第29話 あたしを見ていて
椅子の下へ、小さな箱が滑ってきた。
舞台に着いた私へ、キリさんが顎でそこを示す。
「足を載せろ。長く下げたままにするな」
左足を箱へ置く。昨日より腫れは薄いけれど、靴の端がまだ少し窮屈だった。
客席は三つだけ。パンの店の手伝いの人と、道具屋の娘が先に来ていた。
私の膝は空で、皮も台詞も部屋へ置いてある。
木の匙を肩へ載せ、ダフネが舞台の端へ立った。
「今日は、あたしを見ていて。途中で窓が引っかかっても、直す人は裏にいるから」
私が顔を上げると、彼女は小さく笑った。
昨日まで、その笑いが戻るか訊きたかった。
今は終わりまで見てから、聞けることを探そうと思う。
歌が始まる前、パンの店の手伝いの女性が客席から立ち、舞台の裏へ回った。私と道具屋の娘が、その背を見送る。
最初の歌は、旅人がお腹を空かせて歩く歌だった。
靴が砂を噛み、朝から食べていないのに山まで遠い、とぼやく声。ダフネはわざと大きく腹を押さえ、それから木の匙へ耳を当てた。
「あんたまで、お腹が鳴るの?」
鈴が一度鳴る。
匙が返事をしたように見えて、隣の娘が笑った。
山の代わりに、今日は背の高い布が一枚置かれている。
ダフネはそこへ鼻を見上げるふりをした。
「夕飯を探してるのは、あたしの方。あんたを食べに来たんじゃない」
山の台詞はキリさんが読む。
「私の夕飯も、まだだ」
普段の命令と同じ声なので、膝を持つ手へ力を入れた。笑うと足を上げた箱が揺れてしまう。
ダフネは振り向き、客へ片眉を上げる。
「聞いた? 山も食べてないって。町の人が帰る前に、誘わなきゃ」
私が台詞を覚えた時にはなかった言葉だった。
旅人は町へ歩く。
山が来る音を、鍋と木の蓋で後ろから鳴らす。人の足音より重い、間の空く音。
小さな家の屋根が、そのたび少しだけ傾いた。
指を伸ばしかけた。
屋根を倒す、と言われた声を思い出すより先に、ダフネの歌が耳へ入る。
一つ目の窓に、白い明かりがついた。
窓から出てきたのは、顔より先に匙だった。
家の人はまだ夕飯を食べていて、山の音へ匙を持ったまま顔を出す。
パン屋の手伝いの女性が裏から歌った。
歌詞の布へ書いてあった言葉。パン一つなら余っているけれど、山には一つで足りるのか。
ダフネが木の匙を掲げる。
「パン一つは、あたしに足りない。山のぶんは、その後で聞く」
隣の娘の笑いが、大きくなった。
二つ目の窓が開く。
中の人が顔を出す前に、一つ目の匙がそちらへ伸びる。匙を追っているうち、私は二つ目へ目を移していた。
全部を一度に開けたら、こうは見なかっただろう。
赤い糸が、舞台の裏でこすれる。
糸の先で人が動いているのを、客席からは見なくてよい。私は開いた窓を見ているだけで次の声へ追いつけた。
三つ目の窓は、なかなか開かない。
ダフネが歌の途中で足を止め、そこへ声を掛ける。
「おじいさん、夕飯がなくなるよ」
「だったら先に、山が配ると約束しておくれ」
殿下の声が、おじいさんの声で返った。
顔だけが、ゆっくり窓へ出る。
肩は出ない。窓の大きさがそのまま、のんびりした人の顔の大きさになっていた。
笑い、手の甲で口を押さえる。
殿下は一瞬こちらを見たように見えたが、すぐ窓の内側へ目を戻した。
今は、三つ目の窓のおじいさんの声を守っている。
最後は、窓の人が一人ずつ町へ出てくる。
最初の人が旅人へパンを渡し、二人目が鍋を持つ。おじいさんは遅れて来て、誰かの落とした匙を拾う。
山はそれを食べ物だと思って覗き込み、旅人に止められる。
今日の山は布なので、ダフネが自分で布の端を揺らした。
その瞬間、左の窓が一度引っかかった。
裏で小さく声がする。
箱へ載せた足を見てから、舞台へ目を戻した。
旅人は歌を止めず、窓の方へ木の匙を向けた。出てきた家の人が匙を受け、一緒に旅人の歌を歌う。
窓は次の節で開いた。
私が席を立つまでの間に、向こうの人たちで進んでいく。
最後の一節で、旅人は山へ背を向ける。
一人で食べる夕飯は、おいしいけれど、うるさい山と食べる夕飯も一度くらいなら悪くない。
そんな言葉を、ダフネは高い声で伸ばした。
私は、その声が屋根の絵の上を越えていくのを見る。
今朝は山がいないので、彼女の顔がずっと見える。
伸ばした音が静かになり、鈴が一度鳴った。
両手を合わせる。
隣の娘の拍手が重なり、パンの手伝いの人も舞台の裏から出てきて手を叩いた。
役をした人が、自分の仕事の後で、彼女を見ている。
木の匙を両手へ持ったダフネが、客席へ頭を下げた。
歌が終わると、彼女はまっすぐ私へ来た。
褒める言葉を探し過ぎて、先に何を言えばよいか分からなくなる。
私は、窓から匙が出てきた所の話をした。
「一つ目を見ていたら、次の家の人まで見えました。屋根を大きくするより、あの匙の方が、目がついていきます」
「そこ、昨日も笑ってくれた人がいたの。二つ目はまだ変えたいけど」
彼女は屋根の方を振り向く。
今度は私も、同じ窓を見る。
「引っかかった時、歌が続いたので、どちらを見ていてもよかったです」
「直した所は見えてない?」
「見えていません。家の人が匙を受けたのを見ていました」
木の匙が、彼女の膝へ置かれる。
袖の青は、洗って薄くなっている。でも同じ場所の染みは残っていた。
袖へ触れず、彼女の顔を見る。
「昨日まで、自分が持てるものばかり見ていました。ダフネが何を見せたいか、最後まで見ていませんでした」
「怒ってたよ。謝りに来た時、また皮を持ってたのも」
彼女の指が匙を回す。
膝の上で、手を開いた。
まだ指が、屋根の角を探してしまいそうだった。膝の上で、開いたままにする。
「でも今日、ちゃんと最後まで見てた。あたし、客席を見れば分かるの」
「見ていました」
「うん。じゃあ、今日からお茶はまた一緒に飲む」
顔を上げる。
彼女は私の袖をつまみ、同じ青が付いた所を見て笑う。
「そっちも落ちないね。二人とも、洗う人に怒られるかな」
笑いながら、もう一度ごめんなさいと言った。
今度は彼女が、聞いてる、と返してくれる。
殿下が舞台裏から来た頃、ダフネは手紙を見せてくれた。
父へ、花嫁の候補を辞めて歌いたいと出した返事が、昨夜届いたという。
紙は二つ折りなのに、彼女は四つにして持っていた。
開くと折り目が、父の大きな字を横切る。
「小さい頃、町の歌劇へ連れてってくれたのは父だったの。最初の幕で父は眠ったけど、あたしが眠らなかったから、最後まで座ってた」
木の匙を指でつまみ、彼女は笑う。
「帰りの馬車で歌ったら、もう覚えたのかって言った。あたし、次の舞台まで忘れたくなかっただけ」
私は彼女が伸ばした最後の音を、まだ耳の中で探せた。
覚えて帰る人がいると、歌は舞台の外へも出ていく。
父の紙を伸ばし、椅子の上へ置く。
「今度は、父にも眠らず聴いてほしい。その後で花嫁の話が出たら、あたしが返事する」
最初の行は、城を出る日を知らせなさい。
その次に、祭で歌うなら観に行く、とある。
「怒ってるかどうか、字だけじゃ分かんない。母からは、声を枯らすなって別の紙が来た」
「僕も声を変えるから、枯らさないようにしよう。お父さまの前で、普段の僕が窓から出るのは困るね」
ダフネは彼を見る。
「あたしの歌を観に来るんだから、殿下が窓で目立ち過ぎないで」
彼はすぐ肩を引っ込める。二人の顔を見て、笑う。
父が来ると決まったから、次に覚える歌は、その人にも聴いてもらう歌になる。
祭の日も座って見たいと伝えた。
ダフネは山を出すかまだ決めていないと言い、どちらでも私の椅子は置くと答えた。
隣の空いた椅子へ、殿下が腰を下ろす。
私の足の箱を踏まないよう、少し遠くへ。
その距離を見たダフネが、口の端を上げた。
「お茶へ行くなら、今日はその二人で行って。あたしは二つ目の窓を直す」
何を持てばよいかは、彼女へ訊かずにいた。
帰る前に、明日の歌も楽しみにしているとだけ告げる。
殿下が椅子の背へ手を置いた。
「午後、一時間だけ空けた。蜜漬けも、二つともまだあるよ」
私はダフネの青い袖へ小さく手を振り、彼の腕を借りて席を立った。




