第28話 歩くと見える窓
歩くと、傘の端から雫が落ちる。
左足を置いた私は、一歩で殿下の袖へ戻った。
蜜漬けの店まで、あと三歩。荷車を戸の横へ置いてもらったので、それだけなら歩けると思ったのだ。
「右足から。急がなくていい。店は待っていてくれる」
彼の腕を借りて、ゆっくり進む。
最後の一歩で左足首が少し痛んだ。立ったまま我慢しようとすると、店の女性がすぐ椅子を出してくれる。
「蜜を選ぶのに背が要るわけじゃないよ。座って」
椅子へ腰を下ろす。
いつもの杏子の籠は、ここからだと目の前へ大きく並ぶ。
竜の時は、小さな赤い実がたくさんあるとしか見えなかった。今は一つずつ皮の皺が違い、籠の底の実ほど、端がよく熟れている。
その一つを指す。
「これが、蜜漬けになりましたか」
「それは今朝の。漬けた方はこっち」
手のひらへ、白い小皿が来る。
琥珀色の蜜の中で、杏子が半分だけ沈んでいた。
殿下は立ったまま、皿の実を見ている。
匙を持ち、皿を少し近づけた。
「半分、いかがですか」
「その半分は、種のある方?」
「種は取ってあります。先に蜜だけ舐めないでください」
彼が笑い、隣の椅子を借りた。
店の女性は二枚目の皿を出し、同じ大きさの杏子を載せる。彼へ渡す前、私へもう一度確かめた。
「この人はこの人の分でいいね?」
市場では、殿下の膝を借りた日のことをまだ覚えているらしい。
自分の皿を両手で持つ。
「それぞれの分で、お願いします」
「そして、僕の膝は今日は皿一枚ぶんも貸さない。空いていれば、車へ乗ってしまいそうだから」
彼は座った膝を一度叩いた。
蜜の匙を口へ運び、そこを見ないことにした。
杏子の甘さが、舌の端へ長く残る。
竜の時に一口だったパンとは、違う。噛んでから飲み込むまでの間に、酸っぱさが一度戻る。
殿下は私より速く食べ、すぐ空の皿を覗く。
「おかわりも、買われますか」
「君が食べ終えるまで、皿の底に残った蜜を大事にしようと思って」
だからといって匙へ全部載せたら、もう残らない。
彼が最後の蜜を口へ入れてしまったので、私は自分の皿を彼へ寄せた。
すぐ彼の手が動き、途中で止まる。
「これはニカの分だった」
「少しだけなら、差し上げます。訊いてくれたら」
彼は改まった声で、くださいと頼んだ。
同じ皿から蜜を取られ、私は自分の匙の先を見た。
そこも舐めてもよいのに、すぐ口へ入れられなかった。
蜜漬けの小壺を、一つ買った。
持って帰れば何度か食べられる。誰かへのお礼にする前に、自分で食べたい分を考えた。
殿下は自分の壺を別に買い、二つを籠へ入れる。
どちらがどちらか分かるよう、私の壺には藁紙を巻いてもらった。
「間違えて二つとも食べたら、ひどい人になる。これは先に分けよう」
女性は彼の籠へ、匙を二本足した。
「壺へ顔を入れないでね」
「その話は、僕よりモロへした方がいいかな」
私たちは笑い、店を出た。
帰りは荷車へ座る。壺の重さは膝の上でちょうどよく、昔父が運んだ石の欠片みたいに、抱えていると落ち着いた。
殿下が車を押すと、顔は私の後ろへ回る。
姿が見えなくなったので、私は一度だけ振り向いた。
彼は私の肩越しに笑う。
「いるよ。角を曲がる時にも、いる」
前を向いた。
傘の下を流れていく市場は、今日は屋根より窓の方が近い。
菓子屋の窓が、白く曇っていた。
内側に、焼いたばかりの丸い菓子が並んでいる。湯気が抜けるためか、下の小窓だけ少し開いていた。
そこから、職人の手を見る。
何度も同じ動きで生地を押し、丸くして天板へ置く。小窓の向こうにある顔より、その手へ目がいく。
竜ならこの窓は腹の陰へ入り、道に立つ客ごと隠してしまう高さだった。
店の子が、窓の反対側からこちらを見ている。
私たちが停まると、女の子は鼻をガラスへ付け、笑った。
座ったまま手を上げる。
同じくらいの高さで、向こうも手を上げた。
「竜の山が来たら、あの子には尻尾しか見えなさそうだね」
「窓が低い方が、顔はよく見えるんですね」
ダフネの窓を大きくしたかった私は、屋根しか見ていなかった。
小さな窓から明かりが出れば、そこへ人の顔が集まる。山の大きさは、その隣で見るから分かるのかもしれない。
殿下は車を停めたまま、私へ尋ねる。
「もう少し、見たい?」
「あの子が菓子を一つ取るまで」
女の子は窓の下へ消えた。
戻ってきた手には二つある。職人が背後から顔を出し、一つを戻させた。
私は笑い、殿下も私の後ろで笑った。
何を見ていたのか彼にも伝わるのが、今日は少しだけ嬉しい。
殿下は小窓へ目を近づけ、鼻をぶつけそうになった。
菓子を取る手が、窓の下へ隠れているからだ。私は車から、それが見える位置を教えた。
「ここ? なるほど、僕が立っている方が見えない」
「殿下は、歌劇をいつもどこでご覧になるんですか」
「城の催しなら、上の席。町の劇場は、前へ座りたいと言ったら、前の人が立ってしまった」
彼の目が、窓へ戻る。
「今日は誰も立たない。君と止まっているから、店の人にも買い物の途中に見える」
私は車の縁を指で叩いた。
「普通に、待っているだけですものね」
「それが、少し難しい日もある。だから今日はもう少し待ちたい」
彼は車から手を離さず、空いている方の手で私の傘の縁を上げる。二人から窓が見える角度へ、ゆっくり。
私はそこへ、自分の手を添えた。
彼の声が、次にパンを食べる話へ移るまで、同じ窓を見ている。
女の子が二つ目の菓子を今度こそ受け取り、奥へ戻った。
次の角には、祭の案内が貼られていた。
地上の歌の時刻が、大きな字で加えられている。
絵の中の山は鼻を上げ、旅人が木の匙を持っていた。私の名前は、まだそこへ残っている。
車を止めてもらい、もう一度見た。
飛べなくなった人の名前まで、すぐ消えるわけではない。
でも山になれるかは、足の具合とダフネが選ぶ舞台次第だ。
殿下へ、自分の名前があると伝えた。
「案内を直すか、ダフネがまだ決めていない。僕も今日はその話を急がせなかった」
壺へ手を載せる。
待っていれば誰かが何とかしてくれる、という安心ではない。決めるのを待たなければ、彼女の歌をまた自分の方へ引いてしまう。
「明日、あの小窓がどう見えたか、聞けるでしょうか」
「聞く前に、明日見に来ていいか訊こう」
彼の返事で、私は言葉を直した。
今日は菓子屋の窓を見ただけだ。
舞台が同じ形でできていると、まだ確かめていない。
雨の筋が案内の端を伝い、私の鼻の絵へ落ちる。
その絵を拭くため車を降りることはしなかった。
城へ戻る頃、雨は少し強くなった。
荷車から降りる時だけ、殿下の肩を借りる。傘が二人の頭から外れ、彼の髪に雨粒が載った。
髪へ触れかけ、先に声を掛けた。
「雨が。拭いてもよいですか」
「僕が自分で拭くと、髪が全部逆へ立つよ。だから君に任せてもいい?」
何を訊かれたのか、一瞬分からない。
彼は私の布を取らず、少し頭を下げた。
白い布を髪の上へ置き、押さえる。
殿下の呼吸が、私の手首へ掛かった。
竜の鼻息ほど強くないのに、こちらの方が手を引きたくなる。
私は布を持ち直し、二度目は軽く押した。
顔を上げず、彼がありがとうと言う。
すぐ離れてしまうのが惜しくて、最後にもう一つ、耳のそばの雫を取った。
部屋に着くと、ダフネの紙が届けられていた。
山の新しい台詞かと思って開く。けれど、文字は二行だけだった。
明日の朝、舞台の客席へ来て。
道具は持って来ないで。
その紙を二度読む。
殿下にも見せると、彼は窓の老人の声を出す。
「お客さんは、椅子へどうぞ」
笑う声が出た。
足が少し痛み、私は机の椅子へゆっくり座る。明日も長く座るなら、足の下へ小さな台を借りたい。紙の隅へ、忘れないよう書き添えた。
壺の藁紙をほどくと、甘い匂いが近づいた。
明日の朝は、翼も台詞も持って行かない。
ダフネの紙を、髪留めの隣へ置く。




