第26話 白い鱗の下
十時五十五分に干し終えた皮が、風で一度ふくらんだ。
私も思わず肩を動かす。けれど、椅子へ座った体はそのまま。左足首は布の下で熱くなっている。
キリさんが皮を押さえ、台へ戻した。
あの白い鱗だけ、陽に透けて薄い。
そこへ、針を当てる真似をする。
「細かく縫えば、風は抜けませんよね」
「抜ける所だけ閉じるならな。引っ張ったら、この横が裂ける」
彼女は一度皮を寄せ、それを伸ばす。
鱗の白い下は、古い服の肘みたいに薄くなっていた。裂け目を閉じても、横へ力が掛かれば同じことになる。
私の部屋にある針箱を頼もうとしていた言葉が、途中で止まった。
キリさんは白い所を爪でこすらず、指の腹でそっと撫でる。
「何度も曲がった所だ。白くなったのは、厚い表が擦れて減ったからだろう。最初の頃は、下がまだつながっていた」
「私が、使い過ぎましたか」
「前から古かった。だが今日は、その古さで出来ることを越えた」
自分の左足を見る。
布の下へ、さっきより紫の色が広がっている。
両方とも、もう一周してから確かめようと考えた場所だった。
殿下が竜舎へ行こうと誘った。
モロへ皮を見せる前に、私の様子を見せたいという。私は歩くつもりで椅子を押さえ、立ちかけて痛みに止まる。
彼はすぐ脇へ腕を入れた。
「歩かなくていい。椅子のまま運べる人を呼ぶ」
「殿下のお仕事が」
「今は僕が呼ぶ係。呼ぶのは、そういう人もだよ」
手伝いの人が二人来て、椅子ごと運ばれることになった。
背もたれへしがみつく私を、殿下が笑わない。自分でも段差で足をすくめながら、前で道を確かめている。
竜になって運べば一度で済む、と思ったところで、膝の上に置いた皮の軽さへ気づいた。
今日、その皮を着ても左足は痛む。
左の翼が戻るわけでもない。
入口の敷居で椅子が一度止まり、二人の手が持ち直される。私はありがとうと言ってから、モロの影を見る。
いつもの場所で、彼女が眠っていた。
大きな腹が、ゆっくり膨らんでは戻る。
顔を上げたモロは、皮より先に私の膝を嗅いだ。
濡れた布の匂いが気になるらしく、鼻で端を押そうとする。
「そっちは私の足です。食べ物はありません」
鼻が椅子の下へ入る。
椅子の背を、両手でしっかり握った。昨日まで、自分が周りの人をこうやって覗き込んでいたのだと思うと、止まっているのに少し怖い。
殿下が酸っぱい杏子を一つ見せた。
モロの顔は、迷わず彼の方へ向く。
「やはり、足の布より杏子か。僕もその方がうれしい」
彼が投げると、モロは大きな口へ入れて噛む。
それから首を柱へ押しつけ、ゆっくり擦った。ぱらりと鱗が落ちる。
椅子を前へ寄せたくなった。
「新しい皮が、もう出ますか」
キリさんが柱の陰へ回り、首と背の境を見た。
浮いているのは小さな鱗だけ。肩全体を包む端は、まだ動いていないという。
「そのうち脱ぐ。明日かどうかは知らん」
それでも、祭までに間に合うかもしれない。
モロが鼻を振る度、私は皮の端が浮かないか目で追ってしまった。
彼女は杏子をもう一つ求め、殿下の袋へ頭を寄せる。
「そこにないから、首を入れても増えないよ」
袋の口をくわえられ、殿下の手が上がった。
そのままモロが首を持ち上げれば、彼は足を地面から離してしまう。私は声を出し、キリさんが袋を外した。
杏子の袋はモロの鼻の横に掛かる。
ひどく似合わない飾りを付けた顔に、殿下が笑い出す。
私も笑う。足へ響き、途中で顔をしかめた。
彼は袋を取り戻すと、私の椅子を少し離して置いてもらった。
隊長が、竜舎の入口で足を止めた。
手に持っていたのは飛行順の紙で、私の名前に線が引かれている。
私は膝の皮を押さえた。もう一度飛びたいと言うつもりはない。それでも消された文字を見ると、声が先へ出る。
「祭の地上の山まで、消えましたか」
「飛行の欄だけだ。地上の出演を決める紙は、ここにはない」
キリさんがその紙を受け取り、自分のものと重ねる。
「古い線のある皮を通した点検は、見直す必要がある。広く回れという指示だけで防げなかった」
隊長はすぐ返事をしない。
白い鱗の方を見てから、紙を机へ置く。
「飛ぶ者へ、形を変えた皮の状態をもう一度見せる。人間へ戻ってからの傷も記録する」
私へ視線が来たので、一周で降りず左へ曲がったことを、もう一度答えた。
キリさんはその言葉を、隊長の書いた欄へ足す。
紙の上で、事故は一つの理由だけにはならなかった。
殿下は私の足へ、新しい冷たい布を当てる。
「今朝の集合は僕も書き直す。ニカの名前がなくなった所へ、誰かの名前を勝手に足さないようにね」
私の出番を別の人がすることも、まだ決まっていない。
胸へ空いていた穴が、誰かで埋まるのを見ずに済んだことに、少しだけ息をついた。
竜舎へ、家からの手紙が届いた。
私が蜜の付いた顔の小札を送った返事で、封の端へ母の指の跡が残っている。いつも少し強く糊を押すのだ。
父の字は大きく、最初に書いてあったのは『頬を拭いてから描いてもらえ』だった。
小さく声を出して読む。
殿下が横から、描いてもらった順番が逆だったと弁護してくれる。
「蜜が付いてから描いたので、順番は合っています」
「そうだった。君の頬を先に拭けば、小札は違う顔になってしまう」
母は、私がよく食べているならよかったと書いていた。
絵の端に見える椅子の脚について、どなたと並んでいるの、とも。
紙を折りかける。
殿下の方へ向いた膝を、気づいて少し戻した。
「何か、僕に渡すことでも書いてある?」
「いえ。お母さまが、椅子をよく見ていて」
「椅子は絵描きさんのだ。借りたあと戻したよ、と伝えて」
彼は真面目な顔でそう言う。
説明すると、さらに訊かれそうなので、私は母の言葉の先を読むことにした。
庭の荷車を移した。空から見たいなら、前より広くなっている。
父の家の屋根が、そこにある。
朝には遮られずに見えた方角なのに、私は今、竜舎の入口から出るにも椅子ごと持ってもらわなければならない。
紙の端を爪でなぞった。
殿下は先を読まず、隣で黙っている。
「いつ帰れるか、まだ返せません」
「まだ決まらない、と返せる。庭を広げてくれたお礼も」
それなら書ける。
母の手紙を丸めずに畳み、袋へ戻した。
明日には飛べる、とは書かない。
祭までに飛べるとも、約束できない。
モロへ皮を広げて見せると、彼女は裂け目のそばへ鼻を当てた。
嗅いでから、すぐ椅子の陰の涼しい方へ顎を置く。
治してくれるわけではなかった。
私は左の白い鱗を撫で、そこから指を離す。
「地上で着ることは、できますか」
「翼を広げなければ。ただし足が治ってからだ。今、重くして立つともっと痛む」
二つの順番を聞いた。
皮が出るまで待つ。それとは別に、足も治す。
どちらかを先へ進めたら、もう片方もついて来るわけではない。
家への返事の紙を頼んだ。
殿下が持って来た紙は、祭の呼び出しに使ったものの裏だった。表には旗の人、と大きく書いてある。
裏に『食べています』と書く。
その下へ、足を少し痛めたから、帰る日が決まったら知らせると続ける。字が大きくなり、庭のお礼を脇へ足した。
殿下は、足の話を読み足して母を安心させようとはしない。
私が封をするまで、次の紙を渡せるよう待っていた。
帰る前、手伝いの人が別の竜の皮を教えてくれた。
隣の庭の灰色の竜は、何日か前に脱いだばかりだという。
「もし貸してくれたら、今の皮を急いで直さなくてもいいでしょう」
その庭の方を見る。
モロは、私の椅子の陰で目を閉じている。
新しい皮を早く脱いでと頼んだら、彼女は首を擦る時間まで私へ貸すことになるのだろうか。
その前に、別の竜へ訊いてみることならできる。
殿下が、帰りの椅子を持つ人を呼んだ。
膝の古い皮を畳んで、白い所を内側へ入れる。
飛べないままでも、今日の三時は来た。




