第36話 歌が届く高さ
「蓋は、まだ開けない。あたしが匙を向けてから」
昼の舞台で、ダフネが私の鍋を指した。
家の人の椅子へ座り、蓋を押さえる。湯気の赤い布は中にある。
客席は、朝の飛行から来た人でいっぱいだった。
端に、ダフネの父が座っている。彼女と似た眉の男性で、膝へ帽子を置き、木の匙を持つ娘を見ていた。
軽く頭を下げる。
彼は私を知っているらしく、ニカさんだね、と小さく返した。
その先を話す前に、鈴が鳴った。
旅人が歌い始める。
ダフネは声を大きくするだけでなく、客が笑った所では次の台詞を少し待つ。匙を耳へ当てる動きに、後ろの子どもまで肩を揺らしていた。
布の山は、鍋のお父さんが引いて動かす。
大きな竜の顔は出ないけれど、山が夕飯を頼む声は、彼女の背後から聞こえた。
キリさんの声は今日も短い。
その声へダフネが振り向くと、客の顔も山へ向いた。
彼女が窓の町へ歩いて来る。
一つ目の匙、二つ目の顔、最後のおじいさん。
順に開く小窓へ、観客の目がついていく。
合図を待って、蓋を開く。
赤い布を少しだけ上げる。
「湯気だけ、吸わないでください」
殿下のおじいさんが、鍋へ鼻を寄せたまま止まる。
客席が笑った。
自分の顔が、あの小窓と同じ高さで見えているのを感じる。
その隣で、飾り幕が膨らんだ。
白い窓の明かりへ、濃い影が掛かる。
歌の一節が終わる所で、キリさんが腕を上げた。
幕を留める柱から紐が外れかけ、布が客席へ押されている。
ダフネは次の声を出さず、木の匙を下げる。
殿下が、おじいさんの声から自分の声へ戻った。
「舞台の左へ、ゆっくり移ってください。前の人から。歌はもう一度続きます」
客の列はすぐには動かない。
舞台の前ほど、横へ行く場所がないのだ。
ダフネが一節だけ、今度は舞台の左へ向かって歌う。
旅人が町の外へ夕飯を運ぶ歌。
客はその声の方へ顔を向けた。殿下の案内する先が、どちらなのか分かるようになる。
鍋を床へ置かず、決めた箱へ載せた。
ダフネがこちらへ来る。
「ニカ、あの幕を外側へ持って。家の屋根は触らないで。客の顔が見えるところを空けたい」
持つ場所を確かめる。
窓の上を覆う幕だけ。全部の舞台を直す頼みではない。
キリさんが空いた外側へ道を作り、私の皮を持って来た。
十一時に乾き終えたものだ。
十二時十二分に銀かんを留める。
さっきまで客の目に見えていた自分の顔が、高い所へ行った。
客の顔は、小さくなる。
でも笑っているか、怖くて口が開いているかまで、遠くから決めつけない。
頭を下げ、幕の端へ鼻を入れた。
風の押す側と反対へ少し持ち、窓を隠していた部分を外へ引く。強く引いたら、窓の仕掛けまでついて来る。
一度止まって、キリさんが紐を外すのを待った。
彼女の手が上がる。
今度は幕だけが、私の方へ来た。
端を口へ持ち直し、舞台と客の間へ体を入れないよう下がる。
旗の男性が、その足元を見て、客が越えない線を作ってくれた。
私はそこへ尾を置かず、石の広い方へ回す。
ダフネが次の節を歌う。
彼女は私へ顔を向けなかった。窓へ、家の人へ、客席の一番後ろへ。
幕を持ったまま、その声を聴く。
大きな体になったのに、歌う彼女の顔へ目が戻る。
あの声が届くためなら、私は今、自分の声を重ねなくてよかった。
窓から人が一人ずつ出てくる。
私の鍋は、パン屋の手伝いの女性が受け取った。
赤い布が少し上がり、おじいさんがもう一度、湯気だけ吸う真似をする。
客席の笑いが、朝の広場とは違う形で返る。
人が動いたあとも、続きを見ている。
ダフネの父も、帽子を膝へ置いたまま、顔を上げていた。
眠っていない。
娘の歌が高く伸びると、口元だけ少し動く。何かを言っているのか、一緒に歌っているのかは、私には聞こえなかった。
幕はもう、風を受けない向きへまとめられる。
キリさんが私へ下ろしてよいと合図した。
ゆっくり口を開き、布を空箱の上へ置く。
旅人は山の方へ戻る。
布の山へ、夕飯を分けるように匙を差し出した。
客は人間の彼女を、最後まで見ていた。
十二時二十一分、人間へ戻る。
舞台の端へ座り、歌の最後の音を聴いた。
急いで鍋を取り返す必要はない。
今はその役を、頼んだ人が持ってくれている。
鈴が鳴り、ダフネが木の匙を両手へ持つ。
拍手が大きく返った。
彼女は客席へ深く頭を下げ、顔を上げてから父を見た。
父は誰より長く、同じ速さで手を叩いている。
両手を合わせた。
この高さなら、自分の音も彼女の耳へ届くかもしれない。
皮は十二時二十五分から、台へ広げた。
十四時二十五分まで干す。
ダフネは片づけを頼まれる前に、父の所へ行った。
殿下と少し離れて立つ。二人の言葉へ近づき過ぎないように。
でも父が娘へ、全部覚えて歌ったんだな、と言う声は聞こえた。
「覚えたんじゃない。あたしが作った歌なの。窓の順も、台詞も」
父は舞台の方を見る。
壊れた所を直した青い屋根も、布の山も、そこにある。
「そうか。最初の舞台で、馬車でも歌っていたのを思い出した」
彼女は匙を肩へ載せる。
「今日は、最後まで起きてた?」
「ああ。おじいさんの声で笑ったら、隣の人にも笑われた」
彼が殿下を見たので、殿下はすぐ老人の顔をする。
ダフネがその肩を軽く押した。
父の笑い声へ、娘の笑い声が重なる。
私は、木の匙を彼女が父へ渡さないのを見た。
自分の歌を持ったまま、話している。
陛下が舞台の後ろへ来た。
ダフネへ、城の次の歌の催しも出演を相談したいと告げる。
決めるのは父と彼女で、予定を出してから返してほしいという。
ダフネは父へ顔を向け、先に自分が出たいと答えた。
父は一度眉を上げたが、今度は日を教えなさい、と言う。
彼女はまだ歌う声で、承知と返した。
父は返事を聞いても、すぐに馬車の話をやめなかった。
「帰ってからでも、相談は出来るだろう。客室をいつまでも借りるわけにはいかない」
ダフネは父へ、歌う人と窓を作る人を一緒に合わせたいと答える。
紙だけ送っても、今日みたいに途中で替える所は合わせられない。
「全部城に決めてもらうつもりじゃない。帰る日も、次の歌も、あたしが相談する。家の部屋まで要らなくなったわけじゃないよ」
父はその顔を見て、帽子を持ち直した。
陛下はあと三日、客室で予定を合わせてよいと告げる。それより先の滞在は、出演と別に決めるという。
承知と返して、父が娘へ紙を出した。
家で使う用事の日が書かれた、小さな紙だった。
「こちらも、その日に帰れとだけ言わないようにする。いつなら来られるか、書いておきなさい」
紙を受け取ったダフネが、木の匙と重ねる。
殿下の袖を、軽く指でつまんだ。
彼も、娘の手から紙が落ちないところを見ている。
「君の台詞を、次にも残してほしいね」
「まず、今日の最後の鍋を開けます。それから、次も言いたければ頼みます」
こちらへ顔を向けたダフネが、何を話していたか訊いた。
私は自分で、あの一言をまた言いたいと答えた。
彼女はそれなら聞いておく、と笑った。
殿下が私の隣で、自分も窓に入る役なら考えると小さく言う。
私は、肩を入れない練習が先ですと返した。
彼は笑い、私の手へ水の杯を渡す。
「君の顔が見える時と、見えない時があった。でも、ずっと君がどこへいるか、分かった」
杯を両手へ持つ。
舞台の最後に彼女を見ていたことまで、説明しなくてもよい気がした。
セルヴォ隊長は、夕方の式の紙を持って来た。
二つの帰り道へ見張りを出し、最後は飛べる者を全部、広場の上へ集めるという。
風が弱まれば予定通り、という説明だった。
今、幕を干す風は弱まっていない。
キリさんが紙を取らず、旗の方へ顔を向ける。
皮を干した時刻を見た。
今日の残りは一回。
飛行の枠へ戻るために、取っておいたものではなかった。
ダフネが舞台から戻り、私へ、最後の鍋役も続けるかと尋ねる。
私は杯を置き、続けたいと答えた。
夕方の紙には、自分でその返事を書いた。




