第2話 人間の椅子は小さい
銀かんの輪に、王子の指が入った。
その指を見ていると、自分がどれだけ大きいのか、また分からなくなる。さっきまで私の手に収まっていた人の指は、この留め金をつまむにはちょうどよい。
私は胸を地面に近づけた。
背後のモロも頭を伏せる。同じ顔が並ぶと、どちらに声をかけたらいいか迷うらしく、殿下は二度、左右を見比べた。
「喋る方のニカ。今、外すよ」
「モロに頼まないでくださいね」
かちり。
体が小さくなる時、風は背中の向こうへ抜けていった。大きな前足のあった場所へ私の両手が落ち、膝はやっと二つになる。頬へ、自分の髪がかかった。
座っている。花壇の土の上に。
ドレスは元どおりだ。裾に靴跡が三つついているけれど、それは竜になる前から。大きな姿で土を踏んだのに、靴の中には土も入っていなかった。
首から滑り落ちた黒い皮を拾う。
殿下が、少し離れたところで両手をひらひらさせる。
「初めまして。人間のニカ」
「先ほども、お会いしました」
「大きい方にはね。こっちの方には、これから鉢を預けられる」
彼の足元には、例の植木鉢がある。割れていない。それがなんとなく悔しくて、膝についた石灰を払う手に力が入った。
私は温室の樋を曲げたのに。
それに、この人は私が思っていた王子様とだいぶ違う。
黒髪の女性が、温室の時計を見る。
「九時十四分。間に合った。私がキリだ。竜隊の副長をしている」
彼女は皮を広げ、指先で縁を確かめた。人間の服の大きさに戻った皮は、薄い肩掛けぐらいしかない。あの翼の、どこまでがここに入っているのか。
キリさんが銀かんを裏返す。
小さな押し爪がついている。それを押してから、かんを引くのだという。
さっき私は輪を引っ張っていた。順番が逆。竜の体を得ても、不器用なところは直らなかったらしい。
「一回十二分まで。十三分目には勝手に戻る。空中で戻れば、そのまま落ちる」
皮を持つ指を、私は止めた。
空中。
この皮には、飛ぶための翼もある。
先ほどは口と足と尾に忙しく、翼を一度も広げていない。背中の薄い重みを思い出そうとすると、もうそこには人間の肩甲骨しかなかった。
キリさんは銀かんを三度、指で叩く。
「一日三回。日が昇れば回数が戻る。同じ日には四回目は使えない。脱いだら二時間、広げて干す。折って置くな」
「では、今日もあと二回は」
「できることと、していいことは違う。まず歩け」
それは石切り場でも言われることだ。
皮を広げたまま頷きかけ、そこへ口を出した殿下を見る。
「その前に、人間にも朝ご飯を。屋根って栄養になるのかな」
「飲みこんでいません」
「よかった。おかわりの心配がなくなった」
彼が片手を伸ばす。
立たせてもらおうと手を取ると、私の手のひらに小さな木片が乗った。さっき牙の間から外したものらしい。
持っていてもらいたかっただけか。
殿下はそのあとで、もう片方の手を出して私を立たせた。言ってくれればよいのに。王子様の手は、使い道がよく変わる。
顔合わせの部屋へ着く頃には、殿下は別の青い上着に着替えていた。
私は裾についた石灰を払っただけ。小さな袋に入れた木片と、通風のため両手で広げた皮を持っている。王城の床はつるつるしていて、こんなに足の裏を滑らせて歩いたことはない。
竜になっても、人間になっても、歩きにくい日だった。
部屋の壁に沿って、細い脚の椅子が並ぶ。
花嫁候補の椅子。
座面が高い。膝を揃えて座るにはよさそうだけれど、足を床へつけると、裾がまた引っかかる。
中央の席には、女王陛下がいた。
赤い石の指輪をつけた手を、茶碗の取っ手へ添えている。目を合わせたあとで、その手は私の持つ皮へ移った。
「ルド家のお嬢さん。温室を直す費用の話を先にしましょうか」
「……私が壊したところは、働いてお返しします」
「そう。梁が落ちきらずに済んだ話も聞きました。それは私からお礼を言います」
頭を下げると、持っていた皮の端が床につく。
拾おうとして、自分のドレスの裾もつかんでしまう。陛下の茶碗が、受け皿へ戻された。
見られている。
膝を揃えることも、きれいに歩くことも、今日の私はもう十分失敗した。だったら、これ以上この椅子を占めていない方がよい。
「陛下。花嫁候補を辞退しても、よろしいでしょうか」
斜め後ろで、誰かが紙を折る音。
殿下が椅子の背から手を離す。
陛下は、私の顔を見たまま返事をしない。怖い顔ではないけれど、茶碗の方へ逃げようとした私の目もつかまえてしまう。
「トビアと話してみて、嫌だったのですか」
「いいえ。あの。まだ、ほとんど屋根の話しかしていませんので」
部屋の向こうから短い笑い声がした。
皮を持ち直す。
「じっと座っていると、ほかに空いている手はないかと探してしまうのです。向こうで大きな音がしたら、そちらへ行きたくなります。よく考えずに、行ってしまいました」
「今日は、行ってよかったのでしょう」
「壊したところもあります。でも……飛んでみたいです」
最後の言葉だけ、先に出た。
温室の梁より、さっきの翼の重みがよみがえる。
人間に戻るまで知らなかった。あれを失ってから、広げてみたかったと分かるなんて。
私の答えは、立派な花嫁候補の答えではなかった。かといって、立派なお役に立つ人の答えでもない。どこに置いたらいいのか、自分でもまだ分からない。
殿下が、椅子を一つ引いた。
私のためかと思うと、そこへ自分が座り、陛下を見上げる。
「僕の顔合わせより、先に竜の歩き方を教えた方がよさそうだね」
「あなたの顔合わせを、あなたが片づけないように」
「片づけてはいないよ。椅子を減らしているだけ」
陛下は、その椅子の背に目をやってから、私へ戻した。
「辞退は構いません。まだ婚約の話にもなっていませんし。ただ、温室のために望まない仕事を引き受けることはありません」
答えようと口を開きかけた。
働けばここにいてもいいのか、という言葉を飲みこむ。
陛下に聞かれたのは、何をしたいかという話だった。
「今日から十七日後に、王都の竜祭があります。まず副長について試演をしてみなさい。危ないようなら飛ぶところまでは進めません。どうします」
「歩くところから、教えていただきたいです」
答えると、キリさんが皮を私から受け取った。
腕が急に軽くなる。
その軽さを、私は少し持て余した。
泊まる部屋は、竜舎の脇に変わった。
顔合わせの客室に比べると窓が低く、椅子の脚も太い。足を床へつけて座れる。皮は窓の外の陰へ広げられ、札に九時十四分と書かれていた。二時間後。十一時十四分までは使わない。
私は壁の時計を見て、椅子の縁を指で撫でた。
座れた。
何も持っていない。
外では庭師が、白い木の支えを運んでいる。その一人が窓に気づき、屋根の下の方へ指をやった。
「ここ、まだお前さんの歯の跡があるよ。残しておこうか」
「なるべく消していただきたいです」
庭師は笑いながら、道具を持って先へ行った。
その背中を見送っていると、扉から何かが突き出してきた。
茶色い机の角。
続いて、明るい髪の少女の顔。
「そこの窓、いいね。あたしも一緒にお昼にしていい?」
机のもう一方を、侍女が持っている。少女の足の先で、扉がずりずり押された。
椅子から立って、その足の代わりに扉を広げる。
同じ顔合わせに来ていた女の子が、胸を張った。
「ありがと。あたし、ダフネ。王子様を屋根ごと食べた子って、あんた?」
「どちらも食べていません。ニカです」
「名前、ちゃんと聞けてよかった。机の右、持てる?」
私は机の角をつかんだ。
竜だったら一人で持てただろう。
でも今は三人で持てば、足を踏まずに通れる。
窓から入る風で、外に干した皮の縁が浮いた。ダフネはそれを見て口を開け、それから自分で持っていた机を下ろす方に忙しくなった。
机の脚が四つ、床に落ち着く。
彼女は運んできた椅子へ座り、私の椅子にも手を置く。
「それ、あんたの席ね。お皿、二つ借りてきたから」




