第30話 何もしない一時間
「勝った人が、最後の蜜を取る」
殿下はそう言って、銅の鍋の蓋を裏返した。
露台の机へ輪が一つできる。洗った杏子の種が、その脇へ五つ並べられた。
どれも縦に筋があり、丸いものと細いものがある。細い方を指でつまむ。
「どこへ入れれば勝ちですか」
「蓋の真ん中。遠くから指で弾いて、ここへ入れる。僕が子どもの頃、兄上に負け続けた遊びだよ」
王太子殿下は、種を器の縁へ当てて中へ跳ね返すのが上手かったらしい。
蓋へ入った種も、そのたび取り出して列へ戻す。五つの中から、次に弾く一つを選ぶのだ。
私の左足へは箱が置いてある。椅子へ深く座れば机に届くので、今日はどこへも歩かなくてよい。
蜜漬けの壺は、二人の手の間。
私が蓋を取ろうとすると、殿下が先に壺を押さえた。
「一番下の蜜だけ残そう。負けても杏子は食べられる」
「殿下が途中で、全部舐めませんか」
「君が見ていれば、多分」
頼りない返事だった。
匙の柄で壺の外側を二度叩く。
すぐに匙を机へ置き、最初の種を選んだ。
一つ目は、蓋に届かなかった。
殿下の指が当たる音だけは立派なのに、種は机の端でぐるりと回る。
唇を噛んで笑いを止める。
「縦に曲がる種だったのかな」
「机のせいにされる方が、まだ分かります」
種を覗き込んだ彼が、細い筋をなぞった。
私の番。先に指で裏を触り、筋が浅い方を下にする。
石を小さく割って遊んだ時と同じで、平らな所を地面へ向ければ、まっすぐ進む。
弾いた種は蓋に入り、内側で音を立てた。
殿下が、勝ったみたいに手を叩く。
「まだ最初です。殿下が負けたら、私は蜜を取りますよ」
「うん。でも、入った音がよかった」
私も蓋を見る。
種は少し湿っていて、銅の上に細い跡を残していた。
二つ目で彼は、私と同じ向きへ種を置く。
指だけを強く当てたので、今度は縁を越え、私の膝へ落ちた。
座ったまま拾うと、彼が申し訳なさそうな顔をする。
「足へ当たった?」
「右の膝です。左は箱の上にあるので」
種を机へ戻す。
彼の手が同じ場所へ伸び、指先が少し重なる。
それを避けずに、種を一度転がした。
殿下は、種より私の指を見ていた。
二つ目も、蓋へ入った。
三つ目は縁に当たり、机へ戻る。殿下がすぐ歓声を上げ、口を押さえた。
「ごめん。入らないのが嬉しいんじゃなくて、まだ僕にも一つは入るかもしれないと思った」
「全部入ったら、私が蜜を譲ると思いましたか」
「それは期待していた」
いちばん丸い種を、彼の前へ置く。
自分の指で弾きやすい向きにして、手を引く。
彼が私を見た。
「蜜は譲りません。入れる方を、見たいだけです」
殿下の肩から力が抜ける。
机へ顎を近づけて狙う顔は、王子様の肖像にしたら怒られそうなくらい真剣だった。
指が種を打つ。
種は縁へ当たり、銅の内側へ落ちた。
私が手を叩くと、殿下も顔を上げて笑った。
「兄上に、この一つだけ見せたい」
「もう一度されたら、次も入るかもしれません」
「入らないかもしれない。今日は一つ見せられたところで、褒められておこう」
両手が、机へ置かれる。
少し残った種を見てから、私は最後の一つを持った。
自分まで入らない所を見せたくなくなる。でも今、彼は入った音へ笑っている。
人差し指で弾く。
種は大きく曲がり、壺の足元へ当たった。
彼が声を出して笑う。私も壺を押さえて笑った。
蜜が少し、匙の先から机へ落ちた。
勝ったのは私だった。
殿下は素直に壺を差し出し、底の蜜を集めやすいよう少し傾ける。
私がすくうたび、壺の口へ彼の指が近くなる。
舐めると甘い。
口へ入る匙を見た殿下が、自分の喉を動かした。
「おいしそうに、ご覧になりますね」
「おいしいところを知っているから。君が食べているのを見ていると、思い出す」
壺を置く。
全部を食べれば勝ったことになる。でも、その前に彼へ一口渡したくなった。
彼は負けたので断るだろうか。それとも、すぐ口を開くのだろうか。
両方を想像して、どちらでも見たいと思ってしまう。
「一口、いかがですか」
「負けた僕が、何をすれば一口もらえる?」
「何もしないで、くださいと言ってください」
殿下は一度黙り、真面目な声で頼んだ。
別の匙へ蜜を載せる。彼の手へ渡すと、食べ終わった顔が思った通りに笑った。
何もしてもらわなかったのに、もう一口差し出したくなる。
壺の蓋を閉めた。
全部渡してしまう前に、自分の分も残す。
種を集めた殿下が、鍋の蓋を脇へ置いた。
まだ三十分ほど残っている。
明日の予定を訊こうとして、口を閉じた。彼は今、自分の種がどう曲がったか話している。
その軌道を指でなぞって見せる。
途中で二人の指が同じ所へ来て、互いに待った。
「ニカの手は小さいね」
「人間の時は、最初からこの大きさです」
「知ってる。でもさっき、種を弾くところを近くで見たかった」
私の指へ、彼の指がそっと沿う。
痛くないか尋ねる声が、いつもより低い。
私は痛くないと答えてから、手を引かなかった。
殿下の爪にも、昨日の窓の青が少し残っている。
同じ青の染みをつけたダフネの袖を思い出し、笑うと、彼は自分の爪を見た。
「洗っても残る。母上に見られたら、どこで遊んだのと訊かれるかな」
「窓のおじいさんに、なっていましたと答えれば」
「また明日の歌を聞きに来てくれ、と言ってみよう。母上がおじいさんと話したがったら、声を変える練習が要る」
彼の手へ、自分の指を一つだけ重ねた。
手の甲が温かい。
空では、竜が一頭だけ通った。
遠くの影が露台を横切る。私はすぐ目で追い、左足を動かしてしまった。
痛みが戻る。
殿下の手は、私の指へ残ったままだった。
「見たいなら、椅子を少し回すよ」
「今は、ここでいいです」
私は彼の手へ目を戻した。
飛べるなら、あの竜の隣へ出たかった。そう思う自分は、まだいる。
それと同じくらい、この机から離れたくない。
殿下が黙ると、二人とも言葉を出せなくなる。
髪留めを指で直す。
黄色の飾りへ、彼の目が向く。
「お母さまがくれたものだったね」
「城へ来る前に。母は、ひとりで緊張したら触りなさいって」
彼は指を離し、髪留めを見せてもらってよいか尋ねた。
外して、彼へ渡す。
母の指が選んだ小さな花が、彼の手の上へある。
彼が髪へ戻そうとした時、飾りが少し斜めになった。
私が首を傾けて場所を教えると、さらに斜めになる。
「殿下、花が下を向いています」
「君の髪が、僕の手に慣れていないからかな」
「手の方が慣れてください」
笑いながら、彼は今度は私の指の通りに留めた。
髪留めを直した手が、私の耳の隣で止まった。
私は顔を向けかけ、彼が近いままなのを見て動けなくなる。
母の花が斜めでないか、確かめるためだと思っていた。でも、彼の目は花より下を見ている。
私の口の端かもしれない。
「まだ、蜜が付いていますか」
「付いていない。さっき笑っていたから、もう一度見たくなった」
どうすれば笑えるのか、さっきまで簡単に出していた声なのに、忘れてしまった。
殿下は自分の口の端を指で拭き、変な顔をしてみせる。
それで笑ってしまうと、彼も肩を落として笑った。
近いまま、私たちは同じ机の端へ手を載せる。どちらも種を持っていないのに、指だけ、そこへ残った。
一時間が終わっても、殿下は先に席を立たなかった。
私は机の種を一つ手に取り、袋へ戻す。
露台の時計が、一度鳴った。彼は種の袋を、のんびり閉じている。
壺を持った殿下が、空を見上げた。
「あそこから見たら、この机はどのくらい小さくなる?」
「私が飛んだ高さなら、椅子は小さな箱くらいです」
彼は少し考える。
「小さく見えるのは怖い。でも君が見たものを、僕も見たい。いつか、という言葉を、いつか決める日にしたいんだ」
袋を閉じる。
今は皮も足も、その日を決められる状態ではない。
だから、すぐできると返さなかった。
「飛ぶ以外の話も、その前に聞かせてください」
彼が、私の椅子へ手を掛ける。
帰るために立った私は、左足へ急に重さを掛けず、彼の腕を借りた。
机に残った種を、殿下が一つ拾う。
一つだけ入った、丸い種だった。




