第35話 竜祭の空は曲がれない
黄色の旗が、棒へ巻きついた。
朝の会場で、指を伸ばして布をほどく。ほどいたそばから、風が反対へ押し戻した。
昨日の風とは向きが違う。
殿下は舞台の入口で、客の列を二つに分けていた。空の挨拶を予定していた王太子殿下は強風で飛ばず、陛下と地上から祭を始めるという。
けれど、竜隊の最初の一周は残っていた。
飛ぶ二人は、中央の旗を見て首を寄せ合う。
キリさんが隊長へ、地面で風が変わり始めたと告げた。隊長は旗の巻きつく向きを確かめ、最初の二頭を短く戻してから、次を決めると答える。
西側を空ける方が先だという彼女の声は、客の歓声へ重なった。
呼ばれた二人が皮を着ると、客席の子が手を振る。
私はその手を見てから、隊長の腕を見た。
二人へ上がれと出された腕は、もう戻らなかった。
殿下がこちらへ来て、パンの袋を私へ見せた。
「その一周の間に、僕は戻る客の道を空けておく。君は朝食を食べていて」
袋へ手を伸ばしかけ、私は黄色の旗を見直す。
半分食べている間に、風はまた向きを変えた。
八時三十八分、二頭が中央の道から飛び立つ。
セルヴォ隊長の隊にいる借り手で、どちらも新しい点検を受けた皮だった。
その翼を見上げる。
上がる時の風は、まだ弱かった。
戻る道の横に、見慣れない待ち札が並んでいた。
近隣の竜隊から来た人たちが、旗の外へ集められている。
キリさんが昨日、別の入口にと言った場所だった。
「この待ち場は、着地に残すはずだ」
隊長は中央の道を指した。
「初めは、私の隊だけを出す。違う合図で動く者を同じ道へ混ぜない」
「混ぜる話ではない。帰る道を二つ残す話だ」
他隊の人が、札を動かしてよいか尋ねる。
隊長は先に自隊を降ろすと言い、空へ腕を上げた。
その頭上で、風が強くなった。
最初の一頭の翼が、横へ押される。
狭い道へ戻るために傾けた体が、道の端の旗へ近づいた。下の客が、一斉に顔を上げる。
二頭目はその後ろで、高さを変えずに回っている。
早く降りたいのに、降りる所がない。
時計を見る。
八時四十一分。空へ出た人たちも、戻る時刻を気にし始める頃だった。
殿下の声が、先に客へ届いた。
「中央へ入らないで。屋根のある通路へ、歩いて進んでください。荷物は抱えたまま、走らずに!」
客の列が動く。
広場に置いた箱が、まだ帰る道を塞いでいた。
キリさんへ向く。
「竜の体で、箱を端へ押せます。空へは出ません」
「西へ押せ。翼は客へ広げるな」
彼女の腕が示すのは、他隊の待ち場だった。
札を持つ男性へ、先に人を動かしてほしいと頼む。
男性は隊長へ一度顔を向けたが、また空を見て、自分の人たちを呼んだ。
「札はあとだ。竜が降りる。全員、後ろへ!」
待ち場が空く。
人が抜けた所へ、キリさんが走った。
八時四十三分、私は銀かんを留める。
鼻先で箱を押すと、地面の砂が鳴った。
前なら箱の先だけ見て動いた。でも今は、キリさんと殿下の声が動かす人の端まで見る。
尾の後ろにも、まだ荷物を拾う人がいる。
足を止める。
「後ろ、まだ一人います」
殿下がその人へ手を貸す。箱が最後まで動いたところで、私は背を空き地の外へ向けた。
一頭目が、中央へ戻ろうとした。
風を受けた翼がまた流される。
隊長が腕を上げ直すが、その合図だけでは道は広くならなかった。
キリさんは西の空き地で、両腕を大きく上げる。
「こちらへ降りろ! 中央は使わない!」
低い声を、その竜へ向けた。
「ここは空いています。左の旗の内側へ!」
顔がこちらへ向く。
竜の翼は、曲がるより先に広い場所を見つけたように、少し水平へ戻った。
横の旗を口へくわえる。
布が鼻へ掛かるので、棒の下を持つ。旗の男性が、客席からならここが見える、と腕を上げた。
その位置へ、一歩だけ動いた。
これ以上近づくと、私も着地の邪魔になる。
地面に足を広く置き、動かずに待つ。
八時四十五分、一頭目の足が空き地へ着いた。
風が下へ走り、私の頬へ砂が当たる。
相手は翼を畳み、すぐ左胸へ爪を当てた。人間へ戻った青年が、膝へ手をつく。
キリさんが彼を外へ連れ、二頭目へ同じ合図を出す。
旗は下げずにいた。
二頭目は、降りる前に一度顔を上げた。
あとで戻ればよいと考えたのか、私には分からない。
でもあの時の私も、もう少し見てからと思って曲がった。
鼻を上げず、声だけを送った。
「ここへ、今、降りてください」
鐘の時刻を、殿下が呼ぶ。
八時四十六分。
相手の足が草へ触れ、翼が閉じる。待ち札を持つ男性が飛び込もうとして、キリさんに止められた。
まだ尻尾が動いている。
人間へ戻るのを待ってから、腕を貸す。
二頭が消えると、空き地は急に広くなった。
私だけ、まだ竜の姿で旗を持っている。
殿下が鼻の前へ来た。
「旗は降ろしていい。君も帰ろう」
口を開き、棒を彼と男性へ渡す。
八時五十一分、人間へ戻る。
頬へ付いた砂を自分で拭き、両足を地面へ置き直した。
痛くない。
それを確かめて、ようやく肩から力が抜けた。
隊長が、先に降りた青年へ何があったか尋ねていた。
皮に裂けはない。風で中央の道へ入れなくなった、と二人が答える。
キリさんは空き地の札を机へ載せた。
「帰る場所へ待ち場を置いた。風が変われば替えると言った道を、そのまま使わせた」
隊長の目が、札へ落ちる。
自隊の順を先に守ろうとした、とまでは言わない。次の飛行を止める号令を出し、中央の旗を外させた。
声が届くまで、他隊の人たちは札の脇に立っている。
殿下が一人ずつ、次にどこで待つか伝えた。
今度は隊の名より先に、借り手の名前を呼ぶ。
呼ばれた人は、自分の皮を持って返事をする。
その列へ入るつもりは、今日はない。
今日の一回を使った場所は、地上だった。
飛べたことを見せる代わりに、帰る人の前へ旗を置けた。
戻った二人は、水を飲んでから互いの皮を広げた。
片方の青年が、手を握っては開いている。空へいる時、左の爪が留め金へ届かなかったそうだ。
私は近くへ座り、届くかどうかは人間へ戻ったあとも確かめておくと、自分が練習した時の話をした。
青年は皮の端へ指を当て、今日はもう飛ばないと答える。
私も、彼を安心させるためにもう一周しようとは言わなかった。
隣の借り手は、自分の隊の人が止められていたことを初めて知ったらしい。
「同じ所へ帰れるように待ってくれてると思った。あそこへ人がいたら、下りられない」
キリさんがその言葉を、隊長にも聞こえる所で受け取る。
待ち札の男性は、自分の隊の人にも先に二つの帰り道を見せたいと言った。
返事が来るまで、今度は紙を渡さずに持っている。
隊長は、二つの道へ見張りを分けると答えた。人数を先に数え、飛ぶ時刻は決め直す。
立ち上がる。
旗の棒の跡が、唇の端へ残っていた。そこを触ると、竜の大きさが消えても、自分が何を持っていたか分かる。
次に持つものは、ダフネに頼まれた鍋の方だ。
九時、皮を私設台へ広げた。
十一時まで干す。
朝の点検をしたキリさんが、今度は形を戻した皮に裂けがないことを確かめた。
私が自分で頬を拭いていると、殿下が濡らした布を渡す。
「砂は落ちた? さっき、君の声が空へ届いた」
「近かったので。殿下の声は、もっと遠くの客にも届きました」
彼は布の端を押さえ、私の顔を見る。
「今は、君の声だけ聞いていたい」
私は返事を探し、先に布を膝へ置いた。
広場の向こうには、まだ祭の人がいる。戻った借り手に水を渡す人、旗を別の場所へ移す人。
殿下が呼ばれたので、私は行ってくださいと伝えた。
彼は頷き、でも朝のパンはここへ置く、と袋を机へ置いた。
私の分と彼の分。
自分のパンへ手を伸ばし、半分で止めずに食べることにした。
舞台の鈴が、遠くから鳴った。
飛行を止めても、歌の準備まで止める必要はない。ダフネは窓の後ろへ立つ人を呼んでいる。
彼女の父も城へ着き、客席を見に来たらしい。
私は皮の下を抜ける風へ、手を入れた。
朝よりさらに強い。
会場へ戻る頃、舞台の飾り幕が客席の方へ押されていた。
小さな窓を隠すほど、大きく膨らむ布。
ダフネがそこを見て、木の匙を持ち直す。
私は彼女が呼ぶのを待った。
今度は窓の屋根を、先に持ち上げなかった。




