第27話 借りられないもの
「持って行くなら、杏子は置いていけ」
雨の竜舎で、キリさんが私の膝を見る。
酸っぱい杏子を二つ、袋に入れていた。モロの分とは別に、灰色の竜へ渡すつもりのものだ。
「お礼にも、駄目ですか」
「貸すか訊く前に食わせるな。お礼はその後だ」
昨日より腫れが少し引いた左足へ、濡れないよう布を重ねる。
杏子を箱へ戻した。
キリさんが椅子の向きを替える。今日は手伝いの人を何度も呼ばないで済むよう、入口に小さな荷車が用意されていた。
座る前に足を診てもらい、痛くない範囲で短く歩くのはよい、走るのは駄目と言われた。重くなる竜の体も、まだ使わない。
椅子ごと積むと荷車が不安定なので、座布団を敷き、直接腰を下ろす。
藁を詰めた座布団は、椅子よりよく沈んだ。
「卵を運ぶ時と、似ていますね」
「割れるなよ」
彼女は取っ手を握る。膝に両手を載せ、揺れたら声を出せるようにした。
灰色の竜は、隣の庭の屋根の下にいた。
首を後ろへ曲げ、腹の下に押し込んだ皮を見ている。
新しい皮は、丸めても銀色に光る。雨の光のせいか、モロの古い皮より滑らかで、使う前から空へ出られそうに見えた。
私は車から降りず、名前を知らない竜へ頭を下げる。
「皮を借りてもよいでしょうか。モロに借りたものを、私が裂いてしまって」
竜は首を伸ばした。
私の左足の布を嗅ぎ、古い皮の袋を見る。それから、自分の腹の下へある皮を、前脚でさらに押し込んだ。
貸してもらえる時、モロは肩へ押しつけてきた。
この竜の皮は、私へ近づかない。
「一度だけでも。祭の日に、山になる役があるんです」
灰色の首が、私と皮の間へ下りてくる。
こちらを睨んではいない。ただ、鼻先をどけてくれない。
キリさんは何も言わず、取っ手を握ったまま待つ。
雨粒が屋根の端から落ちた。
私の袖に一つ入るほど待っても、首は同じ所にあった。
伸ばしていた指を、袋の上へ戻した。
「分かりました。訊かせてくれて、ありがとう」
竜は返事の代わりに、顎を自分の皮へ載せる。
少しだけ眼を細くした顔が、モロの昼寝の顔に似ていた。
キリさんへ、戻りたいと告げる。
車が動き出すと、竜は鼻を上げる。でもその皮を私へ差し出す動きではなく、雨の向こうを見ただけだった。
戻る途中、キリさんの靴の縫い目を見る。
私が直した所へ、少し濃い色が残っている。革の紐へ替わってからも、その布は内側へ当てたままらしい。
雨を踏んでいるのに、歩き方は変わらない。
「私が当てた布、まだ中にありますか」
「ある。こすれなくなった」
車の前で彼女が靴を持ち上げる。私は身を乗り出し、すぐ座布団へ戻った。
細かい縫い目なら、近づいて確かめられると思った。なのに今は、自分の足の方を人に見てもらっている。
「今日は、押す人の役が欲しかったです」
「押せるようになったら来い。今押すと、乗せる人が増える」
袋の端を握る。
彼女が荷車を止め、傘を少し傾ける。雨が取っ手を伝って手首へ落ちていた。
拭くための布なら渡せる。
でも、私は先に声を掛けた。
「手を拭きますか。布が一枚あります」
「今は濡れる。止まったら借りる」
布を膝へ戻す。
返事の順が変わっただけで、手の忙しさが違う。
何もしないで座っているのが、まだ落ち着かないのは変わらなかった。
屋根のある通路で、車輪が小石に乗った。
キリさんが一度車を引き、もう一方から押そうとする。
私が降りれば軽くなる。そう言ったら、彼女は先に足元の水溜まりを見た。
「立つ所は、こっち」
壁の陰へ車を寄せてもらい、私は右足から降りた。
左足を置くと痛い。思わずキリさんの袖を握る。
彼女は取っ手を離して肘を貸した。
「少しだけ、体重を掛けます」
「もう掛かってる。肩へ回せ」
言われた通りにすると、左足の痛みは薄くなる。
キリさんの腕は、殿下の腕より低い所にあり、私と同じくらいの高さで動く。相手へ掛ける力を、自分で少しずつ変えられた。
車を空にしたまま、手伝いの人が小石をよける。
その人は、あの赤い糸を運んだ日の舞台を見ていたらしい。
「歌の窓、昨日ちゃんと開いてましたよ。裏で糸を持つと、思ったより手が忙しいですね」
頷きかけたまま、先に一つ尋ねた。
「三つとも、開きましたか」
「最後の顔だけ、出るのが少し遅れた。笑う所なら、それでよかったのかな」
私が壊した窓が、私のいない所で直っていた。
キリさんの袖へ、指を少し強く入れてしまう。
彼女は痛いとは言わない。ただ、私が足を動かすまで待っていた。
両手で支えて、座布団へ戻る。
車輪の音が、また始まった。
モロの前で、持って行かなかった杏子を見せた。
彼女はすぐ袋へ鼻を入れる。酸っぱい顔をするか見ていたけれど、何も変わらず噛んでしまう。
古い皮を広げた。裂け目は乾いて、昨日と同じ幅で開いている。
借りた時の形へ戻して返すことは、もうできない。
「もう少し、手元に置いてよいですか」
モロは皮を嗅いでから、私の座布団の下へ鼻を突っ込もうとした。
杏子の袋を隠した場所だった。
皮を取り上げる気配はなく、私は座布団を引き上げて袋を渡す。
灰色の竜なら、そこへ自分の首を置く。モロは私へ鼻を寄せる。
似た顔でも、いつも同じ返事にはならない。
キリさんは濡れた手を、私の差し出した布で拭いた。
「借りた。この布も濡れたぞ」
「乾かします。紐なら、ありますから」
私設台は雨の届かない通路へ移されていた。先日、洗濯場の人が教えてくれた場所だ。
私はそこへ布を掛けるだけ、車から手を伸ばした。
皮は今日は使っていない。雨へ濡らさず畳み、部屋へ持ち帰る。
殿下が、傘を二本持って来た。
片方は私の小さな傘。竜の鼻息で裏返したあの日と同じものだ。
「直してもらった。今日は口の下へ置かないで済む」
「人間でも、強く息をしたら?」
「そこまで試すのは、傘に謝ってからにしよう」
彼は傘を開き、私の頭へかざす。
柄には、私が付けた古い黄色の紐が残っていた。
修理をする人はそこを替えず、裏返った骨だけを直してくれたらしい。私は紐を指でつまみ、殿下へ見せる。
「これも、覚えていてくださったんですね」
「傘を預ける時に、店の人が残しますかと訊いた。ニカが結んだものだから、残してもらった」
彼の答えは、何でもないことのように早い。
私は、古い結び目が急に恥ずかしくなる。もっときれいに結べたはずだと思いながら、指を入れてほどく気にはならなかった。
「嫌なら替えよう。別の紐も、店にはあったよ」
「このままで、お願いします」
柄を両手で握る。私の手ごと包むように、殿下の指が傘を少し起こした。
縁へたまっていた水が、二人の間へ落ちる。
雨音がすぐ近くなった。竜の時には、あの小さな傘がどこへあるかも分からなかったのに、今は縁から落ちる雫を指で数えられる。
殿下は、明日の集合の紙を袖へ入れていた。
今日の午後だけは、呼び出す役を交代してもらえるという。
「市場の杏子売りの人が、新しい蜜漬けを作った。車を押して行けば、君も食べられると思う」
傘の柄を取った。
「歩くのは、まだゆっくりです」
「門から店までは僕が押す。店の前だけ、歩きたければ一緒に歩こう」
食べたい。
けれど、そう返してしまってよいのか、キリさんへ目を向ける。
彼女は濡れた手袋を外すところだった。
「市場へ行く許可は私に訊くな。足へ訊け」
左足へ目を落とし、つま先だけをゆっくり動かす。
痛みはある。でも、荷車で行って座るくらいならできそうだった。
殿下へ、蜜漬けが食べたいと伝える。
彼は二本目の傘を開いた。
私の小さな傘を、自分の頭から少し遠ざける。
「それじゃ、食べに行こう。途中で僕が何か頼まれても、今日は押すのを替えてもらう」
膝の上の袋は、古い皮のまま軽かった。
午後になっても、別の翼は入っていない。
傘の柄を握り、その袋を右の膝へ寄せた。




