第32話 翼がなくても席はある
私の名前の小札が、机の端で待っていた。
飛行を待つ人の列とは別に置かれた、祭の希望者の札。キリさんが私の前へ滑らせる。
「当日の順には、まだ戻していない。新しい皮が間に合えば飛びたいなら、この札を残す」
演習場の空には、一頭がゆっくり回っている。
その影が消えるまで見た。
飛べなくなった日に、実施の順から名前は消えた。でも、戻れるかどうか待つ場所までは、空けてもらっていたらしい。
そこへ居続ければ、モロが皮を脱ぐまで毎朝、私の番を誰かに待たせる。
それでも空を選びたい気持ちは、まだある。
小札へ指を置いた。
「祭の飛行の枠は、返します。新しい皮を借りられたら、自分の飛びたい日に飛びたいです」
キリさんは札を取って、名前のない束へ戻す。
私へは、地上の紙が来た。
ダフネはまだ、布の山を残す案を考えていた。
竜の山が出ないなら、旅人が布を引いて山を歩かせる。それも歌の途中で出来ると、彼女が見せてくれる。
私が竜になれなければ、話そのものが終わるわけではない。
「ニカには、鍋の蓋を開ける役を頼みたい。家の人が、夕飯を分けに来るの。座ってても出来るよ」
雨の日に買った銅の鍋が、膝の上へ来た。
蓋を布で包んである。食べ物は舞台では入れず、赤い布をふわりと出すと、出来たての夕飯の湯気に見えるという。
「私が、湯気を出すんですね」
「人の夕飯を食べる前に、湯気を出して」
彼女は笑って、椅子を置く場所を指した。
そこへゆっくり歩く。
左足をかばう分、距離は長くなる。でも、座って鍋を抱えると、腕はいつも通りに動いた。
殿下は窓から出て、隣へ立つ。
「おじいさんの夕飯は、まだですか」
「まだ、蓋を開ける歌が来ていません」
「歌を待つか、夕飯を待つか。難しい役だね」
ダフネが木の匙で、鍋の縁を軽く叩く。
その音を聞いて蓋を開ける。赤い布を引き上げ過ぎると火のように見え、私の顔まで隠れてしまった。
彼女が、少しだけでよいと言う。
手を低くし、布の端を鍋へ残す。
今度は、客席から顔が見える。
鍋を持ったまま、ダフネへ一つ尋ねた。
「この家の人は、旅人に何と言いますか。ずっと座っているなら、夕飯が待ち遠しくなりそうで」
彼女は紙へ目を落とす。
この役にはまだ歌の一節しかなく、誰かと喋る台詞はないという。
「ニカが言ってみたいこと、ある?」
「湯気だけ吸わないでください、と。山には、すぐ全部なくなりそうなので」
殿下がすぐ鼻を鍋へ寄せた。
私は蓋で隠し、同じ言葉を言う。
彼は山の顔のふりで口を開けたまま、首を左右へ振った。ダフネが声を出して笑い、紙へ鉛筆を当てる。
「それ、入れる。布の山にも、おじいさんにも言って」
自分の台詞が一つ増えた紙には、赤い線がまだない。
全部運べる大きさの役を返したら、小さな体で言いたいことが見つかった。山の夕飯がなくなるのを防ぐ台詞なのに、私も言いながら自分が食べたいと思っている。
ダフネは窓へ入る人の立ち位置を直し、私の椅子を半歩だけ動かした。
勝手に動かさず、ここで足が痛まないかも先に訊いてくれる。
左足を置き直し、大丈夫と答えた。
椅子の向きを変えただけで、客席へ顔を向けるのが簡単になる。
この高さから、もう一度蓋を開く。
公開の試演だったので、通路から見る人が少し増えた。
家の人を演じる顔は、みんな人間の大きさだ。旗の男性が歌の最後だけ加わり、鍋のお父さんは私へ、鍋を持つ手が疲れたら箱へ置いてよいと教えてくれた。
私より先に鍋を持った人の手が、持つ場所を指す。
教わった場所へ、抱え直す。
客席の端から、子どもの声がした。
「山の人が、お鍋の人になってる」
顔を上げる。
あの父の子だった。今日は連れて来られたらしく、大人の影から私を覗いている。
笑って手を上げると、殿下がすぐ、おじいさんの台詞へ戻した。
「山の人が湯気を全部もらったら、夕飯が冷えるねえ」
子どもが笑う。
布を鍋へ戻し、蓋を閉じる。
名前を山の人と呼ばれても、今の私は鍋を持てる。それで参加している、と他の人も分かってくれる。
ダフネは歌い終え、客の方へ顔を向けた。
拍手は昨日より遠い所からも来る。
端に立っていた年配の男性が、山はどこへ行ったと声を掛けた。
ダフネは布を示す。今日はあれが山の代わりだと答え、次の歌では私の鍋から夕飯をもらう話を見てほしいと言った。
男性は大きな竜を見たかったようで、布を見るだけで先へ行こうとした。
私は声を掛けなかった。
そこへ鍋のお父さんの子が、湯気だけ吸わないでと、私の台詞を真似する。
男性の歩く足が止まる。
「それ、誰の夕飯だい」
子どもは私を指した。私は鍋を少し持ち上げ、まだ分けていない分ですと答えた。
男性が笑い、今度は椅子の方へ寄る。
残って観るかどうかも、その人が決める。私は腕を上げ過ぎず、赤い布を鍋へ戻した。
次の歌を待つ間、足の下の箱を確かめた。痛みが戻る前に、一度、椅子へ深く座り直す。
彼女は途中で私に蓋の開け直しを頼まず、曲の終わりまで続けた。
終わってから、一緒に直す所を探す。
それなら、私は自分の番を待てた。
女王陛下は、次の曲が始まる前に来た。
私が椅子に座っているのを見ると、足の具合を訊く。
「立っていなくてもいい役を、選んだのね」
「ダフネに頼まれました。飛行の枠は、今日返しました」
陛下は飛行の紙を見た。セルヴォ隊長が持っている方の紙には、もともと今日の私の名がない。
復帰を待つ札の方は、キリさんが戻したと説明する。
「新しい皮を得ても、祭で飛ぶ義務はありません。次に飛ぶ時は、皮と足と、あなたの希望を確かめなさい」
蓋の丸い縁を、指が撫でる。
さっきは歌の番が来てから開けた。同じくらい、自分の体にも待ってもらえるだろうか。
殿下は舞台の端で、客へ次の集合時刻を告げていた。
彼の声が人の列をほどき、空へ戻る道を一つ空ける。
飛ばない人の名前も、そこから聞こえた。
陛下は息子を呼び止めない。
その声が終わるまで、机の端へ自分の菓子の袋を置いて待つ。
私が袋を見ると、陛下は口を上げた。
「これは皆の分。あなたの分もあるけれど、途中で鍋へ入れないように」
笑って、鍋の蓋をもう一度閉じる。
終わってから、モロへ古い皮を返すことにした。
もう少し持っていてよいと訊いたばかりなのに、返すと決めると指が離れない。
飛べない皮でも、最初に空へ出た時の肩の重さを覚えていた。
殿下が空の箱を運び、日陰へ置く。
箱の上で皮を広げ、モロを呼んだ。
彼女は肩を揺らしてやって来る。浮いた鱗が、歩くたびに首から落ちた。
「貸してくれて、ありがとう。裂けた所は、戻せませんでした」
モロは皮を嗅ぐ。
白い鱗の下へ鼻を一度当ててから、足で箱を引き寄せた。折り畳む端を、私の手からそっと取っていく。
持っていたところを離した。
空いた膝には、服の布だけが残る。
モロは古い皮を腹の下へ入れ、日陰に座った。
灰色の竜が自分の皮を押し込んだ時と、少し似た形になる。
私の貸してもらった時間は、ここで一度終わった。
首を擦るモロの背で、薄い端が浮いた。
私は反射的に立ちかける。左足が痛み、殿下の手へ戻った。
彼は支えるだけで、端を取りに行かない。
浮いているのは肩の一部。その先はまだモロの体へつながっていた。
キリさんが、明日も見ようと言う。
「今、剥がさなくていいんですね」
「本人が脱ぐものだ。ニカの衣装を、途中で人に引っ張られたいか」
指が、自分の襟へ伸びる。
モロは私たちを見ず、また首を柱へ当てる。
気が済むまで、そうしている。
殿下は箱の脇に残った杏子を一つ渡し、袋を空にした。
私がモロへ見せると、彼女は擦るのを止め、鼻を近づける。
空の皮の話より、杏子を先に選ぶのが、いつものモロだった。
帰り道、私は自分の腕を見た。
皮を抱えていなくても、隣を歩く殿下の手を借りることはできる。
彼は歩幅を小さくし、明日も地上の紙には私の名前があると伝えた。
その紙を、折らずに部屋へ持ち帰った。




