第3話 尾にも足場が要る
「まず、人間のまま歩いてみろ」
キリさんが指したのは、西庭の端に置かれた石の列だった。
竜の皮は、まだ私の腕にかかっている。飛ぶ日を思って昨夜は何度も窓の外を見たのに、朝の課題は人間の歩行。石と石の間は、私の足なら普通にまたげる。
疑わしい顔が出たのだろう。
キリさんは、折った袖をもう一折りした。
「いきなり翼で考えると、足が足りなくなる。足の使い方を見る」
「人間の足を、でしょうか」
「考え方はそっちのままだろう」
それは確かに。
昨日のお昼、ダフネと机を運ぶ時には人間の指へ戻っていた。でも庭師が木を持つのを見ると、頭の中では大きな前足を伸ばしてしまった。もう竜の方が好きになっているのか、ただ便利な方を覚えたのか、自分でも分からない。
皮を地面へ置こうとして止め、近くの空いた椅子へ広げた。
石に左足を乗せる。
次の石には手をつかなくても届く。足を移し、一つ飛ばして渡ってみせた。
キリさんの目が、私の手元へ来る。
「飛ばすな。全部の石に乗って」
戻って、やり直す。
途中の石を靴で軽く押してから乗ると、下の土が沈んだ。浮いた端を避けて足の裏を置く。少し面倒。けれど石切り場でも、見た目のよい石ほど、置いてあるだけということがあった。
最後まで渡ると、キリさんが沈んだ石を指した。
「今、そこを避けたのは」
「乗ると、端が上がります。向こうの石まで飛ばせば早いのですが」
「早くしなくていい。今日はどこに乗るかを覚える」
合格とも不合格とも言われない。
ただ、皮を着ける場所だけは指してもらえた。西庭の真ん中。周囲から人が離れ、昨日よりずっと広い空き地ができる。
八時六分、銀かんを留めた。
皮の重みが肩から背へ広がる。視界が上がり、石の列が私の前足より小さくなった。靴一足の幅で沈むかを確かめていたのに、今は石の列を全部踏めてしまう。
踏んではいけない。
そう思って前足を引くと、尾が動いた。
自分ではまっすぐ下ろしたつもりなのに、後ろで乾いた音。キリさんがそちらを見る。柳の枝を編んだ柵が、真ん中で折れている。
尾の先が、その編み目に刺さっていた。
折れた柵へ顔を伏せた。
「借りた体を、返してから謝った方がよいですか」
「先に動かすな。人を入れる」
二人の庭番が尾の先から枝を外してくれる。
私の尾で壊れたものを、私の小さな手で直せないのは、変な気分になる。大きい方が早いと思っていたはずなのに、人間の彼らは器用に枝をほどき、尖った先を地面へ寝かせた。
動いてもよいと、キリさんの手が上がる。
後ろを振り返ると、今度は首に前足がついてきそうになった。
「置いた足まで連れてくるな」
「連れてくるつもりは、ないのですが」
首だけ振り向く。そのつもりで、鼻先をゆっくり右へ回した。
首は回った。
尾も回る。
そういう体なのだろうか。それとも私が、目で見たところへ全部動かそうとしているのだろうか。
モロは西庭の端で寝ている。尻尾の先だけが、昼寝場所に飛んだ葉っぱを追い払っていた。向こうにはずいぶん簡単そうな体がある。
こちらには、これしかない。
キリさんは、足を一つずつ白墨の丸へ置けと言った。
石の列を避けた広い土に、墨竜の歩幅に合わせた大きな丸が四つ。私はその中に前足を置き、後ろ足も入れてから、次の丸を見る。
右前足を動かす。
右後ろ足も動かしたくなる。人間なら、歩く時には右足と左足を交互に出す。それを前だけでやればよいと思っていたのに、後ろの足まで気になり、どこも動けなくなった。
四つあるのだから二つは休んでいてほしい。
体の持ち主へ文句は言えない。
次の丸を見る代わりに、残す三つの丸を見た。
左前足。右後ろ足。左後ろ足。
昨日、梁を持つ時にはそれができた。上から屋根が落ちる時だけ足の数が合うというのも、たいへん困った性分だと思う。
右前足を土へ置く。
丸のふちを少し外れた。
キリさんは直させず、次の足を指した。
「転んでない。いい。その足も一つとして数えろ」
外れた足でも、残す足にはなる。
今度は左後ろ足を寄せた。
前ではなく、横。尾がそれを引き止めたがる。私は尾の先を石の溝へ押し、そこも残したまま、足だけ動かすことにした。
腰のあたりが、ねじった布みたいに引かれる。
力を抜くと、後ろ足が丸へ届いた。
キリさんが白墨を手に取る。
次の丸は、私の足が届いた方へ描かれた。
最初から置かれた石と違う。
私の歩けたところに道が増える。
丸を四つ、二度ほど進んだところで、青い上着が庭へ来た。
今日は袖が破れていない。
殿下は折れた柵をまたぎ、庭番から白墨を一つ受け取ってこちらを見る。
「ああ。顔合わせの廊下に、君を呼ぶ札がまだあった。外してきたよ」
「ありがとうございます。今なら廊下も壊しそうです」
「それは廊下が小さすぎる。母上には言わないでね」
殿下が私の前へしゃがむ。
丸を描こうとして、途中で白墨が折れた。そこで折れた二つを両手に持ち、一本の線へ変える。
線は、私の爪の横を通っている。
「この線からこっちは、僕らの道。そっちは、君の足の道にしよう」
人を踏まないための線。
その向こうへ誰も来なければ、足の行く先を考える時に、毎回人の場所を探さなくてよい。私は線のこちらへ前足を置いた。殿下は顔を上げ、私の爪と自分の白墨を並べる。
「僕が線を引いていると、君の爪が追いかけてくるね」
「そちらへ乗りたいわけではありません」
「うん。乗られたら、僕の方がだいぶ薄くなる」
彼は線を曲げ、庭の端の小さな椅子まで繋げた。
ニカの席だよ、とは言わなかった。
座るところまで道があるのを見て、私は前足をもう一度、その隣へ置いてみる。
土が少し沈み、輪郭がくっきり残った。
庭番が腰を伸ばして、足跡の深さを見ている。
「その足跡で、水がたまる場所が分かるな。あとで埋めとこう」
歩くだけの練習にも、見ている人には別の使い道があるらしい。
八時十五分の鐘が鳴る前に、皮を脱ぐ練習へ移った。
座って、胸を前足の間へ下ろす。昨日は王子の指が細くて羨ましかった。今日は借りた自分の爪を使う。
押し爪は、この銀かんの上。
かんの輪は、この下。
一本の爪ですべてを動かそうとしてはいけない。右の爪で押し、左の爪を輪へそっと入れる。紙の端を爪で拾う時の、小さな動き。
左胸の鱗が見える。
翼の根のあたりに、一枚だけ白いものが混じっていた。昨日は気づかなかった。よく見ると、そのすぐ下の皮に細い筋。今は銀かんを先に。
押す。
引く。
私は土へ、お尻から落ちた。
座ってから脱いだのに、人間の座る高さまで最後に下がる。しっぽで支えるつもりになってしまう。もうない。ないものに頼って、掌をつくのが遅れた。
殿下が手を出しかけ、私を見て止める。
「今度は、立つための手。木片は乗せてないよ」
その手を借りて立ち上がった。
膝は二つ。
土の上には、私の靴の何倍もある前足の跡が四つずつ、少しずつ横へずれて残っている。あまりきれいな道ではなかったが、一本の長い線に沿って、歩いたことは分かった。
皮を広げると、先ほどの白い鱗も平たくなった。
キリさんがそこへ触れ、爪を立てず指の腹で撫でる。
「古い皮だな。ここへ物を引っかけないでくれ」
「飛んでも、大丈夫でしょうか」
「飛ぶ前に、また見る。今日は柵だ」
彼女の指が、折れた柳の枝へ向かった。
私は借りた手ではなく、自分の手で枝を拾う。庭番が新しい細枝を持ってきた。どれを差すか教えてもらい、膝を土につける。今度は膝を揃えなくてもよい。
隣に、殿下もしゃがんだ。
白墨で汚れた指を、枝の間へ入れている。
「殿下が、柵を直すのですか」
「うん。僕にも四本くらいの指は残ってる。全部で十本だけど、白墨を持つと六本は塞がるから」
彼の向こうでは、キリさんが笑いをこらえて鼻の横をこすった。
私たちは庭番の指示どおり、枝を二本、結び直す。
柵を持ち上げると、隙間から殿下の引いた線が見えた。線は空へ伸びていない。土の上を曲がり、私のための椅子へ着いている。
殿下は手に残った白墨を見て、もう一つ、小さな丸を描いた。
椅子の隣。
自分の靴が二つ入る、大きさだった。




