第1話 花嫁候補は屋根をかじる
私は今、王城の温室を口で支えている。
左の牙に雨樋が引っかかり、右の牙から白い石灰がぽろぽろ落ちる。お父様。お嫁に行く前に、お城を食べた娘は我が家にいましたか。
もちろん、いない。
それどころか今朝の手紙には、膝を揃えて座っているように、と書いてあった。膝は揃えたい。できれば。しかし今の私には、四つもある。
話は少し前に戻る。
顔合わせの控室で、私は三度、ドレスの裾を踏んだ。四度目を避けるために庭へ出ると、温室の裏に墨色の竜が寝ている。体の半分が日向へはみ出し、その半分だけ尻尾を苛立たしげに振っていた。
空いた日陰には、私のための小さな椅子。
椅子をずらしたら、竜は鼻先をすべりこませた。こちらの肩を押すので、離れた方がいいのかと思うと、もう一度押される。今度は薄い皮を押しつけてきた。
抜け殻だ。
竜が貸した皮を着れば、その竜の姿になれる。子どもでも知っている。ただし貸してもらえる人は少なく、石切り場育ちの私には、絵の中のお話も同じだった。
皮は黒い薄紙を何枚も重ねたみたいで、肩へかけるとひんやりする。竜が鼻先で前の端を合わせ、ついていた銀かんを私の指へ押した。
貸すの?
竜はまぶたを閉じて開いた。
温室の時計は九時四分。頭を通したまま、かんを留める。
次に目を開けた時には、小さな椅子が私の前足の下にあった。辛うじて足をずらし、温室に鼻をぶつけ、屋根の雨樋をくわえた。割れる音。続いて、上からもっと大きな音がする。
それで、話は今に戻る。
温室の中から悲鳴が上がった。
梁の端が外れている。私がぶつけたところから、屋根の白い骨組みが斜めに沈み、その下に青い上着の青年が一人。もう一人の庭師は、反対側の戸から外へ転がり出た。
青年だけが動かない。
両手に植木鉢を持って、上を見ている。
「鉢は置いてください。足を動かしてください」
口から出た声に、自分で背筋を伸ばしかけた。井戸の底から呼ぶみたいに低い。背筋を動かすと屋根も動く。やめた。今は、竜になった感想を述べている時ではない。
青年がこちらを見た。
「えっ。君、喋るの。モロは喋らないけど」
「誰かの名前でしょうか」
「君の姿の持ち主。ちょっと待って。その牙の間に鉢を置いてもいい?」
「よくありません。屋根を持っています」
植木鉢がやっと床へ下ろされる。
向こうの出口まで、青年の背丈より大きなガラス板が斜めになっている。下を通れば落ちてくる。上をくぐるには高い。こちらへ戻る道は、私の前足が塞いでいた。
困った。私が助けるための道に、私がいる。
しかも大きい。
石切り場で遊んでいた頃、出口を先に見るのが苦手な子は、低い壁の途中で泣いた。私も二度泣き、お父様に首の後ろをつかんで降ろされた。上へ届くことと、帰れることは違う。
まず、青年の帰り道。
右前足を動かせば、外へ通じる戸を広げられる。
そのかわり、屋根を受けている私の頭が下がる。
地面を見る。左前足の下は土。右後ろ足の下には石敷き。左後ろ足は花壇の縁だ。私の尾は、ずいぶん向こうの水盤をひっくり返そうとしている。
水盤は後で謝る。
尾を寄せると、背中の筋肉まで引っ張られる感じがした。初めて動かす手を背中につけられたようで、少々気持ちが悪い。先端を探って地面に押しつける。滑る。そこではだめ。
石敷きの継ぎ目へ、もう一度。
ここなら。
重みを後ろへ移す。口の中の梁が軋み、牙の根元まで振動が来る。噛み砕いてはいけない。石切り場の岩なら割れ具合を見ればよかったのに、木の梁は口に入れたことがない。
ゆっくり力を抜くと、軋みが減った。
息を鼻から出す。花壇の土が舞い、青年が目を細める。
「くしゃみは、まだ待ってね」
「私がお願いしたいです」
右前足を、戸の向こうへずらした。
青年の表情が変わる。私が道を開けたことには気づいたらしい。でも一歩進むと、ガラス板がまた鳴る。
梁の端を持っているだけでは、その板の枠を支えられない。八メートル近い竜の体はとても便利で、とても邪魔で、頭は一つしかなかった。
もっと器用な竜を借りればよかった。
選べる立場でもないけれど。
戸の外へ黒い髪の女性が走ってきた。袖を肘まで折り、腰には細い革紐。こちらを見たあと、青年に声を飛ばす。
「殿下。鉢より先に逃げてください」
殿下。
この人が、顔合わせの相手。
私の膝が四つある今に限って、初めましてをしなければならないのか。
青年は鉢を片足で遠くへ押し、やっと空いた手で私へ合図した。
「僕はトビア。君の名前、先に聞いておこうかな」
「ニカです。名乗り直す時には、人間でいたいです」
「うん。その時は屋根も置いてきて」
戸の外の女性が、革紐の端でガラスの枠を引こうとしている。一人では動かない。もう一人が寄ってくるけれど、下から触れば、その人にも落ちる。
私には、まだ片方の前足がある。
尾と後ろの二本を残せば、こちらも動かせるはず。
人間の三点。竜の三点。
数え終えてから、左前足の爪を伸ばす。
爪の先は刃物みたいに見える。細い枠へ直接引っかけたら、そこだけ切れてしまう。掌の腹を当てる。私にも掌はある。分厚く、温かく、石の粉とは違う土がついている。
ガラス板の枠を包み、その向きを少し変えた。
戸の外から、女性が叫ぶ。
「そこまで。人を通す」
彼女は王子の腕をつかみ、こちらへ引いた。
王子の足が浮く。
跳んだのかと思ったら、床の割れた縁でつまずいたらしい。私は反射的に、伸ばしていた掌を低くした。彼の青い袖が掌の横へ滑り、指二本の間に収まる。
手を閉じかけて、止める。
握ったらだめ。私の手の大きさは、さっきまでと違う。
半分だけ曲げる。囲うだけ。
王子は私の掌の上で膝をつき、指の一本につかまった。
「ニカ。僕を食べないなら、そのまま外までお願い」
「食べる予定はありません」
「よかった。朝ご飯が途中だから、僕もお腹の中身が中途半端なんだ」
女性に足首を持ってもらいながら、王子を土の上へ下ろす。まず彼の靴がつき、次に私の指から手が離れる。
本当に離れたことを見てから、掌を引いた。
外の人たちが、いっせいに動きだした。
庭師が王子の肩から石灰を払い、別の人がつかまえていたガラス板の下へ木の支えを入れる。背の高い青年が二人で横木を担ぎ、もう一つ支えを立てた。
私は口を開けたい。
口の中が、お父様の書斎にある乾いた木箱みたいな味になっている。
黒髪の女性が横木を叩き、確かめた。
「もう離していい。少しずつだ」
頭を下げる。
梁が木の支えに乗る。私の牙から、雨樋が外れない。
首を振りかけると、王子が片手を上げた。
「そのまま。僕が取る。君、もう屋根はおかわりしなくていいから」
私の下顎へ寄りかからず、横から手を伸ばし、曲がった雨樋を外してくれる。彼の髪にも白い粉がついていた。青い袖は破け、朝から大変な殿下である。
私の方は朝から竜なので、張り合えない。
口を開けると、土へ木片が二つ落ちた。
庭師の一人が、落ちた木片と私の牙を見比べた。
「モロじゃないのか。この子が支えたのか」
キリさんが、私の肩へ手を置いた。
「借り手だ。モロなら鉢を食べて終わる」
王子がその言葉を聞きつける。
「鉢は食べないよ。中の杏子は食べるけど」
大きな鼻息が、私のすぐ後ろで鳴った。
庭の日陰から、本物の墨竜がこちらを見ている。王子が指さして、片方の口角を上げた。
「ほら、鉢じゃないと言ってる」
本物と、借り物。
同じ大きな鼻が二つあるのを見て、庭師は帽子を取ったりかぶったりした。私は見ないふりをして、左胸を覗きこむ。
銀かんはそこに残っている。
人間に戻れる。
かんを外せばいい。
それだけのはずなのに、私の前足の爪は、かんの輪よりずっと太い。
手をつけると、自分の胸の鱗をひっかいた。
王子が覗きこむ。
「……ニカ。花嫁候補の顔合わせ、そろそろ始まるけど」
私は爪と銀かんを見比べた。
「この姿で座れる椅子は、ありますか」




