまで。
空の遠さは、明日も残る。
前足を下げると、体が前へ傾いた。
降りたいのに、鼻から土へ行きそうになる。私は頭を少し上げ、翼を横へ広げてみた。下がる速さがゆるくなる。尾はどうする。昨日見た金竜は、着く前に尾を下げていた。
先端を下へ。
大きな体の後ろが、先に土へ近づいた。
傘の白い布が目の下から横へ移る。そこを見てしまうと、そちらへ降りたくなる。人がいる場所へ、私の足を置いてはいけない。
白墨の線。
こちら側の土。
人間の頃から、足を置く場所を先に探していた。あの石に乗ってから次を探せば間に合うと思い、岩の途中で泣いた日も覚えている。
先に土を選ぶ。
低くなった体の下で、翼が起こす風に土の粉が横へ逃げる。もっと低くなれば、あの粉を人のいる線の向こうへ押してしまう。翼を動かす幅を狭くし、粉が白い靴へ届かないところで、最後の重みを土へ渡した。
尾の先が触れた。
後ろ足がつく。
前足を下ろし、翼を畳もうとした。
土の上で、体がまだ少し滑る。
とっさに爪を立て、線の手前で止まった。白い傘が、私の鼻からちょうど見える。
殿下の靴は、線の向こう。
二つとも地面にある。
「おかえり。傘は君の足じゃなくて、僕の手だよ」
「覚えています。見ていると、そちらへ行きたくなってしまいました」
「うん。よくこっちを踏まずに戻ったね。僕の靴、今日も役に立った」
笑っている彼の顔が、初めてちょうどよい高さにあった。
私は大きな頭を、地面へ預ける。
庭の土のにおいがする。
昨日まで当たり前に足の下にあったものが、今日は帰った場所のにおいになっていた。
キリさんが翼の根を確かめ、私の爪が線の手前で止まった跡を足でなぞった。
「飛行は終わり。もっと先へ行くなら、この降り方を揃えてからだ」
「城壁の向こうを、少しだけ見ました」
「欲張ったな」
「途中で、戻りました」
「それは見た。次も戻れ」
殿下が閉じた傘を、肩に当てず両手で持っている。
彼が飛行を怖いと思うなら、私の短い飛行を下から見ている時も、少しは怖かったかもしれない。声には出ていなかったけれど、傘を持つ指は布へ食い込んでいた。
その指を見ると、遠くまで飛びたかったと言う代わりに、私は鼻先を低くした。
「帰るところが見えました」
殿下は傘を脇へ置く。
「うん。僕も、君が戻ってくるところを見た」
八時十分、銀かんを自分で外した。
人間の足が土へ乗り、今度はお尻から落ちなかった。さっき自分が残した大きな爪跡をまたいで、皮を持って椅子へ行く。
掌に力が残っている気がする。なのに皮は、また薄い肩掛けの重さしかない。
庭師が西庭の真ん中へ、丸めた縄を置いた。
「ここへ降りるなら、明日から水を撒く順を変えるよ。人の通り道は、外へ回す」
隣の職人長屋に住むおばあさんが、籠を持って石段を下りてきた。
中の葉菜は全部残っている。よかった。
彼女はそれを庭師へ渡し、別の小さな包みを私へ差し出す。半分に切った杏子が二つ入っていた。
「飛んだ分はまだよく分からないけど、降りる時に葉っぱを避けたのは見たよ」
「飛ぶ前に、言っていただいたので」
「そう。聞く人なら、また場所の話ができる」
皮を脇へ置いて受け取った杏子は、竜の時の私なら鼻先で隠してしまう大きさだった。
今は指でつまめる。
人間の口へひとつ入れると、甘い汁が出た。
殿下が隣で、何か言いたそうに私の頬を見る。
「その味、覚えとこうかな」
「殿下の分も、ひとつあります」
「今の分より、今度の分の話。君、大きい方と小さい方で、同じものが好き?」
私は杏子を持ったまま、背後のモロへ振り向いた。
本物の竜は、おばあさんの籠を見ている。
葉菜の籠ではなく、酸っぱい杏子の入った方を。




