第4話 王子様は足を地面につけたい
王子様を空へお誘いするのは、私の方が先だと思っていた。
西庭の線を描いてくれたお礼に、飛べるようになったら、一番に背中へ乗っていただこう。そう考えながら皮を取りこむと、窓の影が床へ戻った。
私の飛びたい気持ちまで薄く見えてしまいそうで、そのところを手のひらで覆った。
朝の練習が終わって数時間。皮は使える。
けれどキリさんの点検と、飛ぶ場所の相談が先。私はまだ、自分の頭より上へさえ手を伸ばしていない。
昼の鐘に合わせて竜舎へ行くと、殿下が低い石段へ座っていた。
靴の踵で土を押している。
白墨で描いた自分の丸が、片方だけ薄くなる。
私が隣へ座る前に、彼が靴を止めた。
「朝の線、消してもよかったかな」
「残していただけると、助かります。明日も使えるので」
「じゃあ、僕の丸も残す」
片方の薄くなった丸を、爪先でなぞり直す。
私の座る石段には、竜のままではお尻しか乗らない。尾も翼もどこかへ置かなければならないのに、人間の私は皮を隣へ置くだけで済む。
小さい体は、とても楽だ。
でも空は、大きい方についている。
殿下は、私の持つ皮を見て口を開いた。
「ねえ。明日、飛ぶの」
「キリさんが、確かめてくださってからです」
「そうか。じゃあ今日のうちに言おう。僕、空が怖いんだ」
あまりにも普通の声だった。
私が少し返事を待っていると、殿下は靴底を持ち上げ、地面へぺたりと戻した。
「高いところから下を見ると、この下に地面がないんだって、足が気づく。それで僕は、地面のあるところへ行きたい。たいへん正直な足だよ」
「竜には、お乗りにならないのですか」
「乗らない。乗せる相談をする人はいるけど、僕にも聞いてほしいなと思ってる」
私の手が、皮の端で止まる。
今まさに、その相談を始めるつもりだった。
彼には一度も聞いていなかった。
青い袖の先に、擦れた跡があった。私を立たせた時のものだろうか。気になって見ていると、殿下が袖を引っ張った。屋根の下で鉢を持っていた手は、王子様の立派な手というより、そういう大きさの人の手だ。
この手と、土につけた足。
どちらも勝手に、私の竜へ連れていってよいわけがない。
「朝の線のお礼に、お乗せしようと思っていました」
「うん。ありがとう。僕に乗る場所をくれるのは嬉しいよ。でも今日は、考えただけで指が冷たくなる」
彼は本当に両手を膝の間へ入れた。
言わなかったら、私には分からなかった。
笑っている口だけを見ていれば、すべてを面白がっている人に見える。思い返せば、温室でも動く前にまず鉢を持っていた。逃げるための手を塞いでいたのか、ただ置き忘れたくなかったのか。
分からないことを、今、ひとつ聞けた。
竜舎の屋根で金竜が動いた。
瓦が少し鳴り、翼の影が石段へかかる。
殿下の踵が、私の靴の隣へ寄った。
金竜は私たちの上を飛び越え、遠い鐘楼へ移る。人間の私が見ていても、足が離れる瞬間が軽い。あんなふうに、飛べるのだろうか。
見送り終えて隣を見ると、殿下は土を見ていた。
「今、たいへんかっこいいところを見逃した気がする」
「鐘楼の屋根へ、行きました。着く前に、尾を少し下げていました」
「尾を下げる。なるほど。モロもよく下げるよ。あれは、自分の分の屋根を空けさせる時だけど」
王子様は、誰がどこへ飛ぶかより、どこへ降りるかを知っているらしい。
皮を椅子に置き、石段から土へ下りた。
昨日の温室では、助ける道を私の前足が塞いでいた。今朝も、自分の行く先を見ると尾が勝手についてきた。
空へ上がったら、尾がどちらを向いているか、私はどう確かめるのだろう。
地面の高さも、分からなくなるかもしれない。
殿下の足元の丸を、私は見た。
あそこからなら、大きな体の全部が見える。
「私が飛ぶところを、見ていていただけますか」
「見物? それなら僕は、たいへん得意だ」
「見物より、お仕事に近いです。私がどこへ降りたらよいか、教えてください」
彼の手が膝の間から出る。
指は、まだ冷たそうな色をしている。
「僕が。君に地面を教えるの」
「私は上からしか見えなくなります。殿下は、地面から見てください」
答えてから、私はまた人の用事を先に決めかけたのだと気づいた。
もう一つ聞く。
「それなら、してみたいですか」
殿下は、薄くなった自分の丸へ立った。
「うん。それなら、靴を脱がなくてよさそう」
キリさんが来ると、殿下は立ったまま手を上げた。
空を見ておらず、彼女の顔を見ている。
「僕、明日の地上係をしたい。ニカに降りるところを伝える人」
「見物と係は別です。殿下の好きな時に、声を出す仕事ではありません」
「僕の好きな時は、おやつの時だから、そこは我慢できるよ」
「ご自分を餌の時間で数えないでください」
彼女は私の皮へ手を伸ばす前に、殿下の靴を見た。
土へ描いた丸の中に、二つとも収まっている。
次に西庭を見る。さっき金竜が飛び立った屋根と、私が歩いた線。それぞれへ指を向け、庭のどの位置なら体の横が見えるかを殿下へ尋ねた。
彼は丸から出て、石段の隣へ移る。
温室の方を指し、西庭をもう一度見る。
「こっちでは柵が邪魔。あっちなら見える。でも庭師が水を流すから、朝は土が柔らかいね」
「なら、庭師に確かめる。ご存じでも、今日の土は別です」
王子様も確かめられる側になる。
私は少し、口元が緩んだ。
自分だけが石を押していた朝より、その方がよい。
庭師は西庭の端まで一緒に来てくれた。
今朝、竜の足跡を埋めた場所を説明し、菜園へ繋がる細い通りを指す。そこは人が通るので、着陸の目印を置かない。屋根の上には、干した葉菜の籠もあるという。
飛べば道の上を通れる。
でも降りる時には、またこの人たちの地面を借りるのだ。
キリさんが、白い傘を庭師から受け取った。
雨の傘よりも骨が短く、丸い布がよく張っている。庭で日を避けるための傘らしい。
殿下の青い上着と、並べると見つけやすい。
「最初はこれを、降りてよい場所へ立てる。開いていたらこちら。閉じたら進むな」
「僕の声だけでは、だめかな」
「風があれば聞こえません。それに、借り手は初飛行です。全部を聞けると思わないでください」
キリさんは私にも傘を渡した。
私は開いた状態と閉じた状態を見て、もう一度開く。
これなら目で分かる。
でも、白い傘は空から見ると、白い石と似ているかもしれない。
前足の何本目だとか、屋根の端のどちらだとか、飛ぶ前から難しいことを増やしたくない。
「この傘の下だけには、必ず人がいますか」
「人がいます。だから、傘の真上へは降りるな。横だ」
傘を避けて、白い布の外へ自分の靴を置く。
傘が立つ場所と、竜が降りる場所。
人がいる方と、私の足が置かれる方。
朝の線と同じだった。
殿下が土へ、白墨で短い線を引く。傘は線の向こう。私の靴はこちら。
「君が足を置く道。今度は帰ってくるための道だね」
私たちは、皮を使わずに合図を試した。
殿下が傘を開き、私は十歩ほど離れて立つ。彼が閉じたら止まる。開いたら進む。キリさんは横から、彼が私を見ているか、足元だけ見ているかを確かめる。
一度、殿下はつまずきかけた。
傘の開く方へ目を奪われたらしい。彼自身の丸の中にも小石があった。
拾おうと手を出し、そこで止めた。
殿下が自分で足をずらしてから、その石を脇へ押す。
私の助ける手は、今日はまだ二つしかない。
全部を先に使いきらずに済んだ。
十三時の鐘が響く。
キリさんが飛行は明日と念を押し、皮を部屋へ運んでくれた。私は石段へ座り直し、少し空を見た。鐘楼の金竜は、まだ同じ屋根にいる。
隣で、殿下が傘を閉じた。
先ほど冷たかった指が、今は白墨で白い。
「ニカ。明日、帰ってくる時に、僕を見つけられるかな」
「青い上着と、白い傘を見つけます」
「よかった。青い方は、いつも通りでいいんだ」
私は地面に残った丸を見た。
その中へ、彼はもう一度、両足を揃えて置く。
空を怖がる人が、私の帰る場所を覚えていた。




