第31話 怖いまま乗ってもいい
三段目から見ると、地面は意外に遠い。
左足を休ませながら階段へ座った私は、靴の底を眺めた。竜舎へ来る前、今日は少し長く歩いてもよいと手当の人に言われたのに、足首を曲げる動きはまだぎこちない。
殿下が一段下へ座る。
私より地面に近い位置で、帽子の紐を指へ巻いていた。
竜に乗る時の踏み台が、反対側の壁に立ててある。
「最初に乗ったのは、九歳の時だった」
彼の顔を見た。
踏み台へ、彼の目が向いている。
「兄上が飛んで戻って、城が小さかったと言うから、僕も見たくなった。前の日は、眠れなかったよ」
私も初めて飛ぶ前、なかなか眠れなかった。
それを言いかけ、先に彼の紐を巻く手へ目を戻す。
あの時の彼が、どう帰ったのかまだ知らない。
空は晴れていたという。
借りた皮で竜になった案内役の人は、殿下を一人だけ乗せて地面を離れた。
彼は自分で、もっと高くと言った。
すると庭の噴水が小さくなり、人の頭も区別できなくなった。
「その時、足の下に地面がないって、急に分かった。分かっていたはずなのに、空へ出てから別のことになった」
殿下の靴の踵が、階段へこすれる。
彼の足の下には、いま敷石がある。
「背を握る手を離したら、どこまで落ちるのか考え始めた。落ちないような紐もあったし、案内の人もゆっくりだった。でも、頭の中はもう落ちていた」
右の膝へ手を置く。
一昨日、灰色の竜が鼻を近づけただけで、荷車の上で身を固くした。見える大きさと、自分が扱える大きさは違う。
殿下は紐から指を外す。
「戻って、と言った。風へ向いていたから、聞こえなかったらしい。あとで案内の人は、笑っているのかと思ったと謝ってくれた」
「戻るまで、時間が掛かりましたか」
「ほんの少し。今思えば短い。けれど僕は、次の一周を回ると思ってしまった。笑えば平気に見えるだろうと、自分でも笑っていたから」
手が、帽子の縁を押す。
子どもの殿下が笑っているところを想像すると、今と同じ顔になってしまう。でも今の彼なら、怖い、と言う声を私は聞いている。
「降りてから、兄上には城の屋根が赤かったと答えた。怖かったと言えばよかった。赤いのは、下からも知っていたのにね」
短い笑い声が出た。
私も笑いかけたが、その先の声は出さない。
殿下が続きを話せるだけ、空けておきたかった。
降りてから、歩いて帰ろうとして膝に力が入らなかったとも話してくれた。
誰かへ抱えてもらうのが嫌で、殿下は地面に落ちた帽子を拾うふりをした。
「帽子を持ってしゃがんでいれば、立たなくて済む。けれど案内の人が手を出してくれたから、そこで、まだ怖いと言った」
私は、地面へ戻ってからの自分の足を思い出す。
怖いのは、空にいる時だけではなかったのだ。
「抱えて、帰ったんですか」
「手を借りて歩いた。大きな仕事をしたように迎えられるのは、嫌だったから。僕は飛ばしてもらっただけで、後半は景色も見ていなかった」
彼は帽子を押す手を緩めた。
「母上はそのあと、朝に残したパンを出した。食べ終わるまで、飛んだ感想を誰にも訊かせなかった。屋根が赤かったという返事しか出来なくても、パンはもう一つ来たよ」
私の手も、膝で緩む。
昨日の蜜を食べる彼の顔が、子どもの顔へ少し近づいた気がした。
「今の殿下なら、怖かったと、言えますか」
「君が聞いてくれるなら。君の前でも、上手く話せない所はある。でも、赤い屋根の説明だけで、終わりたくない」
私は地面を見る。
彼が顔を伏せても、それを笑ったと思わずに見られる場所へ、自分の足を置いていたかった。
それ以来、もう一度乗る日は、決められなかったという。
女王陛下には怖かったと話した。飛ぶことを急がせない代わりに、祭の挨拶をどうするかは、その都度訊かれた。
毎年、違う理由を探す時もあった。
腹の具合。歌を聞く役。来賓を迎える仕事。
「理由を足すと、自分でもどれが本当か分からなくなる。だから今年は、地上を担当すると先に決めた」
指を帽子の紐へ添えた。
その時の彼の名前が、紙の下へ書き直されたのを見ている。
「飛べたら、地上の役を辞めますか」
彼はすぐ首を振った。
「辞めない。僕が人を呼ぶ声は、空へ出るより遠くへ届く日もある。でもそれを理由に、ずっと乗らないと決めたいわけでもない」
遠くの竜舎で、モロが柱へ首を擦る。
鱗が一つ落ちる音は、ここまでは聞こえない。
膝をずらし、殿下と同じ方へ体を向けた。
足の下へ、もう一段、階段がある。
「今も、見たいんですね」
「君が空から話してくれるものを、見たい。黄色の旗の位置も、帰りに見える城の窓も」
彼は私の方へ顔を上げる。
「ニカの背へ乗りたい。別の誰かが勇気を試すために用意した一周より、君と帰るための短い道を、自分で選びたいんだ」
私の足が、階段の上で止まる。
その言葉を、飛ぶためのお願いとしてだけ受け取れなかった。
彼の顔を見ている時間が長くなり、手のひらが少し熱い。
人を乗せる練習をまだしていないと答えた。
二人とも、分かっていることだった。それでもすぐ背を貸すと答えたら、また先の言葉を飛ばしてしまいそうだ。
「練習は、先にします。キリさんに見てもらって、人の重さを積むところから」
「その間は、地面で待つ」
「皮も、まだ飛べません。それから殿下が、今日は止めるとおっしゃったら、降ります。乗る前でも、乗ってからでも」
彼が帽子を膝へ置いた。
「空では、僕の声が君へ届く?」
「顔の近くで声を掛けてもらえば。合図も先に決めたいです。背中を二度叩くとか、飛んでから慌てて考えずに」
殿下は自分の膝を二度叩く。
私はその間隔を見る。
殿下の手が小さく上がり、また止まった。
「怖いと、手へ力が入って固まるかもしれない」
「では、短くても声で。私からも、まだ飛んでいてよいか訊きます」
踏み台を、もう一度彼が見る。
その高さへ足を置く時に、怖さがなくなるとは約束できない。
私も左足首の痛みへ目を向ける。
飛べるようになった時、自分がまた余計に回りたくなることまで、全部なくせる気はしなかった。
だから、一緒に止める合図を先に持つ。
殿下が、私の一段下から手を差し出した。
「今はここから、降りる練習をしよう。君が痛いなら、止まる」
右足を下へ置き、左はそっと続けた。
足首がつっぱる。
「少し、待ってください」
彼は動かずに待った。
肩へ掛けていた力をほどく。手が持たれているだけでも、相手を急がせると思ってしまう。
殿下は帽子をもう片方の手へ持ち、地面へ置いた。
待つための手が、空く。
「僕は、ここにいる」
次の段へ足を移すまで、彼の腕は同じ高さにあった。
地面へ戻った時、三段はさっきほど遠くなかった。
私は急がずに歩いたからだと思う。殿下が同じ時間をここへ使ってくれたことも、靴の底で覚えていた。
二人で、竜舎の陰へ腰を下ろした。
袋から丸い種を出し、私へ見せる。
「昨日、これを一つ持って帰った。入った方だよ」
「また勝負されますか」
「次は負けるかもしれない。でも、次の一つも弾きたい」
彼の指から私の指へ、種が移る。
丸い面を触り、彼へ返した。
空へ出る話の続きを、種の話へ置き換えてしまったわけではない。彼がまた持つ手を、今は見ていたい。
私が明日も話してほしいと頼むと、殿下は少し近くへ座り直した。
「飛ばない日なら、長く話せる。祭の前でも、あとでも」
そこへキリさんが来て、午後に地上の出演を決めると言った。
飛行の欄を消すことと、山を出すかは別の話。左足の具合をもう一度確かめ、人間の役も用意するという。
私は殿下の手を離し、午後は自分で返事をすると伝えた。
飛べる日が来るまで、返事を誰かへ預けておかなくてよい。
殿下は帽子をかぶった。
紐を締める前に、私へ小さく訊く。
「怖がっている僕も、いつか乗せてくれる?」
彼の顔を見て答えた。
「怖いままで、乗ってください。帰るまで、それを聞いています」




